暗転のサーカス②
オズワルトが人の流れの先に消えてしまって、ぼんやりしていたら、ピエロがやってきて風船をくれた。
「お嬢さんもどうぞ」
水色の風船だった。
水色はもしかしたら、小さな子に人気がないのかもしれない。
「ありがとうございます。サーカス楽しかったです」
フィアはにっこりと笑った。ピエロは大袈裟にお辞儀して、喜びを表現してから、去っていった。
ゆっくりと考えてみれば、サーカスにキメラを使っていたとしても、魔物をキメラにしても別に犯罪というわけではない。魔物を大人しく調教するために、キメラにしているだけなのかもしれない。
竜のにおいがした、というだけでフィアが騒いでしまっただけで。
だから、オズワルトは一人で行ったのかもしれない。フィアが大袈裟に騒いでしまわないように。オズワルトはもう大人だから。
ベルナンドも王様の仕事を手伝うようになったと聞いている。
フィアだけまだ子どもだ。
水色の風船を眺める。そして、首を傾げた。風船のひもを持ったせいで、よく分かるようになったのだ。
なんだか、複数の魔法がある気がする。風船を飛ばすだけなら、こんなに複雑に組み合わせたりしないはずなのに。あるのは風と火。それから幻術?
「何これ?」
風と火までは、まだ分かる。だけど、幻術は必要ないし、破っておいた方がいいかもしれない。
百歩譲って、楽しかったと思わせるため?
ピシっ
楽しいと思わせなくちゃならないような、そんな嘘の思い出はいらない。
「アミン。アミーン」
子どもを探す両親の声が聞こえた。そして、近づいてくる。耳をすませば、他にも誰かを探す声。今まで聞こえてこなかったのに。誰かを呼ぶ声が耳に付き始める。
人探しをする人たちに気づくと、そんな彼らが思う以上に多いことにも気が付いた。それなのに、誰も気づいていない。手伝おうともしない。ただ楽しそうに、風船を持って。お土産の袋を持って。
ふと、見知った魔力を感じた。夜の空に光の矢が、すっと走って、オズワルトがいるだろう天幕へと落ちていった。とても、静かに。
胸騒ぎと共に立ち上がる。
あれは、……。
フィアが立ち上がると同時に、笛の音が聞こえた。
警備兵のものだ。笛と同時に、「動かないでください」という叫び声も聞こえてくる。それでも、フィアは走り出した。天幕へ。
激しく吹かれる笛は、フィアに向けて。
「止まれ!」
止まったら、行けない。オズワルトのいる天幕に向けられた、ベルナンドの魔法の矢。
あんなの、ベルの魔法じゃない。ベルの魔法はもっと優しくて、もっと楽しくて。
確かめなくちゃ。
天幕の垂れ布をくぐる。竜のにおいが胸の奥までしみ込んでくる。大きな黒い檻の中にキメラの竜がいる。腹部がやけに動いている。まるで胎児がお腹を蹴り飛ばしているような。立ち尽くしてしまう。なんなのだろう、これ。あの時の、あの竜に似ている。
ベルナンドを呑み込もうとした……。
「フィア?」
小さく尋ねられた声に、顔を向けるとオズが突っ立っていた。
「オズっ」
その手には刀。足元に誰かが体をくの字に、倒れている。誰? 顔が見えない。……女の人だ。
だけど、次の句は出せなかった。
「なぜ逃げたんだ?」
後ろ手に拘束されて、問われたのだ。フィアを追いかけてきていた兵のひとりだ。他にもたくさんいる。
逃げたんじゃない。ここに来たかったの。でも、オズにちゃんと聞いてからじゃないと。
国の兵がフィアを捕まえていた。増えてくる兵がフィアの視界を悪くする。フィアは大きくかぶりを振った。オズワルトが歩き出す。だけど、目が合わない。
「オズ、あれは誰? この竜は何?」
乗り出すフィアへの拘束が強くなった。そして、オズワルトに近づく兵。
「痛いっ、嫌だっ。放してっ。オズっ、どこ行くのっ?」
しかし、オズワルトは、フィアに一瞥もくれず天幕からいなくなり、その彼の後を追うようにして、フィアも天幕の外へ引きずり出された。あれだけ明るかった外が薄暗いのは、提灯が落ちてしまっているから。
その代わり、提灯から飛び出してしまった陽鉱石が、あの時のコォノミのように、大地に散らばっている。
さっきまでなかった幌付きの馬車は、国のもの。その中には、サーカスの団員たちが詰め込まれている。喚く者はいない。殴られたのか顔の腫れている者もいた。彼らの手首は、同じ縄が縛っている。逃げられないよう、つないであるのだ。
フィアの手首にも縄がある。
そして、警備兵の乗ってきていた馬に乗せられていた。捕まった時に落としてしまった帽子も頭に戻されている。髪は解けてみっともないけど。リリカの花もどこかに落としちゃったけど……。きっと、彼らと同じではないとは思われているのだろう。ただ、言うことを聞かなかった子どもなのだろう。
捨ておくには大きすぎる子ども、なのだろう。
きっと、手首を縛られているのは、さっき暴れたから。
魔法を使えば……。ほんの少し火を付ければ……。
だけど、そんなことはできなかった。声をかけてしまったオズワルトに迷惑がかかるかもしれないから。
そばには無言の警備兵がフィアを見張っている。何が起きているのか、何が悪かったのか。空を見上げた。月すらない空。だけど、ひとつ。
騒動に乗り遅れてしまった水色の風船がひとつ、寂しそうに空に向かっていく。
無力さに涙がこぼれた。
☆
真っ黒な伝令鳥が降り立ったのは、ティリカ城の屋上庭園。城下を見渡すにはちょうど良い場所だった。
そこに、マントのフードを目深にかぶった若い男が弓をつがえて立っていた。フードからわずかに見える薄茶の髪が風に吹かれる。
「殿下」
よく見れば、その指は夏の夜風に震えていた。しかし、その声を合図に、弓の弦がぐっと引かれた。
つがえた矢に、魔力が帯びる。
矢は同じ魔力の片割れを求めるようにして弾かれ、迷うことなく夜闇を切り裂いた。
遠くに消えた光。ただそれだけ。静かだった。
「見届けました。殿下も早くのお戻りを」
淡々と告げられる言葉は、まったく耳には入ってこない。ただ、その声の主が消え去った後に、彼は崩れ落ちた。
こんなことのために。
震えの止まらない指先を握りしめる。自分で決めたことだ。話をする機会が欲しいと。その上で彼女が説得に応じず、ヒェスネビに戻ると決めたなら。
何があっても逃亡は無理なのだ。どうして応じてくれなかったのだろう……。
こんなことのために、頑張ってきたのではない。
ただ、笑顔が見たくて。
それなのに、その笑顔を泣き顔に変えるしかできなかった。
それは、ティリカとヒェスネビ戦の火蓋が切って落とされるまで、一年を切った夏の夜の出来事だった。
そして、ティリカとヒェスネビとの関係が絶たれた、そんな残酷なサーカス最後の一日が終わった。