ひび割れる音がする
長い廊下に続く、ガラスのない窓。その外にある太陽が、石の窓枠を焼いていた。夏と冬の寒暖差の激しいティリカの廊下は、夏は暑く冬は寒い。部屋には陽鉱石含めた、魔道具が並んであるために、過ごしやすいのだが。
そんなことを思いながら、黙ってベルナンド付きの執事の後に続く。オズワルトが呼び出された理由は、知っていた。
「殿下、御連れ致しました」
廊下と同じく石造りの壁に、樫で造られた重厚な扉を執事が叩く。
「入れ」
その言葉遣いに、くすぐったさすら感じられる、まだそんな声色がその中から響いてきた。開かれた扉に入るのは、オズワルトのみ。一礼した執事はそこで退室し、オズワルトは一礼して、入室した。
そこには、やっと座っているようなベルナンドがいた。彼は十六歳になった春の終わりに、バルジャミンの補佐的な仕事を任されるようになっていた。そして、一年遅れている理由は、やはりベルナンドの体質のせいだ。
慣例で言えば、十五歳で成人と見なされるのだから。
「ベルナンド様、大丈夫ですか?」
オズワルトがベルナンドの部屋に通されると、青い顔をしたベルナンドが肘掛けにもたれて座っていたのだ。
「大丈夫。慣れるまでの辛抱だから。ここで会うのは久しぶりだね……あぁ、でも、話はしたか……」
言葉遣いは少し崩れているが、この日から正式に城の中で、主にベルナンド付きとして働くことになっているオズワルトに、呼び名の強要はしなかった。そして、この面会が正式なものである証明として、オズワルトの愛称も使わなかった。
それはベルナンドにとって当たり前に来るべき日であり、できればずっと先延ばしにしたかった日でもある。
「着任早々、嫌な役目で申し訳ない」
「いいえ。他に任せたくはありませんから」
その答えを聞いて、力のない微笑みでオズワルトに応えた。
「フィア、大丈夫そうだった?」
「えぇ。まぁ、下女たちの暇つぶしにはされているようですが」
ベルナンドはやはり力なく笑う。噂なら知っている。
激しい魔力酔いのために、フィアに会いに行くことができなくなってきているということが、良い方に働いていくのかもしれない、ということに皮肉めいたものを感じたのだ。
バルジャミンが言った。戦は避けられないかもしれないと。自分はそのための準備を始めると。だから、ベルナンドには、この国で起きている『人さらい』についてを調べるようにと命じたのだ。
できれば、核心は誰にも知られずに。
確かに、それは魔力を粒子として操れるベルナンドには適任だった。後を追いたいものに、少しだけその粒子を纏わせておくだけで、今どこにいるのかが分かるのだから。
そして、その拐かしには山向こうにあるヒェスネビ皇国が関係している。昔から隣国ということもあり、人の流れも多い国だ。王城につながりのある者もいる。だから……。
しかし、ティリカは誘拐が起きない国ではない。
貧しい者が貧しさゆえに、人を売ることすらある国でもある。
金持ちには手を出さないため、大事になりにくいというのも隠れ蓑になっているのだろう。
もちろん、国として取り締まってはいるが、後を立たない。となれば、取り締まりなんて、言い訳に過ぎないのかもしれない。
だが、今までとは別の流れがないかを探れと、言われた。上がってくる調査書を見ていると、行方不明者が増える波があったのだ。届け出があるだけでも分かるほどの波だった。
「サーカスには誘いました」
「楽しいサーカスだといいんだけど」
ベルナンドはフィアと同じ年の頃、オズワルトと一緒に見に行ったサーカスを瞼の裏に映しながら、フィアに申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
自分のサーカスの思い出は楽しいものなのに、あの時、招待状を譲ってくれた彼女には、辛いサーカスになるかもしれないのだ。
自分が行けないということに、むかっ腹が立った。
父には何度も自分が行くと言ったが、それは許してもらえなかった。理由はベルナンドがまだ強い魔力によって、朦朧としてしまうからだ。いくら、魔力操作がうまくなっても、副産物として小さな攻撃に転じることができるようになってきたとしても、根本的な弱点は克服できていないのだ。
それに比べて、フィアは……。
「フィアは、もう暴走しない」
ベルナンドが感じるフィアの魔力は膨大で、それなのに、とても凪いでいて。
風一つない大海のようだった。それは、ソフィアのものにも似ていて、また別のような気もする。
だから、本来ならばこんな場所に縛られる必要なんてもうないのだ。
「指南役の魔法使いからのお墨付きもある」
ベルナンドは背筋を伸ばして、腰をかけ直した。これは、ティリカ第一王子ベルナンドとしての命令だ。もう、逃げられない。
「頼んだよ」
オズワルトは、胸に手を当て、忠誠を誓うためのお辞儀を深々とした。
オズワルトに与えた任務は竜のキメラの所在確認とフィアの護衛。
『竜』に敏感に反応するだろうフィアは、打ってつけの役目になる。
そして、放たれる魔力が誰のものなのか、確実に分かるから。
分かっていて、欲しいと思ったから。
オズワルトには、フィアであるもう一つの理由を知らせていない。
〇
サーカスの日、フィアは嬉しそうにこう言った。
「オズ、見て。ヒルダがね、可愛くしてくれたの」
髪が目立たなくなるための大きな帽子をわざわざ脱いで、綺麗に編み込まれた髪を見せる。
髪には小さな花が飾られていた。
赤色の、小さな花束のようなティリカの花、リリカが。