別離(オズワルト)
誘拐サーカスや拐かしのサーカス。そんな風に呼ばれる二年前のあの事件は、ティリカでも大きな話題に上り、ほぼ国中に響き渡っていた。そして、その背景にはヒェスネビが関係していたことも。
だから、戦火が上がった時、人々は歓声を上げたのだ。
これは、悪を征するための聖戦だと。
しかし、聖戦などではない。単なる国同士の戦なのだ。そうなるだろうことは分かっていた。回避させようと手を尽くしたのだ。しかし、陽鉱石の出現率の高いティリカに、ヒェスネビの渇望の深さは理解できないのだろう。
開戦のすぐ後から、ベルナンドに国務を任せたバルジャミンは前線に立つことを選んだ。
勝たねばならぬのだ。
「君ならきっとそう申し出てくるんだろうな、とは思っていたよ。だけど、『最前線』の希望は入れておくけど、最初は後方からだ。後は自分で伸し上がっていってくれ」
ベルナンドは羊皮紙にサインを入れた。
「でも、いいか。君が死ぬのは僕の後。忘れないでくれよ」
それは、この戦が終わったらと話をしたことがあるからだ。
「いいえ、前線に立つのです。私が死ぬ方が先ですよ、殿下。姉はヒェスネビを選び、私はティリカを選んだだけなのです。何度も言っていることです」
オズワルトの表情は柔らかかった。彼女と話した詳しいことは、ベルナンドには伝わっていない。
オズワルトが天幕でヒルダを見つけた時、姉は、その覚悟を持っていた。いるかもしれないとは思っていたが、出会ったのは偶然だった。
いや、ベルナンドはその可能性すらも知っていた。彼から姉のことは聞かされていたのだから。ヒェスネビに戻ろうとしていたことも、かの国との密通があったことも。サーカスの馬車に紛れることだって、可能性として入れられる。
しかし、城の外に出られない彼はオズワルトにこうも伝えていたのだ。
暇は認めない。戻ってこいと、伝えて欲しいと。
きっと、あれが最後の機会だったのだ。そう、最後のチャンスだったのだ。疑わしきは黒とされている中での、最後の……。あのサーカスがヒェスネビに戻る最後の機会であったように、ティリカに戻る最後の機会だったのだ。
あの矢は、姉の返事を待つようにして、放たれたようにしか思えなかったのだから。
オズワルトができたことは、説得することだけだった。それができなかったのだ。
共に行く、そんな答えは、オズワルトの中にはなかったのだから。ヒルダもそれを望んでいなかったのだから。
ただ……。
オズワルトは強がるベルナンドの苦い表情を見つめる。
悲しみはあるが、憎しみはない。いや、それも嘘かもしれない。だが、あの時点ではどうしようもなかったのだ。オズワルトもベルナンドも今よりもっと、何もできなかったのだから。
あの時、その罪を、ベルナンドが引き受けただけで。誰かが、同じ運命を進めていた。
もしかしたらもっと悲惨な顛末だったかもしれない。回収されたヒルダは、サーカスの者たちとは別の部屋にあったのだから。そう、綺麗に寝かされていた。
彼女は病死……だったのだ。
そう、病死。母は姉の真実を知らないまま、ヒルダに縋った。オズワルトは、その母を見つめるしかできなかった。
だからなのか、あの日から、どこか、全てに靄が掛かっているようで、湿気った空を眺めているようで。
ただただ空虚なだけで。ベルナンドのことを、子どもの頃通りには見られないというだけで。それなのに、いつも自分を偽るように強がるベルナンドを放っておけなかった。
関わっていた時間を考えれば、ベルナンドの方が確実に長く姉のそばにいたのだ。
「あぁ、道中どこかでセナに良さそうな姫君がいたら、知らせてくれないか? 父上は今それどころじゃないだろうし。義母は僕に気を遣うし」
セナとは第二王子である異母弟だ。
「それは、あなたが先でしょう?」
「いや、だから、僕は」
この戦が終われば太子の座はセナに譲り、ベルナンドは補佐に回りたいと思っているのだ。新たな国王は、未来を見つめられなければならない。過去に引きずられてしまうベルナンドは、ここに残るとしても補佐くらいがちょうどいい。だから、『王太子』はいわゆるセナの盾のような、そんな名称くらいにしか思っていないのだ。
そして、オズワルトが受け取らない約束のためにも。
「この戦の後、下りるから。父にも許可は取っているし、セナもその準備をしているし」
どうなるか分からない未来に、負けるわけにはいかない戦に、バルジャミンがセナを教育していく方針なのは知っている。だが、それは、ベルナンドが不必要だからではない。
しかし、オズワルトはこの鬱陶しすぎる彼の罪悪感から逃げたかったのも確かだ。フィアのこともあったから、今までここにいただけで。
オズワルト自身どれが真実なのか分からないのだ。
「分かりましたよ。セナ殿下と良い年頃の姫君を見つけたら、ご報告差し上げましょう。あなたが一番陛下に似ておられます。本当に頑固で困ります」
前線で指揮を執っているバルジャミンも同じなのだ。誰もが反対する中、ここはベルナンドに任せる準備はできていると、誰の言葉にも耳を貸さなかったのだから。
「これが最後の手紙だそうです」
オズワルトが胸の内ポケットから一通の手紙を取り出した。
「数日後に小屋を出て行くそうです。フィア、綺麗になりましたよ。もう、可愛い子どもじゃない」
会いにいきませんか?
その言葉はオズワルトの中に留め置かれた。
しかし、オズワルトの言葉で寂しそうに目を伏せたベルナンドは、吹っ切るように笑った。
「そっか、もう、十六になるんだよね。自分の道を自分で歩ける。オズ、今までありがとう」
手紙の中には花が一つ入っていた。
あの日、フィアが髪に飾っていた赤色の花と同じものが。