-禁書の行方②-
「それでは明日の朝、魔王城の屋上に集合しましょう。この件については私たちだけの秘密ということで」
フィルビスがそう締めくくると、吾輩とレオナは静かに頷き、吾輩とフィルビスはレオナの部屋を後にした。
※
廊下を歩く吾輩の隣で、フィルビスがちらりとこちらを伺いながら問いかけてきた。
「どうされました、ヴァミリア様? 何かお悩みでも?」
「いや、なんでもない」
そう答えたものの、心に引っかかるものがある。人間界に行けるという話は確かに面白い。だが、胸の内に何か不安な予感が渦巻いている。それが何なのか、吾輩自身でもはっきりと分からない。
そんなことを考えていると、隣にいたフィルビスが突然興奮気味に声を上げた。
「ところでヴァミリア様、今晩私とお風呂に入っていただけるのですよね!?」
「は?」
唐突な言葉に吾輩は思わず間の抜けた声を出してしまう。フィルビスは悪戯っぽい笑みを浮かべながら続けた。
「覚えていますよね? さっきレオナとの話の中で、『今度一緒にお風呂に入る権利をやる』とおっしゃったことを!」
「そ、それは今度であって、今日ではない!」
「ぐすん……ヴァミリア様にとって私は都合のいい女なんですね。いいですよ、私ひとりで寂しくお風呂に入りますから……」
フィルビスは大げさな演技を交えて涙を拭う仕草を見せる。その姿に、偽物と分かっていても何とも言えない罪悪感が胸をよぎり、吾輩は渋々折れることにした。
「わ、分かった。ただし、吾輩が自分で体を洗うから、貴様は何もしなくていいぞ!」
「ヴァミリア様! ありがとうございます! ですが、隅から隅までお手伝いさせていただきますね!」
「いや、やめろと言っている!」
その夜、吾輩はフィルビスの暴走から何とか身を守りつつ風呂を済ませ、翌日の準備を整えながら眠りについた。
※
翌朝、魔界の太陽が魔王城の屋上を照らし出している中、吾輩は屋上へと向かっていた。その途中、廊下の角で一人の人物と鉢合わせになる。
「ヴァミリア様ではありませんか。どちらへ行かれるのです?」
問いかけてきたのは吾輩の忠実な配下、グロムだ。彼の穏やかな笑みを見て、吾輩は一瞬「人間界に行く」と答えそうになるも、それをぐっと飲み込む。
「散歩だ! レオナと魔導書探しにな!」
少々強引な嘘だったが、グロムは疑いの目を向けながらもすぐに微笑みを取り戻し、こう言った。
「嘘か本当かはさておき、どうかお気をつけて」
その言葉に短く「行ってくる」とだけ返し、吾輩は屋上へ向かった。
※
屋上の扉を開けると、朝の強い日差しが視界を奪った。少しずつ目が慣れてくると、先に到着していたフィルビスとレオナが手を振っているのが見えた。
「準備はいい?」
レオナが尋ねる。吾輩は胸を張って答えた。
「問題ない!」
フィルビスがレオナに頼む。
「それでは、変身の魔法をお願いします」
レオナは頷き、杖を掲げて呪文を詠唱し始めた。次の瞬間、眩い光が吾輩たちを包み込む。魔族特有の赤い瞳や角が消え、人間そのものの姿へと変わる。
「フィルビス、翼が消えているぞ? 飛べなくなるが、それで大丈夫なのか?」
吾輩が問いかけると、フィルビスはにっこりと微笑む。
「ご気遣いありがとうございます、ヴァミリア様。でもこれは必要なことです。人間界で私の正体がバレてしまう可能性があるので、この方が都合がいいのです」
その言葉に納得した吾輩を尻目に、レオナはすぐに転移魔法の詠唱を始めた。巨大な魔法陣が屋上に広がる。
「レオナ、転移魔法が大きすぎる! 周りに気づかれるではないか!」
「もう遅いわ。転移先は自由の大都市、アステリアス王国。そこでまず情報を集める」
眩い光とともに、吾輩たちは魔界から人間界へと転移した。
※
光が消え、吾輩たちが立っていたのは大都市の中心だった。魔界の町よりもさらに大きく、にぎわう街並みが広がっている。
「ここがアステリアス王国か。どういう国なんだ?」
吾輩が尋ねると、レオナが歩きながら説明を始める。
「ここは勇者候補や冒険者が集まる大都市。そして人間界の中でも屈指の剣と魔法が発展した国よ」
「なるほど、だから冒険者風のやつらが多いのだな」
「あと、ここ私の出身地」
「え!? 今さらっと凄いこと言わなかったか!?」
驚く吾輩を無視して、レオナはある建物を指した。
「ここで情報を集めるわよ」
そこには「酒場」と書かれた看板がかかっていた。
レオナの言葉に、フィルビスは一瞬だけ目を細めて冷静に頷き、そのまま酒場の扉を押し開けた。
中に足を踏み入れると、そこは魔界のどの施設よりも殺伐とした雰囲気に包まれていた。長く使い込まれた木製のテーブルや椅子には傷が刻まれ、壁には冒険者たちの持ち込んだ剣や武器が無造作に立て掛けられている。鼻をつく酒の匂いと、何か焦げたような臭いが混ざり合い、場の緊張感をさらに際立たせていた。
吾輩たちが入った瞬間、ざわざわしていた酒場の喧騒がぴたりと止まる。酒を片手にしていた冒険者たちの視線が、一斉にこちらに突き刺さった。鋭い目つき、探るような視線、そしてどこか警戒する態度。その視線の中に、明らかに部外者を値踏みするような意図が込められているのを感じ取る。
「……随分と歓迎されているみたいだな」
吾輩は軽口を叩きつつ、内心はどこか落ち着かない。この場にいる全員が敵ではないにせよ、一瞬で殺意を剥き出しにしてきそうな空気を感じる。
「気にしなくていい。ここでは外見よりも行動が重視されるから」
レオナは吾輩の気持ちを察したかのように、さらりと言い放つと、そのままカウンターへ向かって歩き出した。その後ろ姿には、一切のためらいや怯えが見られない。
「さて、私たちも行きましょうか、ヴァミリア様」
フィルビスが小声でそう言いながら微笑む。その微笑みには、どこか楽しんでいるような雰囲気すら感じられた。
吾輩たちはレオナに続き、冒険者たちの重苦しい視線を背中に感じながら、酒場の中央をゆっくりと進んでいった。
吾輩たちに向けられた鋭い視線を背に、レオナは堂々とカウンターへ歩み寄ると、持っていた禁書を無造作に置いて、店員に向かって問い詰めた。
「この魔導書、見覚えある? 誰が持っていたか分かる?」
その大胆な態度に、カウンターの店員は目を丸くしながらも、言葉に詰まっている。しかし、レオナの尋問が続く間もなく、突然、後方から大きな物音が響いた。
「っ!?」
反射的に身を構える吾輩の目に飛び込んできたのは、テーブルがこちらに向かって飛んでくる光景だった。しかし、それが吾輩に当たる直前——
「危ない!」
フィルビスが前に飛び出し、片手でそのテーブルを軽々と受け止めた。彼女の力強さに感心する間もなく、怒号が酒場中に響き渡る。
「おい、テメェら! ここがどんな場所かも知らずに勝手なことしてんじゃねぇよ!」
怒鳴り声を上げたのは、筋骨隆々の大男だった。その背後では、他の冒険者たちが品のない笑い声を上げながら、フィルビスとレオナにいやらしい視線を送っている。
「お嬢ちゃんたち、俺たちと一緒にどうだ? そっちのガキは追い出してさ!」
その言葉を聞いた瞬間、フィルビスの目が鋭く光り、空気が一変した。
「貴様ら……」
低く呟く彼女の周囲に、圧倒的な魔力が集まり始める。怒りで震える声が酒場中に響き渡った。
「この私が忠誠を誓うヴァミリア様を侮辱するとは……貴様ら、その無礼、万死に値する!」
その瞬間、酒場の空気が爆発的に重くなる。フィルビスの全身からほとばしる魔力が、周囲の冒険者たちを圧倒していた。
「フィ、フィルビス! 落ち着け! そんなことで魔法を使うな! 吾輩はなんとも思っておらぬ!」
吾輩は慌ててフィルビスを止めようと声を上げる。すると、彼女の目に宿る怒りが徐々に収まり、やがて魔力の奔流も消え去った。
「申し訳ありません、ヴァミリア様……」
フィルビスは申し訳なさそうに頭を下げる。一方で、先ほどまで威勢の良かった冒険者たちは完全に怯えきっていた。
その静寂を破ったのは、レオナだった。彼女は動じることなく、再び店員に向き直り、冷静に尋ねる。
「それで、この魔導書について知ってることある?」
その無関心な態度に吾輩は唖然とするが、しばらくして、酒場の隅にいた一人の冒険者が手を挙げた。
「そ、その魔導書……似たようなものを、俺の仲間が持ってた気がする……」
レオナは素早くその冒険者に詰め寄り、鋭い視線を向ける。
「それを持ってたのは誰? どこにいるの?」
男は怯えつつも、どこか下心を抱えた表情でレオナを見つめる。
「そ、それは……お嬢ちゃんが俺にもっと優しくしてくれるんなら……」
男の手がレオナに伸びた瞬間——
「触らないことね」
甲高い音が響き、男の手が弾かれた。現れたのは、茶色いフードを深く被った人物だった。
「それ、禁書でしょ? 私なら、それを持っていた奴の情報を知ってるわ」
彼女の声は冷静で、どこか芯の強さを感じさせた。その一言に、酒場中がざわめく。
「禁書だと……!?」
冒険者たちが騒ぎ出す中、フードの人物はレオナの手を引いてささやいた。
「ここじゃ騒ぎになって監視者が来る。外で話すから、ついてきて」
レオナは彼女の言葉に従い、素早く酒場を後にする。
「追うぞ、フィルビス!」
「はい!」
吾輩とフィルビスは急いでその後を追いかけ、酒場の外へと飛び出した。