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愛された者  作者: 雪咲
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最終章

 二〇二一年三月の義務教育終了と同時に児童自立支援施設を卒業した御戸神ごとがみ美咲みさきは、施設での担任であった菖蒲あやめあかねと普通養子縁組を結んだことによって親子の関係となったため、現在は彼女の夫と共に三人暮らしをしている。

 児童自立支援施設では美咲の周囲で様々な問題が発生したものの、大事になることはなく収束し、施設を卒業するまでには美咲にも数人の友人ができた。入寮時はほとんど取っていなかった他者とのコミュニケーションも比較的取れるようになったことが報告されている。初期に頻発していた自傷行為などの問題行動は数ヶ月で見られなくなり、二年後には社会復帰は可能であると判断されていたが、復帰する家庭がなかったため義務教育終了後まで施設に残っていた。

 美咲の勉強の成績は施設内で上位に入るほどであり、施設卒業後は本人が高校進学を希望したため、施設出身の生徒も受け入れる一般の高等学校を受験し、無事合格した。

 そして、美咲が二〇一四年六月十五日に父親を殺害してから六年と十ヶ月が経過し、彼女は普通科の高等学校に通い始めていた。







最終章 真愛







「お……、行ってきます」

 菖蒲美咲は二人の養親に声をかけて、マンションの部屋の扉を静かに閉めた。養子縁組をして共同生活が始まってから約一ヵ月が経過したが、美咲はまだ新しい両親を「お父さん」「お母さん」と呼べずにいる。撫で肩で下がりかけた高校指定の鞄を右手で引き上げると、ファスナーに付けている手作りの御守りに付属した鈴がちりんと小さく鳴った。穏やかな春風に乗った桜吹雪が美咲の髪に触れ、冷たいコンクリートの廊下に落ちていく。履き慣れないローファーの先を度々床に擦りつけながら、廊下、階段を通り、マンションを出た。そこから徒歩五分で最寄りのバス停に到着する。

 美咲は高校までバス通学をしていた。国道をまっすぐ北へ進むバスで、菖蒲家のある町から隣町の端まで北上すると高校の最寄りのバス停が見えてくる。

 バスの車窓から通学路に面している巨大な工場跡地の錆びたフェンスを眺めながら、美咲は懐かしさを感じていた。美咲が通う高校はかつて彼女が住んでいた町にあり、茜とその夫と共に住んでいるマンションはこの町と隣接した町にある。家から高校まではバスを用いて四十分ほどかかるため、毎朝七時頃に家を出発している。

 定期券をタッチして高校の最寄りのバス停で降車すると、徒歩五分で校門にたどり着く。長い通学時間の約四分の三はバスに乗車しているため、車内で無事に座ることができれば肉体的疲労はほとんどない。

 同じ高校の生徒で賑わう校門前の道を一人静かに歩いていると、自転車に乗りながら会話する生徒達に追い抜かれた。景色みたいな生徒達の間を流れるように縫い歩き、美咲は昇降口で靴を脱いで教室へと向かう。高校に入学して一週間が経つが、美咲にはまだ友人ができていなかった。この高校は偏差値がさほど高くなく、地元の中学出身の生徒が多く在籍しているため、既に同じ中学出身の人間同士でグループができていた。対して美咲はクラスで唯一の児童自立支援施設出身者であり、更に美咲が内向的な性格であることから、友人を作るというハードルは下を潜れるほど高い位置にある。

 美咲は家を出て以来一言も口を開かないまま自分の席に着く。そして先週の図書室オリエンテーション終了後に早速高校の図書室で借りた小説を鞄から取り出し、続きを読み始めた。今日がここ一週間と異なる朝になるのは、この次の瞬間だった。

 美咲の机に勢いよく両手をつき、彼女に声をかける人物がいた。

「御戸神美咲ってあなた?」

 美咲を旧姓で呼んだこの女子生徒は、ブラウンの毛先にパーマをかけたショートヘアが印象的で、制服のリボンは付けずスカート丈を短くしており、その後ろに同じ着方をした女子生徒が二人立っている。彼女達も美咲と同じ一年生で、入学一週間で既に校則に違反する格好をして何度も注意を受けており、教員達に目を付けられている三人組だった。

「違う。今は菖蒲美咲」

 読みかけの本に栞を挟んで傍に寝かせ、美咲は淡々と姓の間違いを訂正する。周囲の生徒は、違反を繰り返す不良達に対しても素っ気ない美咲にヒヤヒヤしていたのだが、現実は彼らの憂慮する事態にはならなかった。

「ああ、ごめんね! 菖蒲美咲さん。私は二角ふたかど飛鳥あすか。こっちは新川しんかわ未来みくと、春原すのはら七海ななみ。みんな一年生だよ。私達、美咲さんと友達になりたいんだ」

 飛鳥は美咲の姓を正しく呼び直し、可愛らしい女子高生を演じるように明るく自己紹介をする。後に紹介された二人の名前には一瞬聞き覚えがあるような気がしたが、美咲には思い出せなかった。

 こんな風に同級生に話しかけられるのは高校生活では初めてで、美咲は小学三年生の時に千寿真理亜が初めて話しかけてくれたことを重ねていた。

「二角さん、新川さん、春原さん、よろしくね」

 美咲は三人をそれぞれ苗字で呼ぶ。すると、未来が貼り付けたような笑顔で美咲に擦り寄った。

「私達も美咲って呼ぶし、三人とも名前でいいよ」

 笑顔の飛鳥と、未来に似た能面のような顔の七海も頷く。そして飛鳥は強引に美咲の手を取り、よろしくね、と握手した。

「美咲、今日の放課後一緒に帰ろうよ!」

 手を握ったまま、飛鳥が目を輝かせて言う。

「うん、いいよ」

 特に何も予定はないため、美咲も軽く承諾する。その時、教室の前方に付いているスピーカーから朝の会五分前を告げるチャイムが流れた。

「じゃあ、また後でね」

 飛鳥達は手を振って自分達の教室へと帰っていった。美咲は読書を再開したが、朝の会が始まるまでの五分間で読み進めることができたページは、いつも同じ時間で読み進めているページ数には及ばなかった。


 授業はまだ初めての科目も多く、イントロダクションで終わるものや中学校の復習ばかりである。施設からの退所後も現役教員である茜に勉強を教わっていた美咲にとっては、今日の授業は特段聞かなくても差し支えなかった。集中力があまり長く持たず、黒板や教科書から目が滑ってしまうため、諦めて窓から隣の保育園の運動場を眺めていたらいつのまにか時間が過ぎていく。小さな子供達のはしゃぐ声が美咲の脳の奥で反響していた。

 放課後になり、世界の終わりのように赤く染まった教室で帰る準備をしていた美咲の元に、朝の三人がやってきた。残っていた他の生徒が逃げるように教室を出ていく。教員に楯突くような違反者達とは関わり合いになりたくないらしい。

「みーさきちゃん、かーえーろーっ」

 美咲以外の生徒には目もくれず、小学生の誘い文句のように飛鳥が美咲を呼ぶ。三人は教室前方の入り口を塞ぐように立っていた。

「うん」

 美咲はそれだけ返事して、バッグを肩にかける。御守りの鈴が小さく揺れた。


「私も美咲と同じで、児童自立支援施設に入ってた時期があったんだよね」

 沈みゆく夕日によって赤橙色に照らされる国道沿いの歩道を歩きながら、飛鳥は美咲に語りかけた。未来と七海は黙って少し後ろをついていく。その表情は、前を歩く美咲からは見えない。

「私や一部の施設の子供にとってはさ、美咲ってヒーローみたいなもんなんだよ」

 行き交う車のエンジン音にも負けない飛鳥の冴え返る声は、美咲には理解できない言葉を紡いだ。

「どうして?」

 美咲にはそのように褒めたたえられるような心当たりが全くなかった。飛鳥はそんな美咲の耳元に顔を近付け、通行人に聞こえないよう小声で囁く。

「親を殺したからだよ」

 車のクラクションでゴミを漁るカラスが飛び立つ。

美咲は全身が凍えるような寒気を感じた。耳から入ってきた氷が瞬時にして頭蓋内を駆け巡り、頭皮に無数の針が突き刺さったようだった。美咲は長い年月や茜らのケアによって、六年前のようにパニックを起こしてしまうことがない程度には割り切りかけていたものの、その感触は未だに手に残っており、殺害の瞬間を思い出すと硬直や吐き気などの症状が現れる場合も頻繁にある。心的外傷は簡単に癒えることはないのである。美咲は悴むように震える口から、無理やり言葉を絞り出す。

「……どうして、それがヒーローになるの?」

 飛鳥は数歩早く歩いて美咲の正面に立ち塞がった。国道に寝そべる飛鳥の影を車が一瞬立ち上げては通り過ぎていく。

「だって、親って私達子供を縛り付ける存在でしょ? 酷い虐待をする親もいる。美咲はその支配を解いて、自由を勝ち取った子供なんだよ」

 夕焼けに染まる飛鳥の左半身と、対照的に影を濃くする右半身との明暗の差が、美咲には聖書の悪魔のように見えた。

「飛鳥は、親が嫌いなの?」

 美咲は尋ねる。すると飛鳥は当然だとでも言わんばかりに目を細めた。

「嫌いだよ。だから虐待されてるって嘘吐いてやったんだ」

 飛鳥は再び美咲に顔を近付け、耳打ちする。

「美咲のおかげで法律が変わって、子供の証言でも一旦親と子を引き離すことができるようになったんだよ。だから私は虐待されてるって児相に嘘教えてやったの。そしたら調査のために職員が来て近所は大騒ぎ。近所での親の立場なんてなくなってさ、面白かったよ」

 美咲から離れて、みんなあんたのおかげ、だからありがとね、と飛鳥は嘲笑った。

美咲の事件の影響で児童虐待防止法が一部改められることとなり、親の体罰は明確に禁止とされ、子供や学校、近隣住民からの些細な申告でも虐待の疑いがあると見なして、慎重に調査が行われるようになったのである。彼女は自身で述べた通り、三年前に児童相談所へ「両親から虐待を受けている」と虚偽の申告をし、調査のために一時保護を受けていた。調査の結果二週間後には虚偽であることが発覚したものの、飛鳥の両親が虐待をしていたという間違った噂は既に広まっており、引っ越しを余儀なくされた。そうして少し離れたこの町に越してきたという訳だが、飛鳥のこの行いは健全性を欠いており指導が必要であると判断され、数ヶ月の間、引っ越し前の地区を管轄している児童自立支援施設へと入寮していた。

「じゃあ、飛鳥の親は何も悪いことをしてないの?」

 その問いに、飛鳥は自分の年齢でも答えるようにあっさりと告げた。

「そうだよ? 門限とか友達付き合いへの介入がちょっとウザいだけの、善良な両親」

 美咲の血の繋がった父親こそ虐待を繰り返す非道な親であったが、新しい両親は二人とも美咲によくしてくれており、美咲は親の優しさというものを知っていた。更に美咲の場合、元々父親を嫌って殺害したわけではない。飛鳥の価値観とは全く異なっており、その思想は理解ができなかった。

「そんなの可哀想だよ」

 美咲からの非難を受けると、飛鳥の目は輝きを失い、闇を纏った。夕日は沈みかけ、町は飛鳥の瞳と同じように帳が下り始めていた。

「へえ、あんたも私を否定するんだ。わかってくれると思ったのに」

 飛鳥は失望したように吐き捨ててくるりと正面に向き直ると、前に進み始めた。美咲は呆然と立ち尽くしていたが、数秒後に後ろから未来と七海に「進みなよ」と唆され、押されるがまま飛鳥の後を追った。

 通学途中のバス停を三つほど過ぎた辺りで、朝もバスの車窓から見えた工場跡地が鎮座している。この工場跡地の国道沿いに、一人で歩く飛鳥、その数歩後ろに美咲、そして二人並びこそこそと会話する未来と七海という謎の集団が形成されていた。国道から少し細い人通りの少ない道へと曲がった先で、自分はどうしてここにいるのだろうと疑問に感じていた美咲に話しかけたのは、飛鳥でも、未来でも、七海でもなかった。

「あれ、もしかして美咲? てか後ろには未来と七海もいるじゃん。何、同窓会でもやってんの?」

 声をかけてきた作業服の男性の顔には全く見覚えがなく、美咲は首を傾げた。自分だけでなく、未来や七海まで知っているこの男性は何者だろうと考える。彼は同窓会、と言ったが、自分と未来と七海を同窓と表現したことも、美咲には分からなかった。

「美咲、私達のことも覚えてないし、颯太そうたのことも覚えてないと思うよ」

 何も答えられない美咲の代わりに、未来が親しげに名前を呼び、彼に教えた。

「知らないで一緒にいたのかよ、ウケるね」

 颯太は笑ってポケットからスマートフォンを取り出す。

「覚えてないだろうけど、俺は小三の時同じクラスだった佐藤颯太。折角だし一緒に写真撮ってよ。美咲って俺らの世代じゃ結構有名人なんだぜ」

 颯太はスッと美咲との距離を詰め、スマートフォンの内カメラで撮影した。状況に着いていけない美咲の呆けたような顔が切り取られ、写真に収められる。その間も、美咲は彼の言葉を元に小学三年生の時のことを思い出そうと記憶を遡っていた。しかし当時のクラスメイトは、千寿真理亜以外に一人として思い出せない。颯太、未来、七海がクラスメイトだったことを知ってもなお当時の三人が浮かばない。

「じゃあ俺用事あるから、また会う機会があったらよろしく」

 颯太が手を振って去ろうとすると、未来と七海が颯太に手を振り返した。結局美咲は彼のことも、未来や七海のことも思い出せないままである。美咲は、自分が小学生の時本当に他人に興味がなかったんだな、と改めて感じた。

 数秒後、未来と七海のポケットから同時に通知音が鳴った。しかし二人がスマートフォンを確認しようとする動作は、飛鳥の催促によってキャンセルされる。

「ねぇ、早く行こうよ」

 美咲と同じく話に混ざれなかった飛鳥が、待ちわびたように足先でパタパタと地面を叩いている。話の中心にいたのに何も話せなかった美咲とは違い、飛鳥はそもそも彼らの話の登場人物ですらなく、退屈していたであろう。最も、未来と七海からは彼女達の過去の繋がりを既に聞いていたので、話そのものは理解できていたのだが。

「どこに行くつもりなの?」

 疑問に思いながらも律儀に付いていく美咲がようやく尋ねる。すると飛鳥は足を止めて「ここ」と工場跡地の門を指差した。

「私達の秘密の場所に行くんだよ」

 工場跡地は、言うまでもなく立ち入り禁止の場所である。門には南京錠がかかけられているのだが、そもそも南京錠を受ける輪が破損しているため、錠を開けることなく門を開くことが可能となっていた。美咲以外の三人が門を人一人通れる程度に開けると、飛鳥、七海、未来の順に一列になって中に入っていく。

「ここ、勝手に入ったらいけないところだよ」

 当然分かっている三人に「そんなことも知らないの?」とでも言っているように聞こえる、神経を逆撫でする美咲の発言を受け、未来が感情を爆発させて「んなことは知ってんだよ!」と叫び、美咲を門の内側に引き摺り込んだ。錆び付いた門の角に美咲の鞄の御守りが引っかかり、紐が千切れて地面に落ちた。

「人殺しの癖に今更いい子振って! あんたのせいで私達は……真理亜まりあは……!」

「真理亜? 真理亜ちゃんがどうしたの?」

 涙目の未来が口にしたかつての友人の名前に美咲が反応すると、未来の前を歩いていた七海が歩きながら振り返り、睨み付ける。

「あんたはいいよね、何も知らなくて」

 美咲には、彼女達が言っていることが何一つ分からなかった。それもそのはずで、未来と七海が言っているのは美咲が小学校を去ってからの話なのだから、既にそこにいなかった美咲が知る術もないのである。そして七海の台詞は、これまでの美咲の苦しみを知らない未来と七海にも言えることだった。

「あんたが父親を殺してから、私達クラスメイトはトラウマ抱えたりしたんだよ。真理亜なんか、あんたが父親を殺したのは自分のせいかもしれないって塞ぎ込んで学校来れなくなって、来れるようになっても元気ないし、ショックで人が変わったみたいだった」

 先日まで同じ教室で生活していた美咲が父親を殺害し、送致されたという噂や、虐待を受けていたという報道を聞いたクラスメイトのうち数人は、強い心的外傷を受けた。特に、美咲と最も近かった真理亜、殺害前の調理実習で同じ班だった未来と七海、そしてクラスメイトの保護者や第三者からのバッシングを受け続けた学級担任はその影響が顕著だった。児童達はしばらく学校に通えなくなり、数週間後に通えるようになってもカウンセリングの毎日で、中でも真理亜は嘔吐や自傷行為が度々見られたという。学級担任は鬱になってしまって教師を辞め、何年も精神病棟に入院している。

 七海に真実を告げられ、自分のせいで真理亜や他の人が傷付いていたことを知った美咲は、痛んだ胸を左手で押さえ、制服をクシャクシャに握り締めた。美咲とて、他人を傷付けようとは、ましてや父親を殺そうとすら思ってもいなかった不幸な事件であったので、責められてもどうしようもなかった。

「ごめんなさい」

 美咲は何も言えず、ただ謝ることしかできない。だがその「とりあえず謝った」というような態度が、更に二人の怒りを加速させる。飛鳥はそれを楽しそうに鼻歌交じりで聞いていた。

 未来に引き摺られるがまま美咲は工場の奥に連れて行かれ、コンクリートの壁に背中を打ち付けられた。その勢いで、肺から空気が放出されたような呻きが、美咲から一瞬漏れた。美咲は背中を壁に当てたまま、ズリズリと座り込んだ。飛鳥がスマートフォンのライトを点灯して美咲を照らした。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」

 うわごとのように謝罪を吐き続ける美咲を囲むように三人が立つ。

 美咲の正面の飛鳥は、しゃがみ込むと美咲の頬を撫でた。

「ごめんね、友達になりたいって言うのは嘘。……いや、私は半分本当だったんだけどね、でも美咲は私を否定したからもう友達にはなれないや」

 そして未来と七海をそれぞれ見上げながら、美咲にとって残酷な言葉を爽やかに放った。

「この二人は美咲のこと恨んでるみたいだからさ、まあ付き合ってあげてよ」

 飛鳥は笑って立ち上がると、少し後ろの地面に転がっている座りやすい高さの廃材に腰を下ろした。廃材の傍に置いてあるバケツに足が当たり、カタンと音がする。飛鳥は自分が手を出すつもりはないが、他の三人のやり取りを見て楽しもうという魂胆だった。

 工場の天窓から覗く月が流れる雲に隠される。捨てられたお菓子のゴミや酒の缶、煙草の吸殻で汚らしく荒らされた地面が闇に覆い隠され、飛鳥の持つ光に照らされたごく一部だけが飛鳥の目に映っているが、照らされる側の美咲はただただ眩しいだけで何も見えない。

「私達はあんたのせいで酷い目にあったのに、あんたは私達のことも覚えてなくて、呑気に高校通ってきてさあ、イライラするの、分かる?」

 未来が大きな音を立てて鞄を下ろし、美咲に怒鳴りつける。美咲は一瞬大きく震えて体を縮こめた。

「ごめんなさい……」

「謝ればいいと思ってんの?」

 謝罪しかしない美咲に更に腹を立て、未来がその頭を蹴り付けた。勢いで美咲は倒れ込み、冷たい地面に頬と側頭部をぶつける。そんな美咲の髪を七海が引っ張り上げ、頬に平手打ちして地面に叩きつけた。

「どうせ感情のない人形みたいなあんたには分からないんだろうけど、私達はこうでもしないと気が済まないの」

 七海は再び髪を掴んで平手打ちする。何度も。何度も。何度も。平手打ちを繰り返した。

 次第に美咲は、これは愛なんじゃないかと逃避し始めた。この痛みは愛情だ。幼い頃のように、痛みを痛みだと感じないようになればこの苦しみから逃れられる。地面に散らばる煙草の吸殻を見つめながら、かつての自宅に転がっていたそれに重ねようと試みる。

 だが、美咲は真の愛情を受けた時の感覚を知っていて、そして痛みは痛み以外の何物でもないことを知ってしまっており、もう昔のようには戻れなかった。それは幸せなことであり、今この状況においては不幸なことでもあった。

 痛い。

 美咲は叩かれるたびに思った。

 痛い。

 美咲は頬以外にも痛みを感じた。

 痛い。

 美咲は痛みを痛みだときちんと感じられていることを自覚して、笑った。


 美咲が痛めつけられ始めて数分が経過した頃、月明かりの差し込んだ工場跡地に響く殴打音と息切れと青息吐息の他に、何者かの声が挟み込まれた。複数人で会話しているようで、それらがこちらに近付いていることに気付いた飛鳥が二人に小さく知らせた。

「しっ、誰か来る」

 数秒後、ライトを消して息を潜めていた飛鳥達を、暗がりに蠢く集団が見つけたようだった。その集団が持つ白い小さな光に照らされ、三人と一人は眩しさに目を細めた。

「あれ、誰かいるし。ここ誰も来ないんじゃなかったの」

 女性の間の抜けた大きな声が広い工場に響き渡る。

「いつもはいないんだけどな」

 次いで男性の声が反響し、それらは不思議な輪唱のように飛鳥達の耳に襲い来る。

 その顔を視認できる程度に彼らが近付くと、やって来た集団は柄の悪そうな若い男三人と女二人であることが分かり、飛鳥達は恐れをなした。美咲は降りかかる暴力が一旦止まったことに安堵し、痛みで強張っていた体の緊張を解いた。

「なんだ、高校生じゃん。しかも一人いじめられてるよ、カワイソー」

 今しがた聞こえた声の主とは別の女性が、痛めつけられて地に伏している美咲を見つけて口元に手を添える。その女性の憐憫の目を美咲は見たことがあった気がした。

「弱い者いじめはよくないな。正義の味方がちょっと懲らしめてやるか」

 憐れむ女性の隣に立つガタイのいい男性が指の関節をポキポキと鳴らし始めると、つい先程まで抵抗しない美咲を延々と叩き続けていた七海の口からヒッという恐怖が漏れ出た。彼らに最も近かったはずの飛鳥もいつの間にか未来や七海の元まで後退している。

 男性がゆっくりとこちらに迫り来て、恐れ慄き後退する三人は遂に壁に退路を断たれた。「あんまりやりすぎないようにねー」と呑気そうに飛鳥が座っていた廃材に腰かけて、女性の一人が笑っている。

 直後、まずは男から見て左端にいた未来が右ストレートに腹を撃ち抜かれ、呻きながらその場にうずくまった。次に男に目を向けられた飛鳥は、未来と同じように腹を殴られるのを阻止しようと両腕で腹部を隠し、腰を低く下げる。すると男は右の手のひらを広げて、飛鳥の左頬を力強く叩いた。声にならないような叫びを上げた飛鳥が、その勢いでうずくまっている未来の上に覆い被さって共に倒れた。男は飛鳥を叩いて左下にある右手を強く振り戻して、怯える七海の右頬を握り締めた右手の甲で殴る。二人とは反対方向に倒れ込んだ七海を見て「これに懲りたら弱い者いじめなんてやめろよな」と嘲笑しながら男は吐き捨て、廃材に仲良く座る仲間の元へと戻っていった。

「うへえ、痛そ。でも自分達もその子に同じようなことやってるから仕方ないよね」

「因果応報ってやつだよな」

「おいおい、難しい言葉使いたがんなよ馬鹿のくせに」

 男の仲間達は笑いながら煙草を取り出し、ライターを回しながら口に咥えて火をつけた。端に座った男は自分の煙草に火をつけた後、傍に置いてあるバケツに入っていた長く太い蝋燭にも炎を灯す。悶絶している三人の泣き声をバックグラウンドミュージックのようにして、五人が楽しそうに談笑し始めた。青白い月光の下、五つの微かな光とバケツから上昇する温かな熱が淡く広がり、舞い上がる煙草の煙に乱反射する。キャンプファイヤーのような哀愁の漂う空間で、低俗で愚かしい会話が繰り広げられている。地に伏した女子高生には、その会話を理解する余裕などなかった。


 美咲は、男によって暴行を受けた飛鳥達に対して可哀想だと感じた。多くの人間は自分をいじめた相手や不快にさせた相手が酷い目に遭うとスカッとするのだろうが、美咲は自分を痛めつけたはずの彼女達を憐み、そして不憫に思っていた。

「キリスト教では、『汝の隣人を愛せよ』って言葉があるんだよ」

 言葉が天から降りてきたように、茜の優しい声が美咲の耳元で囁く。まだ美咲が施設にいた頃の会話だった。

「自分を愛するように他人を愛しなさいという教えなんだけどね。そのためにはまず、自分の愛し方を知らなければいけないと思うんだ」

 煙草の煙のように淡い記憶で、茜が美咲に笑いかける。月光が記憶の中の木漏れ日のように、仄かに美咲を照り付けていた。

「だから美咲ちゃんには、まず自分のことを愛してほしい。そして他の人達を愛してあげられるようになると、先生は嬉しいな」

 茜の温かい手のひらが美咲の頭を優しく撫でる。当時の温もりを思い出して、美咲は自らの胸を押さえた。


 男達の煙草が燃え尽きて五本の煙草がそれぞれ足で踏み消され、彼らが次の煙草を咥えようとしたところで、パトカーのサイレンが聞こえた気がしてその手を止めた。工場がしんと静まり返る。飛鳥達は泣き止んでおり、体育座りで壁に背を当て、ただひたすら息を殺して恐怖していた。いくつものサイレンの音はだんだんと近付いてきて、大音量で動きを止めた。まるで、工場のすぐ傍で停車したように。

「え? 警察?」

「まさかこっちに来るわけじゃないよな……?」

 男達が狼狽していると複数の足音が工場に響き渡り、数秒後には多方面から眩い光が彼らを照らした。

「ここで複数の男女が女子高生に暴行を加えていると通報があったぞ!」

 男性警官の一人が叫ぶ。隅で震える飛鳥達と倒れている美咲を発見すると無線で連絡を取り、幾ばくもせずして四人の女性警官が美咲達の元に駆け付け、抱きかかえたり手を引いたりした。彼女らは美咲達に優しい言葉をかけながらパトカーに連れていく。背後で悶着が生じていたが、美咲の耳には雑音にしか聞こえなかった。

 最も手前にあるパトカーの元には、美咲達の学校とは違う制服を身に纏った一人の女子高校生が立っていた。警官と会話していた彼女は、美咲が近くまで来たことに気付くと警官に一言伝え、美咲の方へと駆け出した。

「美咲ちゃん!」

 美咲はその声に聞き覚えがあった。父親を殺害する前、ずっと一人ぼっちで何事にも楽しみを見出せなかった自分を救い出してくれたその声を、忘れるはずはなかった。

「真理亜……ちゃん……?」

 千寿せんじゅ真理亜は、警官に抱きかかえられた美咲をそのまま抱き締める。警官は美咲を地面に下ろして立てるかどうか確認し、美咲が頷くと気を利かせて少し離れてくれた。真理亜は再び美咲を強く抱き締めた。

「助けが遅くなってごめんね、美咲ちゃん」

 美咲は真理亜を抱き締め返した。

「真理亜ちゃんは、どうしてここにいるの?」

 美咲に回していた腕を解くと、真理亜は自分がここに来た経緯を説明する。

「夕方、颯太が小学校のグループに美咲ちゃんとの写真を載せてきたんだよ。その写真を見たら未来と七海も後ろに少し映ってて、あの二人は美咲ちゃんのことをよく思ってなかったし、写真の場所もこの工場跡地の近くだから、もしかしたら……って思って急いで来たの」

 真理亜は胸ポケットを探り、中から紐の切れた御守りを取り出した。門に引っかかったからか、表面の布が破れかけている。

「工場の前まで来たら少し開いた門の下にこれが落ちてて、写真を確認したら美咲ちゃんの鞄に付いてたから、私も工場の中に入ったんだ。そしたら美咲ちゃんが二人に暴行を受けてたから、止めようとしたんだけど、悪そうな人達が入ってきたから出られなくて……。あの三人が殴られ始めたから急いで警察に通報したんだ」

 だから警察に説明したりしててここに留まってたの、と真理亜は言った。この御守りは、二〇一五年九月六日の美咲の誕生日に、茜が美咲に手作りでプレゼントしたものだった。茜は施設の児童全員に、初めての誕生日には御守りを渡すことにしていた。貰ってから五年以上になる現在でも、美咲は大切に鞄に付けていた。美咲は真理亜から御守りを受け取ると、数瞬見つめてから真理亜に向き直った。

「真理亜ちゃん、ありがとう。……それと、小学校の時はごめんなさい。私のせいで……その……」

 未来や七海に言われたことを思い出して美咲がしどろもどろしていると、真理亜は彼女の言葉を遮った。

「気にしなくていいんだよ。確かにその時は色々おかしくなっちゃったけど、もう大丈夫だから。私の方こそ、友達だったのに気付いてあげられなくてごめんなさい」

 真理亜は美咲への虐待に気付けなかったことを謝罪した。更に、頭のいい真理亜は、殺害の日付、ブレッドナイフで父親を刺したこと、現場には手作りのパウンドケーキがあったことなどを報道で知り、自分が美咲に父の日のお菓子作りを提案したから起こった事件なのではないかと推理していた。だからこそ、美咲の事件発覚後に自分のせいだと深く傷付いてしまったのだ。

「未来や七海に何言われたかは分からないけど、私は美咲ちゃんを恨んだことなんて一度もないよ」

 美咲には、真理亜が聖母に見えた。美咲の中では茜と真理亜は同じくらい大きく、それぞれがかつての心の柱であった父親を補って余りあるほどの存在で、この二人が今の美咲を作り上げたも同然であった。施設での生活を支え、愛を教え、教育を施した茜はもちろんだが、そもそも真理亜に出会わなければ今も父親の洗脳のままに虐待を受け続けていたかもしれない。美咲は殺人というとががなければ、部屋でゴミのように転がっていた。だから、美咲の解放の始まりは真理亜との出会いだった。

「私は美咲ちゃんのこと、ずっと、今でも、友達だと思っているよ」

 真理亜の優しい言葉に、美咲は初めて胸と共に目頭が熱くなる感覚を知った。真理亜にはいつも新しいことを教えてもらうな、と美咲は思った。

「ありがとう、真理亜ちゃん。大好きだよ」

 美咲は生まれて初めて親愛を言葉で表現すると、今度は自分から抱き締めた。真理亜も天使のように微笑んで、美咲の背後に腕を回した。


 美咲達が保護されてから一時間ほどが過ぎ、警察で事情聴取を受けた後、四人は親が来るのを待っていた。四人の中では未来の父親と七海の母親が早く、それぞれの親は美咲の顔を見ると逃げるように帰っていった。おそらく小学生時代に自分の娘が美咲の影響で体調を壊したりしたからだろう。だがそれにしても、我が子が暴行を加えた相手を目の前にして謝罪もなしとは非常識にもほどがある。この親にしてこの子ありという訳だな、と、失礼ながら美咲と共にいた警官は冷めた目で見ていた。

 それから少しして、飛鳥の両親が駆け付けた。二人が息を切らしていることから、よほど急いで来たのだろうと容易に推測できた。

「飛鳥! 心配したじゃないか!」

 飛鳥の両親が叫んで娘の元に駆け寄る。

「どうしてあんなことした私を心配してくれるの……?」

 飛鳥は涙を流しながら尋ねた。

「そんなの決まってるでしょう? あなたが何をしたって、私達があなたの親だからよ」

 傍らで聞いていた美咲は、飛鳥の母親の言葉に衝撃を受けた。母親の言葉を受けた飛鳥は、ダムが決壊したように号泣しながら両親に抱きついた。

「今までごめんなさい、酷いことばっかりしてごめんなさい」

 小さな子供のように泣きじゃくる娘を抱き締め、その頭を優しく撫でる飛鳥の両親の姿を目に焼き付けるように眺めながら、美咲は羨ましく感じていた。

 しばらくして飛鳥が少し落ち着いてくると、「飛鳥、謝らなければならない相手が私達以外にもいるだろう?」と父親が低い声で飛鳥に語り掛けた。その優しい瞳は美咲に向いている。そして三人並んで美咲の元に近付き、まず両親が深々と頭を下げた。

「菖蒲美咲さん、うちの娘が酷いことをしたと聞きました。娘に代わってお詫び申し上げます」

 続いて飛鳥も「ごめんなさい」と呟き頭を下げる。その声は涙に濡れており、気丈に振舞っていた彼女とは似ても似つかぬ弱々しさであった。

「あ、えっと、気にしないでください。私は大丈夫なので」

 慌てて美咲は両手を振る。美咲はその言葉通り、痛めつけられたことをもう気にしていなかった。怒りや恨みといった感情が希薄だからだ。他人に対してどう怒ったらいいのか分からないし、怒りが希薄なので恨むという感覚も分からず、負の感情に関する執着がない。

「美咲ちゃんが優しい人でよかったな、飛鳥。こんなことは、もう絶対にしちゃ駄目だぞ」

 美咲のそんな性質は、謝る側からすれば慈悲深い人間だと思われる。施設で陽菜ひなに好かれるようになったのもこれがきっかけであり、人間としては感情の欠落という欠陥ではあるのだが、対人においてはある意味美咲の長所とも言えた。

「美咲ちゃん、今日はもう遅いから、後日また御両親の元にお伺いします。本当に、娘がごめんなさい」

 飛鳥と両親が帰ると、美咲は警官と共に親を待った。警官も減り、静まり返る署内は美咲の心に影を落とす。

 美咲の現在の家は隣町なので距離的に時間がかかるのだろう。茜のことは信頼しているはずなのに、このまま来てくれなかったらどうしようという考えが頭を過る。美咲は血の繋がった母親に置き去りにされた経験があったからだ。母親の記憶は一切ないが、置き去りにされたという事実は美咲の中に残っており、決して頭から消えない。このことに限らず、過去の悪い出来事はことあるごとに思い出されて脳内を牛耳り、そのたび美咲を不安にさせた。きっとこれは一生続いていくのだろう。この先どんなに幸せになろうとも、過去の記憶は美咲を脅かす。それでも現状の幸せを噛み締めて美咲は生きていく。

「美咲!」

 茜と茜の夫が息を切らして警察署に駆け込んできた。疾うに時刻は十時を回っており、眠そうに船を漕いでいた警官がハッと意識を取り戻す。美咲は目を見開き、深く安堵した。二人が美咲の元に走り寄って抱き締めると、美咲も二人を強く抱き締め返した。

「お父さん、お母さん、愛してるよ」

 美咲は初めて養親に対してそう呼んだ。そのことに、もちろん二人も気付き、抱擁を更に強めた。

「私も美咲のことを愛してるよ」

「俺もだ、美咲」

 両親の言葉を何度も頭で反芻しながら、美咲は自分の胸と目頭と両親の温もりを感じ、静かに涙を流した。


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