表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

一般向けのエッセイ

みんなが褒めているものを褒める

 テレビをぼけっと見ていたら、林修というタレントが出ていた。この人は予備校講師でもある。予備校講師という事で、知的な雰囲気を売り物にしている。


 見ていると、林が、誰だか忘れたが、最近売れているタレントだかアーティストだかと対談していて、相手を褒めまくっていた。私の記憶だと、褒められている方(若い女性だった)が、褒められすぎて、若干苦笑いしているように見えた。…それに関しては私の錯覚かもしれないが、見ている私は(よくもこんな臆面もなく褒められるな)と思った。


 番組を見ていて思ったのは(林修というのは今はこういうポジションなんだな)という事だ。他にも似た人が何人かいるが、彼らの特徴は以下の二点だ。


 ① 「知的なエリート」を売り物にしている

 ② 流行りの物を褒める


 この二点が彼らの役割で、この役割をそつなくこなして、おまけにキャラクターがいいとテレビでは重宝される。読者は今、この役割を演じている学者やら何やらが二、三、頭に浮かんでいるだろうと思う。その人達で大体合っている。


 彼らがメディアの世界で生き残っているのは需要があるからだ。どういう需要かと言えば、「知的な、権威的な雰囲気の人が流行り物を褒める」という役割だ。


 それでは、その役割は何故必要なのだろう? 答えは次のようなものだ。


 今は大衆社会であり、大衆が面白がるもの、褒めそやすものがヒット商品としてメディアや市場を流通する。これはそれ自体でも価値を持つとされているが、きちんとした目で見ればレベルが低かったり、幼児的だったり、問題がある場合が多い。それでも高度な趣味を持たない人の方が圧倒的に多いので、レベルの低いものがヒットするのは普通の事態だ。


 しかし、ヒット作を「レベルが低い」などと言えば多方面から怒られてしまう。ヒット作は、大抵は内実に欠けており、鑑賞者が作品の価値を本当に確信できるものではない。自分の中で、作品の価値を確信するには、多方面な知識・教養と照らし合わせて吟味する必要がある。だがそんな能力の持ち主はほとんどいない。大衆が揃って絶賛したとしても、それはふわふわした称賛であり、本当に価値があるかどうか、と問われれば、誰しもはっきりとは答えられない。


 要するにヒット作をみんなで褒めても、心の底には一抹の不安が残っている。(もしかしたら、くだらない駄作かもしれない)とか(大人が見るには恥ずかしいものかもしれない)という想いがある。


 この不安をなだめるのが、上にあげた林修のような人の役割だ。「何だかよくわからないけど知的で権威のある人」が「ヒット作を絶賛」してくれれば、素人の自分達が褒めて、楽しんでもいいのだ、という気がしてくる。彼らはそういう大衆の不安を慰撫する為に召喚された存在だ。


 そういうものが、今、テレビに出ているインテリの役割なのだろう。今の世の中は愚劣万歳の世界なので、インテリというのはほとんど必要ない。インテリが必要となるのは、インテリという権威が大衆が遊んでいるおもちゃを承認するという部分においてだ。


 あるいは、インテリの持っている知識や教養を、大衆向きに鋳直すという方向もある。これは「崇高な哲学」を「自己啓発」に流し込むようなものに代表される。私はある哲学者が散々、過去の偉大な哲学者や作家の名前をあげて色々言ったあげく、最後には庶民向けの通俗的な解答を出していたのを見た事がある。それは書籍だったが、今のインテリの役割というのはこうしたものだ。


 それで、こうした問題点をあげつらって、私が何を言いたいかと言えば、実はそんなに言いたい事もない。(相変わらずだなあ)と思うばかりだ。


 私もネットに文章をアップして長いので、なんとなく、人がどういう文章、どういうものを欲しているのか、予想がつく。(この文章はポイント付きそうだな)と思ったものが、他の文章よりも多くポイントが付いた事が何度かある。私も実生活では空気を読んでいる人間なので、空気を読んだ行動はそれなりにできる方だ。言論の世界でも空気を読んだら、もう少し人気が出るかもしれない。しかしそうなったら、私は私が書く動機を失うだろう。


 ネット上でみんなに「いいね」してもらいたい、「ポイント」が欲しいのなら、みんなが褒めているものを褒める、というのが一番安パイだろう。私が他の人の書いたものを見ていても、褒めている文章の方がポイントが多い印象がある。


 褒めている内容がそれなりに難しい場合もあるが、私の見ている限り、多くの人は内容を吟味して「いいね」しているわけではない。それよりも自分(達)が褒めているものを他の人も褒めているのが心地よいのだ。その心地よさで「いいね」をつけたり「ポイント」をつけたりしているのだろう。


 「みんなが褒めているものを褒める」の逆バージョンで言えば「みんなが貶しているものを貶す」というのもある。これもポイント稼ぎには有効だろう。ただ、貶す場合、貶していたものが、時間が経って、世間的にも実は(良いものだ)となった時、後から赤っ恥をかく可能性がある。だから、やはり「みんなが褒めているものを褒める」のが一番楽で、心地よい行為という事になるだろう。


 まあ、こうして書きながらも、私は読者の要望に答える気はない。大衆の要望に答えているアーティストを見かけると(この人は終わったな)と私は判断する。世界との葛藤の中に表現があるので、迎合の中に表現があるわけではない。


 ちなみに、今、好まれる迎合の在り方の一つは、迎合するやり方を「独創的」だとか「異端」とか「常識を捨てる」とか、色々な衣装をつける事だ。迎合するにも手が込んだやり方が成されている。この詐術は進歩する一方で、ある意味芸術的とも言える。しかし多くの人が思っているほど、こうして積み重ねられた塔は頑強なものではない。…というか、人々の無意識において、その事はうっすらとわかっているだろう。


 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ