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愛された者  作者: 雪咲
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第2章

 当時わずか八歳の御戸神ごとがみ美咲みさきが実の父親である御戸神ごとがみ優一ゆういちを殺害した事件は、彼女が洗脳的な教育を受けていた点も含めて世間を大いに騒がせた。マスコミやメディアによる報道、議論が激化し、翌年には刑法や児童虐待防止法が一部改正されるなど、社会に大きな影響を与えたのである。

 美咲は児童相談所に保護されたのち家庭裁判所へ送致され、観護措置の判断が下されると、少年鑑別所に一時収容。最終的に児童自立支援施設へと送致されることになった。ここに至るまでに、美咲が父親を殺害してから約四ヶ月もの月日が流れていた。







第二章 悲哀







 美咲の児童自立支援施設での生活が始まって五ヶ月が経過し、美咲は四年生となった。施設内の寮で暮らし、同じ施設内にある教室で授業を受けるという、ごく一般的な同年代の子供の生活とほとんど変わらないものである。施設には家庭的な問題を抱える子供や素行不良の子供が計五十人ほど収容されていた。

「おはよう、ゴミサキちゃん」

 寮から教室まで向かう途中、美咲と同じ小学四年生の男子達が、美咲にすれ違いざま声をかける。美咲の反応がないことも男子達は織り込み済みで、彼らは返答を待つことなく笑いながら教室に入っていった。美咲も後を追うように、無言のまま教室に入って自分の席に着く。賑やかだった教室がより一層賑やかになった。美咲はそんな喧騒に耳も貸さず、静かに鞄から児童文学の本を取り出して読み始めた。

 数分後、ある女子が入ってくるとそれまでいくつかのグループで騒がしく話していた子供達がそちらを向いて口々に挨拶を始めた。

「おはよう美沙希みさきちゃん!」

 声をかけられた少女、美沙希は朗らかな笑顔でおはようとクラスメイトに返した。

 この小学四年生のクラスには現在十五人の児童が在籍しており、その中に「みさき」は二人いた。御戸神美咲と上郷かみさと美沙希である。昨年美咲が父親を殺害し入寮するより以前から美沙希は入寮していて、その快活な性格と可愛らしい外見から児童達の人気者であり施設の人間達にも気に入られていた。そこにやってきたのが殺人を犯し常に陰鬱とした表情で口数も少ない美咲で、彼女が煙たがられるのは火を見るよりも明らかだった。

 「ごとがみみさき」だから苗字の最初の文字である「ご」を名前の頭に付けて「ゴミサキ」。これがこの施設の小学四年生クラス内での美咲の渾名だ。児童達は教員や施設の人間の前では口には出さないものの、いつしかこの呼び方が共通了解のようになっていた。

「はい、みんな静かにして。朝の会を始めるよ」

 児童達の声に負けじと声を張り、手を叩きながら教室に入ってきたのは、このクラスの担任である菖蒲あやめあかねだ。ぞろぞろと会話を中断した児童が椅子に座り、美咲の一日が始まった。


 美咲が施設にやってきてしばらくの間は、ほとんどの児童が彼女を恐怖し相手に出来なかった。気に入らないことはあっても直接彼女に申し出ることはなかったのである。彼女の犯した罪が殺人であり、児童達は彼女の怒りを買って殺されることがあるのではないかと考えていたからだ。しかし、施設の児童の一人が彼女にぶつかってしまったとき、美咲が報復どころか口を開くこともなく歩き去ったのを見て、児童達は「彼女は脅威たりえない」と気付き、現状に繋がっている。

 美咲は大して気にも留めていない。かつて得たはずの「胸が温かくなる感覚」は、もう彼女の中には残っていなかった。

 いじめられる美咲といじめる児童達の構図は、皮肉にも施設内の児童達の精神を安定させていた。誰もが自分よりカーストが下の人間となった美咲を馬鹿にすることで自尊心を保ち、過去に問題行動を起こした児童や親の虐待を受けた児童が「美咲をいじめる」以外の問題行動をほとんど起こさなくなったのである。これは職員達から見れば突然多くの児童の問題行動がなくなったということであり、皆不審に思っていた。

 そんな中で美咲自身の問題行動として見られたのは、カッターナイフで手首を切りつける、所謂リストカットであった。人が自傷行為をする理由には、例えば精神的問題を肉体的問題に置き換えることによる不快感情の軽減であったり、自己評価の低い子供の自己懲罰であったり、何かの八つ当たりの対象として自分自身を選んだものであったりと様々なものがあるのだが、美咲の場合は、痛覚を愛ではなく痛みであると自覚するための行動であった。

「これは『痛い』だよ。愛じゃないんだよ」

 施設内の女子トイレの個室で、スカートをたくし上げず下着も脱がないまま蓋を閉めた便座に座る美咲は、左手首をカッターナイフで切りつけて自分に言い聞かせていた。傷口からは美しい紅色の血液が流れ、手首の左右を伝って美咲の膝にこぼれ落ちる。天使の羽のように純白のワンピースにも数滴の血が滴り落ち、水玉模様を作り出していく。

「美咲ちゃん、どこにいるの?」

 担任である茜の声が廊下から響いてくる。美咲は煩わしさに顔をしかめながら、扉を開けて個室から出た。

「先生、私、いるよ」

 美咲は傷だらけの手首を隠しもせず、トイレの床に血を落としながら歩く。入口のドアを開けると廊下に茜が立っていて、「見つけた」と、美咲に微笑んだ。茜の後ろの窓から西日が差し込んできて、美咲は目を細めた。

「美咲ちゃんは、どうして腕に傷を付けるの?」

 痛々しいリストカットの跡を見て一瞬動揺したが、茜は優しく問いかける。自傷行為をする児童にやめなさいと強く当たっても逆効果だ。大きな声をあげたり叱ろうとしたりしないように心を沈めながら、ポケットティッシュを取り出して美咲の手首を拭き、絆創膏を貼って包帯を巻く。

「愛じゃないって言われたから」

 美咲は小さく呟く。声量のなさは後ろめたさからではなく、単純に声を出すことに慣れていないからである。

 茜は担任になることに決まった一ヶ月前から美咲を含む子供達の情報を収集し、時間を見つけては観察していた。だから、美咲が痛みのことを愛と誤認させられていたことも、美咲が手首を切る理由も知っている。しかし、本人と話をすることが重要だった。

 茜は美咲と目線を合わせるために屈み込む。

「美咲ちゃんが今まで愛情を感じた時って、どんな時だった?」

 美咲は俯いて少し考える。

「うーんとね、お父さんにたたかれたときとか、お父さんにけられたときとか、あと……」

 茜は美咲の表情が微かに変化したのを見逃さなかった。

「初めてお父さんに頭をなでられたとき」

 美咲は父を殺害する直前の、生まれて初めて優しく撫でられた瞬間を思い出していた。

 本来このような子に殺害当時の状況を思い出させるのはパニック等を招いてしまう恐れがあるため、避けるべきである。しかし、美咲が初めて父親に撫でられたのが殺害直前であることを知らない茜は、そのまま彼女に当時の状況を回想させる質問を投げかけてしまった。

「叩かれたり蹴られたりした時の愛情と、撫でられた時の愛情の感じ方に、何か違いはなかったかな?」

 美咲はまた少し考えるように俯く。上靴の爪先の赤を見つめているようだった。数秒すると顔を上げた。

「叩かれたりしたときは、そこがじーんってなるけど、撫でられたときは、胸がぽかぽか……して……」

 話しているうちに徐々に美咲の目線は下がっていき、終盤では完全に沈んでいた。もはやその目には、茜は映っていない。

 胸というワードで、美咲の中には自らの胸が熱を帯びた瞬間と、父親の胸にブレッドナイフがずぶずぶと沈み込む光景が浮かんでしまったのだ。大好きだったはずの父親を殺してしまった記憶がフラッシュバックする。

 糸がプツンと切れたように、美咲が泣き叫び始めた。

「美咲ちゃん⁉ どうしたの⁉ 美咲ちゃん!」

 目を見開き、突如胸を押さえて錯乱した美咲の肩を揺り動かしながら、茜は必死に呼びかける。茜は美咲が手を当てている胸と美咲の父親の胸部に残っていた傷痕を重ね合わせ、自らの悪手を察した。

 大声を聞いた他の職員や児童達が教室から顔を出し、こちらを訝しげに見ていた。

 殺害当時の美咲は痛みを愛だと信じて父親に痛みを与えたので、本人の中では父親へ愛を伝えたつもりだった。しかし現在は、痛みが愛ではないことを知ってしまっており、父親へ与えたはずの「愛」がそのまま彼の死に繋がり、自らの手で帰らぬ姿にした事実を知ってしまっていた。

「ごめんね、美咲ちゃん、ごめんね」

 咆哮するように泣き喚く美咲を強く抱き締めて、茜は必死に謝りながらその背中をさすった。美咲の涙が茜のワイシャツの肩を濡らしていく。しばらくそうしていると、美咲は落ち着いて静かになった。

「ごめんなさい、先生、大丈夫だよ、だからおこらないで」

 先ほどまでの叫びが嘘のように、その声はか細い。茜は美咲の胸の痛みが自分にも伝染したように錯覚した。涙を堪えながら、美咲の頬に手を当て、ゆっくりと沿わせて後頭部に持ってくると、優しく撫でた。

「先生は怒らないよ、大丈夫だよ」

 このとき、自らの胸がかつて味わったものと同じ熱を再び取り戻したことを、美咲は感じた。が、美咲から茜を抱き締め返すことはなく、だらんと手を下ろして茜に体を預けていた。

「どうして先生が泣いているの?」

 茜は上手く返事をすることができず、なんでもないよ、と繰り返しながらしばらく美咲を抱き締め、その頭を撫でていた。


 美咲は熱心に勉強をする子だった。中でも国語には特に熱心で、テストはいつも高得点を獲得していた。そのような点でも他の子供達とは乖離していて、それがまた疎まれる原因となっていることに美咲は気付いていない。

 自分の中で確立していたはずの「愛」を失った今、他人との接し方が昔以上にわからなくなっており、無意識のうちに創作物や勉強に逃げ込むようにして現実を離れようとしていた。

 だが、先日茜に抱きしめられてからは違った。

 以前よりは自分から茜に話しかけるようになり、クラスメイトの皮肉染みた挨拶にも時折返事をするようになったのだ。いじめそのものには意思を示すこともなく、まるでそれらを平凡な挨拶であったかのように受け止めて返すようになり、周囲の児童は彼女の変化を訝しく思っていた。また、リストカットは見られなくなっていた。

 翌日から夏季休業に入る、一般の学校で言う終業式の日の朝、美咲がいつものように自分の席に着いて児童文学を読んでいたら、もう一人の「みさき」こと上郷美沙希が彼女に声をかけた。

「御戸神美咲ちゃん、おはよう」

「おはよう」

 美咲が本を机に寝かせて相手の顔を見てそう返すと、美沙希は「何の本を読んでいるの?」と尋ねた。

「お父さんがくれた本」

 美咲はところどころ破れた表紙を見せる。『銀の馬車』。長年自分を嫌っていると思っていた親の愛情に気付く、隠れた名作童話だ。美咲の父親が昔から持っていた本で、美咲が小学校に上がる頃に興味を持ち、父親から貰ったのだ。後にも先にもこの本以外に父親から美咲へのプレゼントはなく、美咲はずっと大事にしていた。

「大切なものなんだね」

 美沙希は他の児童に向けるものと同じ笑顔を美咲に向ける。その笑顔に、美咲は小学三年生の時によく話しかけてくれていた千寿真理亜の笑顔を重ね、胸に微かな熱を感じた。

 突如美咲は立ち上がり、美沙希に抱きついた。

 周囲の児童達は驚き、さまざまな声を発した。それはどの言葉も美咲を非難するものであるが、美咲の耳には届かない。先日茜から受けた抱擁の際に得た感情を確かめるために、美沙希が抱き返してくるのを待っていた。しかし。

「いきなり何するの!」

 美沙希は叫び、美咲を突き飛ばした。美咲はその勢いで椅子に座り込み、椅子が少し傾いてその向こうに立っていた女子の背中にぶつかり、倒れる前に止まった。何が起こっているのかわからないという顔で美咲が見上げると、嫌悪の目でこちらを見つめる美沙希とその取り巻きのような女子達の憤りが強襲してきた。

「突然抱きつくとか信じられない!」

 これを契機に、次々と美咲への罵詈雑言が教室内に飛び交う。ほとんどの児童にとっては美咲が美沙希に抱きついたことなどどうでもよく、ただ美咲を叩く機会を得たことを喜んでいるようだった。それに加え、クラスの人気者である美沙希の味方をしなければならない、クラスの忌子である美咲の味方をしてはならないという同調圧力も働いている。

 狭い教室で孤立した美咲は、微かに拒絶の痛みを味わった。

 以前までの美咲は、父親の洗脳で培われた感覚を真実によって壊されたことで、自分も含めて人間の感情というものに一層疎くなっていた。自分は愛されていると思っていたのに、実はそうではなかったのだと告げられたからだ。実際には、美咲の父親は傷つけられて育った自分の思い込みを守るために美咲を傷つけることを愛情表現としていたため、美咲が父親から愛されていたこと自体は事実なのだが、その本意を美咲の父親以外の人間が理解することは永遠にないだろう。

 美咲は生きる上での支えを失っていた。虐待を受けて育った子供は、その多くが自分の親に対して憎しみを覚えることができないとされている。虐待されるのは自分に非があるからで親は悪くないんだ、と思い込む傾向にあり、美咲も同様だった。

 美咲の父親の行為は絶対に許されるものではないが、それでも美咲の中で彼の存在は大黒柱を担っていた。それを自らの手で破壊してしまい、更には真実という爆弾で信じていたものを土台から吹き飛ばされ、美咲は更地にされた家のようなものだった。

 だが、茜に抱きしめられたあの日から美咲の中では何かが変わっていた。自分の気持ちに少しだけ気付くことができるようになった。他人からの好意のようなものを欲するようになり、言葉を返す程度にはクラスメイトに接し始めたのだが、他人の気持ちには鈍感なままだったのでそれらの行動は空回りし続けていた。

「何をしているの!」

 美咲を取り囲んで責め立てる子供達に、廊下からの怒号が降りかかった。担任の茜がやってきたのだ。

 子供達は巣の中で餌をねだる幼い小鳥達のように口々に「突然抱きついた美咲が悪い」といった文言を茜に告げるのだが、茜はそれだけを信じるわけにはいかなかった。

「美咲ちゃん、本当なの?」

 美咲の元にしゃがみ込み、茜が問うと、美咲はこくりと頷いた。ほらね、言った通りでしょ、と周囲から激しい非難が湧き上がるが、茜は「みんなは静かにして」と一喝し、美咲に語りかける。

「人に突然抱きついたらびっくりするから、気を付けないといけないよ」

 クラスメイトからの拒絶よりも大きな痛みが、美咲の胸元で脈打った。

「……ごめんなさい」

「それは私じゃなくて、美沙希ちゃんに言わないとね」

 茜は美沙希を近くに呼び寄せ、二人の「みさき」の背中に手を置く。

「ごめんなさい」

 美咲の、あまり心がこもっているとは言えない謝罪の言葉に一瞬むっとした美沙希だが、美咲が心のこもった言葉を吐くことができない子であることを知っていたし、優しい人間を演じるためにも、別にいいよ、と許しを与えた。

「みんな、びっくりさせてごめんね。私は大丈夫だから気にしないでね」

 そして美沙希は周囲を見回しながら、クラスメイト達にも怒る必要がないことを伝えた。自分が教室内の空気を支配していることを知っているからだ。今ここで自分がそう言うことで、教員が横入りしてきたこの場を収めることができると分かっていた。

「美沙希ちゃんも、許してあげられてえらいね」

 茜は美沙希のそのカリスマ性を純粋に尊敬した。そして同時に、クラス全員が彼女の一言で挙動を変える独裁にも似た様子に恐怖すら覚えた。

「美咲ちゃんが突然抱きついたことはよくないことかもしれないけど、だからといってみんなが寄ってたかって一人を追い詰めてはいけません。数の暴力で一方的に押さえつけるのではなく、ちゃんと話し合って解決しなきゃいけないんだよ」

 子供達に、偉そうに多数による攻撃の悪辣さを説きつつも、その対応は正しかったのかと自問自答しながら茜は教壇に立った。十年にも及ぶ教員生活は、いつも自分の行動の是非を自らに問い質してばかりだ。

 クラス全体で美咲を虐めているという構図を諫めたことは絶対に正しいと信じているが、美咲に謝らせ、美沙希に許させる空気を作るという、半ば強引にも見える仲直りのさせ方については、もっといいやり方があったのかもしれないと心に棘を残していた。


 翌日から夏季休業に入り、授業は約一ヶ月間休みとなった。施設の約半分の児童は親元に帰る機会を得て、残りの約半分の児童は普段から住んでいる寮でそのまま過ごす。親のいない美咲は、夏季休業中も施設での生活を続けていた。

「美咲ちゃんはここに来て初めての夏休みだね」

 奉仕活動の一環として、施設に残った児童達とともに草むしりをしながら、茜は一人で黙々と雑草を千切っている美咲に声をかけた。ほかの児童は美咲から距離を取って話しながら働いているため、美咲は孤立していた。

 親や児童自身の問題行動に原因があり、自宅に帰ることができず施設に残った児童達は、普段通りの規則正しい生活を送りつつ、授業の代わりにさまざまな奉仕活動を強いられる。施設の清掃や環境整備が主だった内容だ。夏季休業中であり、家に帰った児童との格差が大きいと問題になるので、通常の授業に比べればその時間は格段に短い。

「うん」

 美咲は泥で汚れた手で額の汗を拭う。そして小さく微笑んで茜の瞳を見つめた。

「先生は、わたしのこと、好き?」

 美咲が少しずつ変わり始めていることには茜も気付いていた。以前までの彼女だったらこんな質問をすることはないだろう。美咲は自分から話を膨らまそうとするような子ではなかった。

「もちろん、好きだよ。施設の子供達みんなね」

 教員として美咲一人を特別扱いするわけにはいかないため、茜は付け加える。他の児童と並列に扱われたことに対して美咲はどう思うだろうかと少し恐れたが、美咲の表情は晴れやかで、満足そうに微笑んで仕事を再開した。おそらく他人との差はどうでもよくて、ただ自分への好意が確認できればそれでよかったようだ。茜は安堵して胸を撫で下ろした。

「先生最近ゴ……美咲ばっかり構いすぎじゃね?」

 遠くで草を集めていた藤堂とうどうたけしが近付いてきて、笑いながら茜に話しかけてきた。武は毎朝美咲に蔑称で挨拶をして笑う男子の一人である。

茜としてはそんなことはないと言いたいところだが、確かに最近は美咲と話している時間や美咲への対応を考える時間が多いことに気付き、強く否定することはできなかった。それでも茜が施設の子供達みんなのことを同様に想っていることは事実だ。

 茜が上手い返答を考えていると、武の友達がわざと武に聞こえる程度に囁いた。

「せんせー、武も構ってほしいんだって」

 そんな彼の背中をバシバシと叩いて、恥ずかしそうに顔を赤くした武は大きな声で否定する。

「バカ! そんなんじゃねえし!」

 美咲はその様子をじっと見つめていたが、武の目にはもう美咲など映ってはいないようだった。

「もう、叩いちゃ駄目だよ。じゃあ今から武くんのところで草むしりしようかな」

 茜は腰を上げると、別に来なくていいと言い張る武の元へと歩いていく。美咲は離れていくその背中を目で追い、遠くで児童達の相手をする茜の姿を、羨望を含む眼差しで眺めていた。


 夏休みが始まってから十日ほどが過ぎた、ある猛暑の日。美咲のクラスメイトで施設に残っている羽柴はしば陽菜ひなが、お気に入りのヘアピンを紛失したと寮の部屋で騒いでいた。この施設の寮は同学年の同性が最大四人一部屋で共同生活を送る形になっているため、陽菜や美咲ら、四年生の女子七人は、二部屋に分かれてそれぞれ同室で生活している。現在はそのうち三人が親元へと帰っているため、実質のところ二人一部屋になっていた。

 ヘアピンを紛失したと騒ぐ陽菜は美咲と同室であり、陽菜は同室であること以外の根拠がないまま美咲が盗んだのではないかと疑っていて、茜にもそう強く訴えていた。茜は美咲が普段あまり物に頓着しない少女であることを知っているため、美咲が盗んだとは考えづらいと思い、陽菜にはもっとよく探すように伝えていた。

「美咲が盗んだんでしょ!」

 寮の部屋で、陽菜は美咲を突き飛ばした。二段ベッドの一段目に倒れ込んだ美咲は、二段目の影の下で小さな声を発した。

「私、知らない」

 美咲は正直に答えているのだが陽菜はそれを信用しておらず、「美咲しかいない」「美咲が盗んだ」の一点張りである。知らないこと、盗んでいないことの証明は難しい。所謂悪魔の証明というもので、美咲は為す術なく黙ってしまう。それが更に陽菜の怒りを加速させた。

「あんたが盗ってないならどうしてなくなるの?」

 あまりに理不尽な言い分であるため美咲は知らないとしか言いようがなく、それが陽菜を更に怒らせるという悪循環に陥ってしまっていた。

 何故か美咲を責め続けている陽菜が泣き出しそうになってきた頃、部屋の扉がノックされて茜が入ってきた。茜は陽菜の話を聞き、仕事を切りのいいところまで済ませて駆けつけたところだった。

「今から先生も一緒に探すから、一旦落ち着こうか」

 今にも大粒の涙が溢れそうな陽菜の背中をさすりながら、茜は優しく声をかける。責められているはずの美咲の方は傷付いた様子もなく、陽菜を宥める茜を見つめていた。

「陽菜ちゃんは今日起きてからどこに行った?」

 陽菜がだいぶ落ち着いてくると、茜はヘアピンを探す場所を特定するべく、陽菜の今日の動きを把握しようとした。陽菜は失くしたことに気付く前はトイレ以外どこにも行っていないと言うので、もう一度部屋からトイレまでの廊下を探してみるように促す。この部屋からトイレまでは、廊下を五部屋分直進して角を曲がり、三部屋進んだ先にある。

「先生と美咲ちゃんでもう一度部屋の中を探してみるね」

 陽菜は一度部屋の中を探しているはずなので、もし部屋のどこかにヘアピンが落ちているのであれば、陽菜以外の人間の目で再び探し直してみることで発見できるのではないかと考えたからだ。探し物というのは、往々にして、探していない時や他人が同じ場所を探した時にあっさり見つかったりするものである。

 陽菜がしぶしぶ部屋を出ていくと、茜は美咲に「疑ってはいないけど、本当に知らないんだよね?」と尋ねた。

「知らないよ」

 美咲は嘘を吐くほど器用ではない。茜もそのことを知っていた。

「じゃあ悪いけど、一緒に部屋を探してくれる?」

 美咲がうんと首を縦に振り、二人の捜索は始まった。部屋に二つある二段ベッドの上段は、片方は空いており、もう片方は現在帰宅している児童の寝床になっているため、どちらの二段目にもあるはずはないのだが、念のため二人で手分けして探してみる。やはりそこにはなく、二人で一段目も調べるが見つからなかった。次に、窓際の四つの机をそれぞれ探し始めた。茜は陽菜の机の下を、美咲は自分の机の下を探る。茜が机と床の間の狭い隙間に紙を差し込んで手前に引いてみると、奥から埃塗れのヘアピンが滑り出てきた。

「あっ! たぶんこれだよね?」

 茜は美咲に確認を取ろうと声をかけるが、聞かれた美咲は他人の物など意識して見ないので記憶になく、わからないとしか答えられなかった。


 ヘアピンを見つけた美咲と茜がトイレの方に向かっていると、廊下を直進した先、曲がってすぐの廊下の隅を調べている陽菜を発見した。

「陽菜ちゃん、ヘアピン見つかったよ!」

 茜が陽菜に少し埃が残ったままのヘアピンを見せて確認すると、陽菜は確かにこれだと喜んでトイレの水道に洗いに行った。

「見つかってよかったね」

「うん」

 話しかけた茜に対して美咲は相槌を打つのみで、会話はそれ以上続かない。しかし二人の間に気まずさはなく、この空間は夏の暑さとはまた異なる熱を帯びていた。建物の外から焦燥を感じさせるようなアブラゼミの鳴き声が響いてくる。

 数分後、ヘアピンをハンドタオルで拭きながらトイレから戻ってきた陽菜は、あろうことか美咲に対して礼ではなく疑いの言葉をかけた。

「もしかして、盗んだのに自分が見つけた振りなんかしてないよね?」

 陽菜はプライドが高く、自分が失くしたという事実をどうしても認めたくない上に、美咲への疑いを自分の間違いだったと覆したくもなかったのだ。

 予想だにしない台詞に茜は驚き、どう声をかければいいのか分からず思考を巡らせていた。

「私、盗ってないし、見つけたのは先生だよ」

 美咲は静かに真実を伝える。だが、動揺した様子を欠片も見せず淡々としている美咲に更に腹を立てた陽菜は、美咲だけでなく茜をも疑い始めた。

「先生って最近美咲をひいきしてるでしょ? 先生も美咲の味方してるんじゃないの」

「そんなことしない! 本当に私が見つけたんだよ、陽菜ちゃんの机の下で!」

 飛び火してあらぬ疑いをかけられ、焦ったように茜は声を荒らげた。この誤解はまずい。先日武にも美咲に構いすぎじゃないかと言われたことを思い出した。ここ数ヶ月茜が美咲を気にかけているのは、彼女が児童達の中でも特殊な状況下にあり、更にリストカットなどの問題行動やクラスでの孤立がよく見られるからである。もちろん他の児童のことも同じように気にかけていたつもりだったが、子供達にとってはそうは見えなかったらしい。そのことにようやく気付き、茜は配慮が行き届いていなかったことを悔やんだ。

「何騒いでんの?」

 不意に茜と美咲の背後から男児の声が飛んできて、茜は我に返った。声の主は、この先のトイレに向かっていた武だった。

「聞いてよ、美咲が私のヘアピン盗ったくせに認めないんだよ! 先生も美咲の味方してるの!」

 何も知らない武に自らの妄想を説明する陽菜。茜が否定しようと口を開きかけたが、武の予想外の擁護がそれを阻んだ。

「馬鹿じゃねーの? こいつ嘘吐ける奴じゃないし、盗むほど人の物に興味ないっしょ」

 まさか武が美咲側につくとは思っていなかった陽菜は、口をわなわなと震わせ戸惑いを隠せない。蝉時雨に埋もれてしまう程度の小さな音を立てて、陽菜の手からヘアピンが床に落下した。

「あ、あんた、美咲の味方するの?」

 陽菜は武を指差して半歩後ずさる。

「いや、別に美咲の味方ってわけじゃないけど、俺は……そう、真実の味方なんだよ!」

 武は美咲の味方でも、ましてや真実の味方をしている訳でもなく、正確には茜の味方をしていた。更に言えば、明らかに虚偽の説明をしていると感じた陽菜を庇ってあげたいとは思わなかったのである。

「真実の味方とか何それ、漫画の影響受けすぎじゃん、ダッサ!」

 武に向かって悪態をつく陽菜は今にも泣き出しそうなほど涙ぐんでいた。

「陽菜ちゃん、大丈夫……?」

 茜が陽菜の肩に手を伸ばそうとすると、陽菜はその手を強く払った。

「もういい! 私が悪かったって言えばいいんでしょ!」

 陽菜は居直り強盗のように叫び、身を翻してトイレの中に逃げ込んでしまった。茜が追いかけてトイレに入ると、個室の中から嗚咽が聞こえていた。

「陽菜ちゃん。本当に私が見つけたんだよ。先生ここで待ってるから、落ち着いたら出てきて、一緒に美咲ちゃんに謝ろうね」

 散々責め立てた茜からも優しい言葉をかけられ、陽菜の先ほどまでの強い敵対心はプライドと共にへし折れていた。

 扉のきしむ音を立てて美咲もトイレに入り、静かに茜の隣に立つ。壁一枚隔てた向こうですすり泣いている陽菜が落ち着くのを、茜と美咲は個室の外で三十分ほど待っていた。


 更に約一か月が経過して夏休みも終わり、親元に帰っていた児童達が再び施設に戻ってきて、九月一日に授業が再開した。ヘアピン事件以降、陽菜が美咲を敵視することはなくなった。それどころか美咲と良好な関係を築いている。泣きながら謝る陽菜を美咲がいとも簡単に許したからである。美咲は怒りという感情が欠落しており、陽菜を許さないという選択肢がそもそもなかったというのが現実だったが、陽菜にとってはあれだけ悪意をぶつけた自分を許してくれた聖人のようなものであったし、容易に許してくれた美咲を目の敵にできるほど美咲を嫌う理由はなかった。そのうえ美咲が思ったことを正直に言い、他人への悪意を持たない純粋な子であると共同生活を通して気付き、むしろ好感を持ち始めるに至ったのだ。

 外部から施設に戻ってきた児童達の中には、夏休みのうちに大逆転した陽菜と美咲の仲に驚く者も多かった。陽菜はその理由を詳しく語ろうとはしない。ただ、美咲は案外いい子だということだけ会話の随所に散りばめていた。

 夏休みのヘアピン事件以降、美咲へのいじめはぱったりと途絶えている。その理由には陽菜が仲良くなっていたことも含まれるのかもしれないが、多くの児童のストレスが夏休みを経て解消されていたことや、長期休暇を挟んだことで美咲をいじめの対象にする呪いとでも言うべき感情が児童達から霧散していたことが大部分を占めている。いじめとは些細なきっかけで始まり、些細なきっかけで消滅するものだった。

「おはよう、美咲」

 ひんやりとした夏の朝の日差しに目を覚まし、陽菜は向かいのベッドに寝転んでいる美咲に挨拶する。

「おはよう、陽菜ちゃん」

 まだ上手く覚醒しておらず朦朧とした意識のまま、美咲は挨拶を返す。

 美咲達の一日が、今日も始まろうとしていた。

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