勇者の尻拭い、しなきゃいけませんか?(解決編 上)
真実は常に一つだ。
そう叫ぶ人間がいるのならその人間は幸せな人間だ。
反対に事実は常に一つだと、語る者がいればその人間は、世の中のことをあまり知らないと思っていい。
私――ヴァレリー・バーネット・バーヴァンシーは水瓶から零れ落ちた水を見つめながら、かつて私を救った勇者のことを思いだしていた。多くの人々は彼のことを勇者『様』と呼ぶ。あの男は『様』をつけられるようなご立派な人間ではない。だが、多くの人々にとって彼が立派な人物だということは真実となっている。
そして、私は勇者に救われた可哀そうなお姫様ということになっている。
真実としてそれは正しい。だが、事実ではない。
「君と踊るのは気が進まないな」
最初の言葉は、剣撃と一緒に私に向けられた。振り下ろされた剣を魔力の塊ではじき返して私はありったけの魔力を炎に変えた。視界のすべてが白や橙色に染まる。美しい色だと思う。熱と光。それが失われると灰だけが残る。それはどうしようもなく無様で未練がましく汚らしい。
私は声の主もそうなると思っていた。
だが、彼は平然とした顔で微笑んでいた。
「気は進まないが、舞踏は得意なんだ」
くるりと剣を回すその姿にサラサラと揺れる髪、こちらを馬鹿にしたような軽薄な口元。すべてが癇に障った。ようやくすべてが終わったというのに最悪の気持ちだった。私は口も開かず男にもう一度、炎を向けた。四方から真ん中へ。逃れる場所はないはずだった。
だが、男は炎を斬るわけでもなく、人混みをすり抜けるように火柱をかわした。それは演舞のように器用な足取りだった。男はあっという間に私の目の前に立って見せた。
「はじめまして、ヴァレリー・バーネット・バーヴァンシー姫」
男は恭しく頭をさげた。
いかにも敬意を込めました。お行儀がいいでしょう。礼儀正しいですよね。と言いたげな動きだった。
「死ね」
私はすぐ目の前に立つ男に手を伸ばす。触れるだけで彼は燃え上がる。はずだった。男は私の手をそっととるとそのまま両手で包んだ。瞬時に皮が焦げ落ち、脂肪が滴りながら燃え上がる。そのはずなのに彼に変化はない。
「勇者ケニー・カルビン・キーファー。姫様をお救いに参りました」
とんだバカげた言葉だった。
私を救う。勇者を語る男はそう言ったのだ。
「私ならもう救われている。お前が勇者だというなら守るべき無辜の人々はここには誰もいない」
周囲に目を向ける。目の前に男と私以外にこの場所で色彩を持つ者はいない。数万人が暮らしていた王都エルハバブはすでにも燃え尽き、名残のような灰色が残るだけだ。この場に勇者に救いを求める者はだれ一人残っていない。
「君が燃やし尽くしたからか?」
「ええ、そう。民も貴族も王族さえ、魔族を殺して、敵を燃やし尽くし、領土を奪ってくれ、と私に命令した。最強の魔法使いが何でもしてくれる。彼らは本気でそう思っていた。自分たちは何もせず、誰かに命令するだけですべてが手に入る、と本気で信じていた。そんなものが私の民であり、肉親であるというのなら綺麗に燃やし尽くしてあげる、というのが優しさでしょう。だから、ここに救いを求める人間はどこにもいない。無辜の民を殺しつくした悪い魔法使いがいるだけ」
私は掴まれていた手を振りほどいて勇者と距離を取る。
「そうか」
勇者は名残惜しそうに私の手を掴んでいた手をしばらく見つめたあと剣を片手に握った。
「どうやって炎を防いだかは知らないけど、次はない。今度こそ燃やす」
魔力を一点に集める。できるだけ細く、長く、指先から彼方先までをまっすぐに貫く線を引くように力を込める。熱の奔流がただ直進する。発射の衝撃で照準がわずかにずれて勇者ではなく地面が飴細工のようにドロリと融ける。だが、問題はない。指先を勇者へ向けるだけでいいのだ。
私は赤熱の糸を勇者へ向ける。
糸は一直線に地面を裂きながら勇者に結ばれる。
「確かに悪い魔法使いがいたものだ」
直撃している。それは間違いなかった。だが、勇者は燃えあがることも断末魔をあげて苦しむ様子もない。こちらを何かに困ったような薄ら笑いで私を見つめるその眼が、どうしても気にくわない。まるで私を可哀そうだと言いたげな表情が許せない。私はすべてを使い果たす気持ちで魔力を込める。
指先が力に耐え切れずに肌が裂けて血が吹きだす。
痛みはない。人々を燃やし尽くしたときだって痛みはなかったのだ。いまさら痛むような感覚があるはずないのだ。収束しきれない魔力が空を舞う。触れれば人を殺す破壊の塊だというのにそれは美しかった。ただ残念なことに先にいる勇者が平然としているせいで、見惚れることはできなかった。
私はいつしか叫んでいた。
訳が分からなかった。人々が思い浮かべる万能の魔法使い。それが私だったはずだ。それが何一つできずにいる。勇者と名乗る男は、おそらく私を切り伏せることなど簡単なはずだ。だが、彼は受けるだけで返してこない。
それが悔しくて悔しくて、私は叫んでいた。
どれくらい叫んでいただろうか。終わりは急にやって来た。掲げていた腕がかくんと下がり、私は全身からその場に崩れ落ちた。魔力が尽きていた。それでも私は勇者を見ることだけは止めなかった。灰を踏みしめる音と一緒に勇者が私を見下ろす。
私は頭を突き出して血まみれの指で首筋に横線を引いた。
ここが終焉の線だ。
勇者は剣を振り落とすことさえしなかった。ただ彼は私の手を再び握りしめた。手を振りほどこうと力を込めるが、勇者は離さなかった。その手は炎より冷たかったが暖かだった。
「さぁ、悪い魔法使いは倒したぞ」
「それは首を刎ね飛ばしてから言って」
「君の首が飛んでも誰も幸せにならない」
「そうかしら? 私が殺しつくした人々は喜ぶと思うけど」
勇者は私の言葉を聞いて笑った。それは心底からおかしいという声だった。私は彼が全く理解できなかった。
「そうか、君は死んだ人間の存在を信じているんだね」
「それはそうでしょう。彼らは生きて存在していた。だから私が殺せた」
「でも、彼らは死んだ。死後の彼らの存在はどうやっても証明できない。なら、それはいないのと同じだ。つまり、君を殺して喜ぶ人はいないと言える。それなら、僕に君を殺す理由はない」
「殺さない理由もないでしょう」
「殺さない理由はあるよ。君が僕に救われると人々が喜ぶ」
勇者はあっらかんと答えた。
「救う? 私はもう救われている」
「いいや、君は救われていない。僕に救われることで君はようやく救われるんだ」
自信満々に語る彼の顔は軽薄でどこまでも正義の味方には見えなかった。
「何を言っているの?」
「僕は勇者だ。人々は僕の活躍を求めている。そこに君はぴったりだろう。国が滅んで一人だけ生き残ったお姫様が勇者に救われる。それも勇者が悪い魔法使いを打ち倒してだ。人々が望む勇者の逸話だとおもわないかい」
「それは事実と異なる。打ち倒される悪者と救われる者が同じだなんて」
「事実? そんなもの誰が喜ぶんだい? 人々は望む真実さえ与えていれば幸せな生き物だ。亡国の姫様が勇者に救われる。それが真実であればいい。さぁ、悪者でお姫様な君。僕に救われると良い」
「嫌よ」
「そう言わないで救われてよ。どうせ君が僕に抵抗しても傷一つつけられないんだ。敗者は勝者に従ってくれるだけでいいんだ。簡単なことだろ?」
勇者はそう言って私の手を引っ張って立ち上がらせた。
ふらついた身体を勇者が支えてくれたが、その手慣れた動きが気にくわない。彼を振り払って自力で立つ。勇者はその姿が面白い見世物のように微笑んだ。そして、勝手に歩き出した。私はしばらく悩んで彼の後ろを歩いた。
そうやって私は救われた。
意志など関係なく。事実とも関係なく。勇者が決めた真実に沿ってだ。
つまり、今回もそうなのだろう。
邪毒竜を倒した勇者もすべての水瓶や樽を破壊しつくした勇者もすべて彼がそう見せたかった真実なのだ。事実とは関係ない。私は床にこぼれた汚れた水を拭きとりながら、あの軽薄な笑顔を思い出して腹が立った。