夏の日の洗濯
春は夢霞の中。だけど、夏の風は緑の匂いを深く、その存在感を顕にする。草花は世を謳歌するようにして、意気揚々と色を深めるのだ。そして、秋に実りをもたらすために、たくさんの太陽の光を吸い込んで、その成熟を待つ。
風はそれを人々に知らせ、射し込む光の机には書きかけの手紙があった。フィアには読めない文字ばかり。ソフィアはいなくて、お兄ちゃんふたりもお稽古と言って、少し離れた広い場所で剣を振り回してケンカごっこをしている。
なんとなくつまらない。
だけど、今日もいい天気だ。
フィアは、外に出て、小屋の周りを見回した。石鹸のにおいがする。
黒い髪を一つにまとめたヒルダがお洗濯をしていた。黒髪もその瞳の茶色もオズワルトと同じ色。
邪魔って言われないかなぁ……。
そう思っていたら、ヒルダの洗濯の手が止まった。
フィアに気づいたようだ。
「フィア、どうしたの?」
「お手伝いしてもいい?」
なんとなく、甘えたいような、寂しげなようなそんな声。
ヒルダは「ありがとう」と素直に申し出を受ける。
フィアの過去は知っている。風の竜に襲われた村の子。名前もない集落のような、ちいさな国外れにあった。それでも、少しずつ元の形に戻ろうと、また戻そうとする人々がいて、その中には、フィアの知り合いもいたのかもしれない。
ただ、彼女はあの村には帰りたくなかったのだろうな、と思っていた。
あの場所は、彼女の家族を全部奪った場所。
「ヒルダは、お洗濯好き?」
彼女の見つめるたらいの中にあるたくさんのシャボンは、ヒルダが手を止めたせいで小さな音を立てながらはじけ始める。
「えぇ。綺麗になるのは気持ちいいわ」
そう答えると、フィアの唇がふわっと緩んだ。
そして、フィアがそのシャボンの中に手を突っ込み、自分のシャツを揉みだした。その手から零れる水とともに、泡が再びあふれ始める。きっと、たくさんお手伝いをしていた子なのだろう。ヒルダは『フィアは上手ね』という言葉を言えなくなって、笑顔を保った。そして、別の言葉をかける。
「フィアはソフィアのことが好き?」
「うん」
今度は元気な笑顔が返ってきた。そして、おしゃべりを続ける。
「ソフィアはね、いつも怒ってるけど、優しいの。ヒルダは? ヒルダはソフィア好き?」
「えぇ。いつも怒ってらっしゃいますが、良い方ですね」
こてんと首をかしげる様子は、十の女の子でしかない。こんな小さな子から家族を奪う、そんなことが多発している国。
「うん」
「たくさんご飯も食べてくれますし。美味しいのなら、美味しいくらい言って欲しいものですけれどね」
気持ちを素直に伝えられない、不器用なソフィアと、その素直な気持ちが欲しいフィアを思うと、ヒルダの胸に冷たいものが落ちてくる。真っ白な雪のように。少しずつ積もって、体を冷やしてしまわなければいいのだけれど。そんなふうに思ってしまう。
「一緒に夕飯の準備手伝ってほしいの。それから、髪を結ってもいい? わたし、妹が欲しかったのよ」
「うんっ」
大切なものを失った者のそばにずっといたヒルダは、フィアがヒルダに『母』を見ていることはよくわかっていた。ソフィアは母というよりも、父。
フィアには父母と祖母、兄がいた。それなのに、彼女は一度もヒルダの前で家族のことを言ったことがない。
決してフィアの母にはなれないのだ。ヒルダは『ヒルダ』として、存在しなければならない。近くあり過ぎては、いけない。
「ありがとう、可愛くするね」
「うん」
フィアの手が泡の中で小さく動き続けた。
そして、泡を掬って嬉しそうにしてヒルダに尋ねた。
「ねぇ、ふーってしていい?」
「えぇ。楽しそうね」
フィアの笑い声が夏の空に高く響いていった。