ベルナンドの魔法の剣
秋の空は高く高く、冷気を含みはじめ。森は彩り豊かにわが身を飾り、誇らしげ。
天を飾る満月は大きく、その空に澄み渡る輝きを広める。
今夜はソフィアのいない日。魔女会の会議に行ってしまうのだ。だから、フィアはそっと外に出る。
蒼い光に染まった丈の短い草花が、夜の静けさを吸い込んでいた。緑を蒼い色に深め、風に僅かそよぐように。虫の声が遠くから、その風に頼りなく乗せられる。
夜露に足を濡らしながら、フィアはソフィアの張った結界ぎりぎりまで歩いて行く。
『フィア、これは境界だ。雨と風以外は入ってこない。だから、そんな力、早く手放して元の道へ戻れ』
フィアの中にあるらしい、ソフィアの魔力の一部。そのせいで、フィアの髪は白いのだそうだ。だから、ソフィアが言ったのだ。だから、ソフィアはフィアのそばにいる。
『だから、いつまでも魔法になんて憧れないで、私に返しなさい』
と。
憧れているから返したくないのではなくて、返せばソフィアと一緒にいられなくなる。だから、返せないのだ。フィアはそれを言えない。そんなことを言っても、きっと、ソフィアはフィアを馬鹿にするだけだから。
夜風がフィアの髪を流していく。頬を撫でていく。冷たいけれど、怖いものではない。
『フーではないんじゃない?』
それでも、ソフィアがフィアに魔法を教えてくれる時、それはいつも真剣だった。
多分、風はあの時の恐怖のイメージ。
人を吹き飛ばし、建物をなぎ倒し、逆巻く風に攫われて。
うめき声を、叫び声を、悲鳴を。
全部風の中に呑み込んで。
轟音を立てて、全てを滅茶苦茶にした。
気づけば、フィアの泣き声しか響いていなかった。酷い言葉をかけられたけど、ソフィアはそんなフィアの頭をやさしく撫でてくれていて。
「いい加減、泣き止んでよ」
と困っていた。
魔法をうまく使えなければ、ソフィアはいつかフィアの中からその一部を無理やり剥がして、どこかへ行っちゃうかもしれない。
風を感じる。ちょっと冷たいけれど、怖くないもの……。イメージする。『息』じゃなくて風を。
「フィア?」
誰かの気配の後にあったのは、ベルナンドの声だった。
「どうしたの? あ、起こしちゃったのかなぁ……」
寝床をこっそり出てきたつもりだったけど、もしかしたら物音を立てていたのかもしれない。
「ごめん……」
しゅんと頭を垂れたフィアにベルナンドが、慌てたように続けた。
「違う違う。ほら、ソフィアがいない夜ってなかなかないでしょう? だから。ソフィアって、夜、外に出るの怒るでしょう? 危険なのは知ってるけど、ちょっと空を見たいこともあるし、結界の中くらいならっていつも思ってて……だから、フィアのせいじゃないよ。フィアがいてびっくりしたくらい」
そこまで言って、フィアを眺めたベルナンドは、声をかけた理由を思い出した。
「魔法の練習してるの?」
「うん、でも、うまく風を感じられない」
フィアの言う『風』に込められた寂しさは、ベルナンドに、フィアの生い立ちを思い出させ、自分の過去を蘇らせた。そして、その気持ちが痛いほどよく分かったのだ。
護衛を襲った飛翔魔物と、自分を守ろうとした母が竜に食べられた時。
ベルナンドは、自分では立っていられないくらいの風を感じたのだ。風が止んだ時は、母が覆いかぶさった時。ぬくもりが消えた時は、大地の揺るぎがなくなった時。
目を開けた場所にあったのは、死んだ護衛と、母の片っぽの靴だけ。
どうやってもあの時の恐怖は蘇る。
だけど、……。
「ちょっと待ってて」
ベルナンドは納屋まで走っていった。納屋には王家の赤馬が一匹と、たくさんの藁が積んである。そこに、ベルナンドの剣が忍ばせてあるのだ。オズワルトだけが知っている。ヒルダやソフィアに見つかると、きっと取り上げられる。
きっと、父がそう命令しているはずだから。
藁を掘り返すと、柄がひょこっと現れる。にんまり笑ったベルナンドがそれを引っこ抜き、納屋を出て走り出した。
「見てて」
月明りに刀身が閃く。ベルナンドがふーっと息を吐くと、刀身の色が赤に染まる。そして、揺らめく。
「これはなんだ?」
「……火?」
「正解」
「どうやってるの?」
フィアはその不思議に興奮しながら、目を丸くするが、ベルナンドは教えてくれない。ただ、ニコッと笑い「じゃあ、次」と言って、水色の光を映した。
そうやって別の色を刀身に移す。その都度、「なーんだ?」と尋ねられ、答える。答えはどれも自然のものだった。何度目かの時に、緑がささやくような、そんな色に変わった。
「音を聞いて」
さやさやと頬を撫でる薫風。風が緑を揺らし、光をこぼす。そんな時に聞こえる音。実際の聴覚に響いてくるのではなくて、その色から思い起こされるような、音があった。
「かぜ?」
「そう」
次はなかった。ベルナンドは刀を下ろした。
「僕ね、ほんのちょっとだけ魔力があるんだよね。だけど、魔法になるほどじゃなくて。鏡とかこの刀みたいな物を映すものに、イメージするものの色を映すことだけできるんだ」
「すてき。ジョン、かっこいい」
フィアは単純に今に感動していた。とても綺麗だったのだ。だけど、ベルナンドはほんのり笑っただけで、続けた。
「でも、例えば」
もう一度同じように静かに上げた刀身には、禍々しい赤と黒、それを取り巻くような灰色が渦巻いていた。
「これも、僕の風のイメージ。魔力が小さすぎて暴走することなんて絶対にないんだけど、嫌な色でしょ」
絶対にない。だけど、この色はベルナンドの心を深く深く、傷つけていくのだ。
だから、父は鏡面になるものをベルナンドに持たせないようにしている。
色が消えた。ベルナンドが刀身を下げたのだ。
「魔法はイメージって、言われているでしょう?」
フィアはベルナンドの言葉に頷く。
「同じ風でも別の色になるんだ。フィアもいろんな風を知っていると思う。例えば、風に乗ってくる子守唄とか、風に乗ってくるお菓子の匂いとか」
ベルナンドが微笑んでフィアを眺めた。フィアの番なのだと思った。
「あ、風に揺れる洗濯物、風に揺れる花、虫の声を運ぶのも風……えっと、走った時に顔に当たるのも風で、シャボンが空に……」
フィアがそう言った時にふわっとシャボンが膨らんだ。飛んでいく。驚くフィアにベルナンドが笑う。
「きっと、それがフィアのはじまりの風のイメージ。フィアはそこから大きくできるでしょう?」
フィアの魔力がベルナンドよりも大きいことは彼も知っている。その魔力がどんどん大きくなっていることも、気づいている。そして、その魔力の匂いは、母と同じもの。
陽光の魔力。
白き乙女が持つとされるもの。
もちろん、自分よりも小さなフィアに国を救ってもらおうとは、もう思っていないのだけど。
王家に生まれて、そんな母を持つ自分にできることは何なのだろう、と思っているのだけど。まだどうすればいいのか、分からない。
竜を倒せる誰かを探すのではなく、別の何かを探している。
「お母さんと一緒に洗濯したの。その時にふーって吹いて、いっぱい飛ばして……楽しくて」
フィアの言葉が止まる。
ベルナンドもしゃべらない。
薫風は母と歩いた散歩道にあったもの。この小さな魔法も、母から教わったもの。
「お母さんに、会いたいよぅ」
堪らなくなってしまったフィアは、自分の漏らした言葉と同時に泣き出してしまった。そして、ベルナンドも「うん、会いたい」とだけしか続けられなくて、満月の下でただ静かにフィアと一緒に座っていた。