第1章:アスファルトの窒息
―水の精霊が溺れ死ぬとしたら、それは海でも川でもなく、コンクリートの棺桶の中だ。呼吸ができずに藻掻いた指先が、冷たい護岸の壁を虚しく掻いた。
雨の匂いが変わった、と彼女は思った。かつての雨は、森の腐葉土と混じり合い、温かく湿った生命の芳香を放っていた。だが現代の雨は違う。それは埃っぽいアスファルトを叩き、排気ガスの油膜を浮かせ、鉄錆のような、あるいは古くなったコインのような、鋭利で無機質な臭気を孕んで空から落ちてくる。
視界が真っ暗だった。水流が早すぎる。
彼女――古よりこの地の水脈を司ってきたウンディーネであるミズハは、今まさに濁流に呑まれていた。精霊である自分が水に溺れるなど、かつてなら笑い話にもならない。しかし、現実は非情だ。手足の自由が利かない。身体を構成する霊的な水粒子が、汚染された都市の排水と混ざり合い、重く、鈍くなっている。
「……ッ、ごぼ」
口から吐き出したのは気泡ではなく、泥水だった。ここは川ではない。ミズハの記憶にある、あの緩やかに蛇行し、岸辺に葦が茂る美しい小川はどこにもなかった。今の彼女が流されているのは、四角く切り取られたコンクリートのチューブだ。底も、壁も、そして天井までもが灰色の人工石で固められている。暗渠。人間たちが利便性のために蓋をした、地下の川。
凄まじい水圧が背中を押した。自然の川なら、岩場や淀みがあり、そこで休息を取ることもできる。だが、こののっぺりとした人工の水路には「引っかかり」がない。摩擦係数を極限まで減らし、ただ水を排除することだけに特化したこの空間は、弱った精霊にとっては処刑場へのスライダーと同じだった。
(速い……止まれない……!)
流速が異常だった。空から降った雨が、土に染み込む暇もなく、アスファルトという不透水層の上を滑り、側溝へとなだれ込んでいるのだ。都市という巨大な漏斗が集めた水は、狂気的な勢いで地下へと収束していく。
ドン、と肩が壁に激突した。激痛と共に、身体の輪郭が揺らぐ。意識が遠のく。数百年生きてきて、最期がこれか。祈りを捧げる人間もいなくなり、住処をコンクリートで埋め立てられ、最後は下水と共に海へ吐き出されて消滅する。あまりにも、惨めだった。
その時、頭上の世界で微かな音がした。重い鉄の蓋が、軋んだ音を立てて引きずられる音。一筋の光が、漆黒のチューブの中に差し込んだ。
「――おい」
低い、男の声が響いた。光の筋の中に、黒い影が落ちる。ミズハは最後の力を振り絞り、その光に向かって手を伸ばした。伸ばした手は半透明に透け、指先から水滴となって崩れ落ちそうになっていた。
「そこに誰かいるのか?」
誰か、ではない。私は水だ。そう叫ぼうとしたが、声にならなかった。ただ、濁流に足を取られ、鉄格子のようなスクリーン(除塵機)に押し付けられそうになった瞬間、上から伸びてきた腕が、ミズハの手首を乱暴に掴んだ。
温かい。いや、熱い。人間の体温が、冷え切った霊体に焼き付くようだった。
「掴まってろ!今引き上げる!」
男の腕には、不釣り合いなほど無骨なデジタル時計が巻かれていた。ミズハの身体は軽いはずだ。実体としての質量は少女のそれよりも遥かに軽い。しかし、水流の抵抗が凄まじい重力となって二人を引き裂こうとする。
「くそっ、流出係数ナメてた……!」
男が悪態をつくのが聞こえた。意味はわからなかったが、彼が必死であることだけは伝わった。ミズハの視界が白く明滅する。世界が反転した。暗闇から引きずり出され、叩きつけられた先は、硬くてザラザラしたアスファルトの上だった。
激しい雨音が鼓膜を叩く。街灯のオレンジ色の光が、濡れた路面に滲んでいた。ミズハは咳き込み、肺に入った泥水を――概念的な不純物を――吐き出した。
「生きてるか?」
頭上から声が降ってきた。ミズハは顔を上げた。ビニール傘もささず、ずぶ濡れになって立っている青年がいた。歳は二十代半ばだろうか。黒縁の眼鏡は雨粒で曇り、着古したマウンテンパーカーは泥で汚れている。手には何かの計測機器と、防水ケースに入れたタブレット端末が握られていた。
彼はミズハの顔を覗き込むと、安堵するよりも先に、怪訝そうに眉をひそめた。
「……なんだ、君」
助けておいて、第一声がそれか。ミズハは憤慨したが、言い返す気力もなかった。自分の身体を見下ろす。足先が透けている。まだ実体化が安定していない。普通の人間が見れば腰を抜かす光景だろう。だが、男は悲鳴を上げなかった。彼はミズハの透けた足をじっと見つめ、それから手元のタブレットに視線を落とし、またミズハを見た。
「このマンホールの下の管渠は、三十年前の都市計画道路の地下を通る旧河川敷のバイパスだ。今の降水量と到達時間を計算すれば、人間が立っていられる流速じゃない」
男は独り言のように早口で呟くと、濡れた眼鏡の位置を指で直した。
「君、比重はどうなってる?質量保存の法則を無視してないか?」
「……は?」
ミズハの喉から、掠れた声が出た。感謝の言葉を述べようとしていた唇が、呆れで固まる。この男は、半透明の少女を前にして、幽霊や妖怪の類だと恐れるのではなく、物理法則の心配をしているのか。
「……無礼な人間ね」「喋れたのか。よかった、言語野は機能してるらしい」
男は無愛想に言い捨てると、着ていたマウンテンパーカーを脱ぎ、ミズハの肩に被せた。ナイロンの生地からは、微かに古紙とコーヒーの匂いがした。
「立てるか。ここは低地だ。あと十分もすれば、ここは冠水する可能性がある」「冠水……?」「ハザードマップを見てないのか?ここは浸水想定区域のど真ん中だ。さっさと高台へ移動するぞ」
男はミズハの返事も待たず、再びその細い手首を掴んだ。雨は強まる一方だった。都市の谷間で、行き場を失った水たちが咆哮を上げている。ミズハはその声を聞きながら、見知らぬ男に手を引かれ、灰色の迷宮のような街を歩き出した。それが、彼女の地理学との出会いだった。




