そんなもん。
幼少期
親は自分の世界の全てで、言われた言葉は全て正しく。
そして、私のことを思って紡がれた言葉たちだと疑わなかった。
成長するにつれ、『親』も人間であり、間違えることを知る。
全て正しいと思っていた世界は、案外大人が、親が、都合よく紡いでいた言葉であったことを学ぶ時が来る。
確かに、『私』のことを思い、吐き出されていた言葉たちも沢山あり、そして、それを確かに受け取り価値観として落とし込みながら成長してきている。
思春期になると、『自分』という物が出来上がり、親への反抗心は持は出てくるが、反抗する事さえ正直めんどい。
それより、誰か私の頭に銃口を突きつけ、引き金を引いてくれないものかと、厨二病的な思想に取り憑かれる。
なんとも無責任に他人任せ。
なんとなく大人になり、日々はすぎる。
死にたいと思っているわけではないが、『消えてしまいたい』と思うことは中年になってもある訳で…。
なんとも大人になりきれない物だと、苦笑する。
『なぜ人は自ら死んではいけないのか。』の答えを探すも、腑に落ちる回答はなかなか出ないものだと知る。
『何故人は人が死ぬことを止めるのか』
自分が生きている世界を、この世界で生きている価値を、否定された気がするから。
というのには、なんだか妙に納得できた。
生きたくても生きれない人がいる。
とか
貴方の代わりはいない。
とか
大事に育ててきたのに
とか
私の痛みは私のものであり、他人と比べるものでもなければ、『それが生きなければならない』理由にはならない気がしてしまう。
ただ、『命を自ら絶つ事は、重罪である。』の理由として、
『自分を大事にしていない事は罪である。だから、自分を大事にしなければならない。』
というのは、言い得て妙な気もしている。
本音と建前を使い分け、大人を気取って生きていたって、いくつになっても結局考えてることは、対してそんなに変わらないのかもしれない。