ベルナンドの脱走
ヒルダがここに勤め始めたきっかけは、ベルナンドが生まれたことに依る。ヒルダの母は庶民だった王妃の親友で、当時、奉公先を探していたその娘がヒルダだったのだ。だから、本当はあり得ない場所で過ごしている。
そもそも、ヒルダはティリカ出身ではないのだから。
ただ、出産で不安になっているその王妃のそばに、心安い誰かをと探していただけで、弟の世話もよく熟すヒルダに白羽の矢がたっただけ。
母一人、子二人のヒルダの家族にとって、それはとても幸運だった。
そんなヒルダがベルナンドを呼んでいた。
「殿下」
扉に呼びかけても返事はない。ヒルダは首を傾げる。この時間は部屋で自習をされているはず。
「殿下、国王陛下がお呼びです」
今日は亡き妃殿下のお墓参りの日なのだ。傍にはジョンの墓もある。だから、ベルナンドがそれを忘れているとも思えない。
今の王妃と彼の関係が悪い訳ではないが、ベルナンドはこの国王とふたりだけの墓参りをとても楽しみにしているのだ。まだ幼い腹違いの弟に気を使わずにいられるからだろう。
どこか、壁を作って、作り笑いをする。自分を卑下する。そんな必要ないのに。本人も気付いていないくらいに、明るくなろうとする。
五年前、ベルナンドの母君が亡くなったのは、彼を庇ったから。
ベルナンドの小さなお世話係として彼女の側で控えていたヒルダは、今でも当時を鮮明に思い出すことができる。ジョンの声に慌てて駆け寄ったヒルダの目に映った光景は、とても残酷だった。
彼の傍にいたジョンは吠え続けていた。
彼の傍には王妃の履いていた緑の靴だけが落ちていた。彼らに付いていた護衛は、無惨な姿を晒していた。
「母上が……」
食べられた……。
「殿下、眠ってらっしゃるのですか? 開けますよ」
思えばあの頃から竜の異変はあったのだ。
人の多い城下で。王城の裏庭に魔物が飛んできたのだから。竜の庇護が大きくあるはずのティリカリカに魔物が飛んできたという時点で。
はぐれ魔物だと決めつけず、ベルナンドにもっと詳しく聞いておけばよかったのだ。
竜の被害が大きくなり始めても、民衆が竜を討伐対象として意識できなかったのだから、対策が後手に回っているのだ。
神を邪神に落とすは難しい。それを竜の血を引くとまで言われるティリカ王が、民を無視してできるはずがなかった。
しかし、ベルナンドの母は竜に食べられたのだ。幼い彼がたった一度だけ、「りゅうが……」とこぼした言葉だった。
神聖な竜が人を食べたなど、ベルナンドにとっても信じがたいことだったのだろう。もちろん、当時の大人達も。
そして、ヒルダの声が震えた。
「殿下? どこにいらっしゃるのですっ」
最近は、特にあのフィアという少女に出会ってからは、少しその表情の陰も薄らいだと思っていたのに。
〇
ティリカリカの城下を少し抜けた場所が騒がしい。そこは関所に向かうまでの広い道に至らぬ茂みだった。茂みを掻き分ける音とたくさんの足音だけが暗闇に響く夜。ここにきてやっと、ベルナンドはことの重大さに気付いていた。
まず、ベルナンドは自身をそれほど重要人物であると思っていなかったのだ。立場上、重要人物だろうけれど、いなくなったとしてもそれほど大して探されることもなく、ただ太子という首を弟にすげ替えるくらいだと思っていた。それなのに、城下を完全に出ることもできないくらいに、国の兵士達がベルナンドを探しているのだ。
そして、ベルナンドの傍には同じく頭を抱えるオズワルトがいた。
その彼に少し申し訳なく思ってくる。
置き手紙も置いてきたし、問題ないから……。
と励ましてはみたが、全く効果はなかった。
「オズ……ごめん」
「いえ、心配だから付いていくと決めたのは、自分です」
気丈に返事をくれたオズワルトはヒルダの弟で、騎士見習いの見習い中で、一応ベルナンド付きとされてある。二つ上ではあるが、城内で年齢が一番近い友達のようなものだった。
だけど、こちらでもベルナンドの立場が彼をどん底に陥れてしまっているようだった。
「いらっしゃったか?」
大きな男の叫び声と灯りにふたりして縮こまる。だが、兵士の持つ陽鉱石の光は頭上を通り過ぎ、消えていく。
「大丈夫、オズは僕が護るから」
「いえ、私がベルナンド様を護るのです」
オズワルトは変に任務に頑なだ。だけど、父上なら大丈夫、オズをお叱りになら……ない……はず……。
ベルナンドも実際のところ分からないのだ。父であるバルジャミンと話をする機会などほとんどなく、母上の墓参りの時でさえ、「息災だったか?」「はい」のやり取りくらい。皆が父を慕い、良いお方だと言うから、そう思っているだけで。
辺りが静かになった。この辺りの捜索は終わったのだろうか。そう思い、ベルナンドがこっそりと頭を上げると、鬼が立っていた。息を潜めていた鬼の陽鉱石がぱっと輝きだす。
「わぁああっ、お、お、オズ、鬼っ」
その声にオズワルトも立ち上がり、反射的に腰の刀に手を遣った。が、鬼ではなかった。鬼の形相でベルナンドを見ているヒルダだ。オズワルトにとっては鬼よりも手ごわく、怖い相手かもしれない。そのヒルダが思い切りオズワルトに睨みをきかせ、突然叫んだ。
「ソフィアさまー、いらっしゃいました」
呼ばれたソフィアがヒルダよりもずっと恐ろしく、鬼の親方よろしく不機嫌な顔をして、現れた。おそらく、フィアが「ジョン、心配したんだよ」と顔を出さなかったら、殺されていただろう、とベルナンドは深く思った。