第10章 地下神殿の秘密
山でのフィールドワークから数日後。二人が訪れたのは、埼玉県の春日部市だった。先日のダムが「山を守る盾」
だとすれば、ここは「都市を守る最後の砦」
だ。
「首都圏外郭放水路。通称、地下神殿だ」
見学会の受付を済ませ、長い階段を降りていく。気温が下がっていく。湿度が上がり、コンクリート特有のひんやりとした匂いが鼻をつく。地下22メートル。そこに広がっていたのは、異界の光景だった。
「な……何これ」
ミズハが絶句した。サッカーグラウンドがすっぽりと入る巨大な空間。天井を支えるのは、高さ18メートル、重さ500トンの巨大な柱たち。それらが整然と立ち並ぶ様は、まさにパルテノン神殿を思わせる荘厳さだった。
「中小河川の洪水をここに引き込み、地下トンネルを通して江戸川へ排出する。世界最大級の地下放水路だ」
ケイの声が、広大な空間に反響する。他の見学客たちも写真を撮っているが、その話し声は自然と小声になっていた。この圧倒的なスケール感の前では、人間など蟻のような存在だ。
しかし、ミズハの反応は違った。彼女は柱の一つに触れ、何かに怯えるように身震いした。
「……ここ、神様がいない」
「そりゃそうだ。これは治水施設だからな」
「違うの。神社の社には神様がいる。ダム湖には沈んだ村の霊たちがいる。でも、ここには『何もない』の」
ミズハは自分の二の腕を抱いた。
「あまりにも巨大で、あまりにも空っぽ。純粋な機能美が生み出す、圧倒的な虚無。……ここに入った水は、自分の名前さえ忘れてしまいそう」
「機能的虚無、か。言い得て妙だな」
ケイは柱の足元に溜まった泥を見た。前回の稼働時に残されたものだ。
「だが、この虚無が都市を救っている。神頼みではない、物理と土木の力が……ッ!?」
突然、ケイの懐にあるタブレットが警告音を発した。同時に、ミズハが鋭い悲鳴を上げてしゃがみ込んだ。
「痛いッ!」
「ミズハ!?どうした!」
「聞こえる……下から、もっと深いところから……」
ミズハは床のコンクリートに耳を押し当てた。地下神殿のさらに下。大深度地下。
「悲鳴……じゃない。これは、歌?」
「歌だと?」
ケイはタブレットの画面を見た。地震計のデータには異常がない。マイクの波形も拾っていない。だが、ミズハだけが何かを感じ取っている。
「誘っているわ。こっちへおいでって……甘くて、重たい、腐った蜜のような歌」
「……まさか」
ケイの脳裏に、ある企業の名前が浮かんだ。『ジオ・フロンティア社』。都市再開発を手掛ける大手ゼネコンだが、最近、強引な大深度地下開発で噂になっていた。彼らがこの近くで、極秘のトンネル工事を進めているという情報を、大学の先輩から聞いたことがあった。
「ケイ、ここから離れなきゃ。あそこを開けちゃダメ」
「あそこ?」
「この神殿の下にある、**不透水層(ImpermeableLayer)**の向こう側。封印されている『水じゃないもの』が、目を覚まそうとしている」
その時、遠くの立坑――水を流し込む巨大な縦穴――の底から、ゴォォォォンという低い音が響いてきた。風の音ではない。誰かが、巨大な扉をノックしたような音。
見学客たちがざわめき出した。ガイドの係員が無線で何かを確認しているが、顔色が悪い。
「……撤収だ。嫌な予感が的中しそうだ」
ケイはミズハの手を引いて、階段へと走った。地下神殿の柱の影が、まるで生き物のように伸び、二人を追いかけてくるような錯覚を覚えた。




