幕間6
裕人との電話を終わらせて、すぐにスマホの電源を切った。あんなに怒った裕人の声を聞くのは初めてだ。
身勝手なのはわかっているけど、僕はどうしようもなく、一人が向いてる。
迷惑をかけたり、傷つけるくらいなら、一人で孤独に耐えるほうが良い。
あの人は桐谷アカウントで付き合いがある相手を、片っ端からフォローして、情報を集めて、どうにか僕の弱みを掴もうとしてる。
母だと想う気は欠けらもないし、母だと認めたくもない。
だが今の所この付きまといを、犯罪として警察に訴える手段はない。
本心は純然たる悪意と下心でも、口先で「子供と会いたくて」と言われれば、許されてしまう。世の中ままならない。
血の繋がりを完全に断ち切れないし、死ぬか諦めるかの、永遠の追いかけっこ。
裕人や智ならきっぱり拒絶できるけど、優しくて弱い鈴代さんには耐えられないと思う。
知られる前に、距離を取らなければ。
荷物はレンタル倉庫に送り済みだ。ホテルに泊まりながら次の家を探せば良いだろう。
空っぽの部屋を見渡し、誰もいないキッチンを眺め、鈴代さんと過ごした日々を思い出すだけで、胸がいっぱいだ。
一緒に食事をするだけで、十分幸せだったのに。鈴代さんが僕を好きだと言ってくれた。
ありえないと思っていたから、嬉しくて、嬉しくて。
けれど僕は、期待を裏切って、突き放す。
キッチンの片隅に、江戸切子の皿のセットを残しておく。
鈴代さんに渡して欲しいと、メモを残した。
この皿に、彼女は料理を盛り付けて、食べて行くのだろう。そう思うだけで幸せだ。
青の切子グラスは宝物だから。大切に持って行こう。
スカイツリーのエレベーターで見た、江戸切子の花火を思い出す。
だいぶ浮かれて、星の話を勝手にして。それをはにかんだ笑顔で聞いてくれた、彼女の顔が忘れられない。
ここで花火に見惚れた横顔も、サツマイモを食べたいと甘えて、僕を見上げる姿も。
すべてが可愛らしかった。
恋音さんが好きだ。
きっとこれは恋を通り越して、愛なのだ。
側にいたいと思うより、離れても幸せでいてほしいと願う。
世界で一番大切な人。だから、護りたい。
「にゃー」
足元にすり寄る幸音が珍しく甘えて見えた。抱き上げても抵抗しない。
「幸音は恋音さんの方が好きだったな。僕と一緒に行くより、ここに残るか?」
幸音は大きな目で僕をじっと見た後、ペロリと僕の指を舐めた。
ザラザラした感触は気持ちよくなかったけど、まるで幸音が僕を慰めてくれているようで、涙が出そうなほどに嬉しい。
「そうか。僕は一人じゃなかったな。幸音がいるな。一緒に行こう」
幸音をキャリーケースに入れようとしたら、抵抗された。オマエもここにいろというのか。
なんとかケースに入れて扉を閉めても、まだ暴れ続ける。おかげで鍵をかけづらい。やっぱりこれからも僕を困らせるんだな。
でも、それもいいかと、笑みがこぼれた。
ケースを抱えて、管理人に挨拶をして、マンションを出る。
思わず振り返って、見上げた。
また、ここで花火を見ようという約束は、果たせなかった。
そんな感傷に浸っていたら、幸音が鳴いて、暴れだす。
「幸音大人しくしてくれ。暴れるな。新しい家に着いたら、ここから出すから」
ガチャリとキャリーケースの鍵が外れた。閉め方が悪かったのか、幸音が暴れたからか。
扉が開いたらすかさず、外へ飛び出した。
慌てて僕は追いかける。迷子になったり、事故にあったら大変だ。
運動なんてまるでしないから、少し走っただけでも息が切れる。でも、絶対に失うわけには行かない。
恋音さんが拾って可愛がった子猫。一人ぼっちの僕のたった一人の相棒。
幸音が道の角を曲がるのが、視界の片隅によぎって、慌てて角を曲がった。
そこに恋音さんがいた。
まるで走ってきたかのように、息を切らせた恋音さんの足元に、幸音がまとわり付く。
幸音を抱き上げて、僕をじっと見て、泣いた。
「……よかった。もう、間に合わないかと」
「どうして……」
「裕人さんと電話したとき、私もそこにいました」
「そうですか。貴女を傷つけたくはなかったのですが……」
恋音さんは、きっと睨んだ。怒った顔さえ可愛いと思う。僕は、重症かもしれない。
「桐谷さん。私が大切だから、笑顔でいてほしい、幸せでいてほしいと言いましたよね」
「はい」
本当に心からそう思っている。今でも。涙を拭って、笑って欲しくて仕方がない。
「私は桐谷さんと、話がしたいんです。もし今逃げたら、ずっと泣き続けて、笑顔にも幸せにも、なってあげませんからね」
まるで子供の駄々っ子のような言いかたが、可愛らしくて、愛おしくて。
彼女をここまで追い詰めてしまった自分が、情けない。
「すみません。ちゃんと話をします。だから、泣くのはやめてもらえませんか?」
情けなく項垂れる僕を笑うように、幸音が「にゃー」となく。
幸音。君は本当に、僕に幸せの音を、運んできてくれたのかもしれない。
もし、恋音さんと会わずに、別れていたら。
きっと、僕は一生、後悔しただろう。