氷狼陛下
ある日突然、結婚が決まった。結婚相手は、雪国でありながらも大国であるフェンヴィルム国の陛下。
ほんの二ヶ月ほど前に陛下とおなりになった彼は、まだ若く26歳。名前はフェリクス・フェンヴィルムだと釣書には書いてあった。
絵姿はなく、簡単な自己紹介のようなものが箇条書きであるだけ。それを、フェンヴィルム国へと向かう馬車の中で見ていた。
窓の外に視線を移せば、雪が降り積もっている。辺りはどこを見ても真っ白だ。すでに何十日もかけてフェンヴィルム国に入国している。王城までもうすぐだ。ここは、雪降る時期が長い。この馬車も雪国用の特別な馬車だ。フェンヴィルム国が私の迎えのために用意したものだった。
私__フィリーネ・ディティーリアは、ディティーリア国の王女。でも、王女などただの肩書だけ。
母親は私を産みそのまま他界。父上や兄上、姉上は、母親が亡くなったのは私のせいだと恨んでいる。そのせいか、私は物心つく頃には王宮にある離宮へと移された。
食事はいつも一人。使用人は離宮付きになっているメイドが一人。それに家庭教師が通って来るだけ。私は、そこで一日の生活を過ごしていた。
まぁ、私の生活なら使用人も要らないぐらいの生活。王女だから城外には出せず、扱いに困っていたのだろう。
18歳になったとたんに結婚が決められるとは思わなかったけど……
突然決められた結婚に、結婚するという自覚がないのかもしれない。お会いしたこともない大国の陛下と私など釣り合いはない。
追い出されるのではないだろうかと不安の方がある気がする。そう思っても、私に心のよりどころなどなく、不安な思いのまま馬車の窓辺にこつんと持たれた。
それと同時に、やっと離宮を出られたことに安堵していた。
幾日もかけて走っていると馬車。それがやっと止まった。「到着致しました」と扉を開けられると、冷気とともに雪がふわりと舞うように入ってくる。
寒いと思いながらも、毛の付いた防寒具をまとったまま馬車を降りると、王城の規模に圧倒されてしまう。ディティーリアは小国。そのディティーリア城の倍ほどもある王城に立ちつくしてしまっていた。
(結婚相手を間違っているんじゃないかしら……)
どこをどうしたら、私のような王女という肩書しかない人前にもほとんど出なかった王女が結婚相手なのか疑問しかない。
馬車から降りた時もそうだけど、騎士たちがずらりと並び見守られながら長い廊下を緊張しながら進んでいた。
謁見の間では、この場の誰よりも高い位置にある椅子には陛下であるフェリクス様が肩肘をついて待っていた。
私を紹介されると、フェリクス様の低くて力強い声が謁見の間に響いた。
「フィリーネ・ディティーリア。遠路はるばるよく来てくれた。顔をあげろ」
「お初にお目にかかります。フィリーネ・ディティーリアでございます」
緊張を必死で抑えながら顔を上げるとフェリクス様と目が合う。目にかかるほどの銀髪。長い足を組み座っていてもわかる。背が高く、容姿端麗な姿は一目瞭然だった。そして、驚いた。
陛下であるフェリクス様が椅子から立ち上がり、マントがなびくほど真っ直ぐに私の前へと降りて来たのだ。
「長旅ご苦労だった。我が婚約者フィリーネ」
そう言って、するりと私の手を取りフェリクス様の唇に引き寄せられた。こんなことをされたのは初めてだ。緊張が爆発したように真っ赤になってしまう。
そもそも、陛下であるフェリクス様が壇上を降りてまで私の前に来ることは、普通ではない気がする。
「……っ」
薄っすらと開いた口が塞がらないまま、驚きを隠せないでいると、「疲れただろう。挨拶は、これで終わりだ」と言って緊張したままの私を傍らにこの謁見の間から連れ出した。
__困惑している私をおかまい無しに連れてこられたのは、陛下の住む王宮。
そこには、私と一緒に持って来た荷物が運び入れられていた。
その中で、私がディティーリア国にいた頃のメイドだったジルがけたたましく荷物を指示している。
彼女は、私の侍女となり一緒に連れて来たけど気が合わずに苦手な感じだ。でも、兄上が決めた使用人だから、私に選ぶ権利も口を出す事さえ許されなかった。
「荷物は丁寧に運んでちょうだい。ディティーリア国からの大事な荷物ですからね。さぁ、急いでちょうだい」
私が陛下の婚約者になったからだろうか。外れ王女の世話に、貧乏くじを引いたぐらいにしか思ってなかったような彼女だったのに、それが大国フェンヴィルム国の陛下の婚約者の侍女に昇格したから、張り切っているのだろうか。
でも、これでは……
「ジル。落ち着いて下さい。荷物を一日で整えるのは大変ですよ」
「……フィリーネ様。これは私の仕事です。口出しは無用ですわ。それに、どうしてこちらに……まさか、陛下の不興を買って追い出されたのでは……!? やはり、私がついていくべきでしたわ!!」
侍女を連れては謁見の間に入られず、しぶしぶ部屋への荷物運びをすることになっているジルが「私がいないと、本当に何もできないんだから……」と呆れてため息を吐いた。
「そういうことではないのよ。陛下は、」
私の隣にいます。と言いかけたところで、陛下の回された手にかすかに力が入った。
おそるおそる見上げると、顔が怖い。
「……ずいぶん口の達者な侍女がいるものだな。仕事に勤勉な人間ならばフィリーネの部屋を急ぎ整えるようにすることは評価しよう。だが、フィリーネは俺の婚約者である自覚は持ってもらおうか」
「……婚約者……」
陛下のお姿を知らないジルはポカンとなっていた。
知らないのも無理はない。フェリクス様は二ヶ月ほど前に陛下になられた方だ。ディティーリア国では、その姿を知っている人間は少ないだろう。高官たちや高位の貴族たちは知っていたかもしれないが、ジルは私付きのメイド。
ジルは、子爵令嬢で行儀見習いとして城に上がってきたらしい。それが末王女である私付きになった。でも、いくら子爵令嬢だとしても社交界に出ない私のメイドだったのだから、知らなくとも当然のことだった。
私も先ほど初めてお会いしたし……。
「……フィリーネ。向こうでお茶を準備させている。行こう」
「は、はい!」
そのまま、部屋を通り過ぎてお茶に行こうと進むと、呆然と立ち尽くしていたジルが引き留めてきた。
「でしたら、私も……っ! フィリーネ様だけでは……」
「荷物運びに忙しいのだろ? 侍女の仕事の邪魔はしない。荷物運びに励め」
荷物運びを急かしていたジルに、邪魔だとでも言うようにハッキリと冷ややかに告げるフェリクス様。ジルは、彼に圧倒されたのか、それ以上なにも言えずに立ち尽くしていた。
そもそも、荷物運びを急かしていたのはジルだ。やっていたことが自分に返ってきたようにバツの悪そうな表情でそれ以上追ってこなかった。
連れてこられた温かいサロンには、私とお茶をする予定だったのか、すでに準備されておりフェリクス様と向かい合ってお茶をいただいていた。
「茶はどうだ?」
「美味しいです。陛下……」
「名前でかまわない。婚約者になるんだ。フィリーネは、俺のことを名前で呼びなさい。そうだな……愛称でも考えるか?」
「い、いえ……あの……」
初対面の、しかも陛下であらせられる方をいきなり愛称でなど呼べない。そういいながらも、悩む様子もないフェリクス様がどこまで本気なのかわからない。
「どうした? 今は他に人がいないから、緊張する必要はないだろう?」
緊張で周りに視線だけ移しても、フェリクス様が「婚約者とのお茶だ」と言って人払いをさせたから、会話が聞かれることはないけど……。
「は、はい……」
「名前だ。フェリクスと呼びなさい」
何が何でもフェリクス様と呼んでほしいのか、ジッと凝視される。「陛下」では許してくれそうにないその視線が怖くて必死で名前を口から出した。
「……フェ、フェリクス様」
よくできましたと言わんばかりにテーブルに肘をついた彼の様子がほんの少し和らいだ。
「フィリーネ。すぐに結婚ができなくてすまないな。前陛下であった父上が崩御して一年待たねば、結婚式は挙げられないことになっているんだ。一年も喪に服すわけでもないのに……」
「そんな……」
国の事情は仕方ない。婚約者として受け入れてくれただけでも私には驚きだ。
「フィリーネ。これからも俺と茶をしてくれるか? 毎日でなくともかまわないが……」
「はい。陛下っ……フェ、フェリクス様の仰せのままに……」
思わず陛下と言えば、目の前のフェリクス様の眉間にシワが一瞬だけ寄ったが、すぐに言い直すと、彼はにこりと笑顔を見せた。