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3-1 人生の分岐点(1) アルバートの手紙

 左の本から右の紙へ、文字を書き写す。


 写本という仕事は、たったそれだけの仕事だ。文字の読み書きさえ出来るのなら子どもだって難しい作業ではない。

 唯一の問題は、元の本も手書きであるという点で、元の本の文字がかすれてしまっていたり、経年劣化で文字がにじんでいたりすると内容を類推しなければならないということだ。


 もっとも、聖典の場合、過去の修道士達の尽力によって無数に複本されている上、ほとんどの修道士は内容を暗記しているので、そういった問題も皆無だ。

 そんなわけで、聖典の写本というのは、ひたすら書き写し、書き写し、書き写し、書き写すだけの作業である。


 作業時間は朝の朝昼食を終えてから日没まで。その間、大聖堂の写字室にこもり、ずっと文字を書きつづける。修道士のほとんどが色白で痩せ細っているのはこれのせいではないかと、文字を書き続けながら私は考えていた。




「……あー……、腕が……、腕が……」


 私はベッドの上に寝転がり、ぷらぷらと右腕を震わせた。

 ファリンダはベッドの上にひざをつき、私の腰を揉み始める。


 そして、いつものようになぜか私の部屋でワインを飲んでいるシスター・アーニャは、そんな私を面白い生き物でも見るかのように興味ぶかげに眺めていた。


「……で、シスター・レーア。良い男はいた?」


 ……聞くと思った。

 私は頭の中で思い浮かべていた予想が的中し、シスター・アーニャに苦笑いを見せる。


「良い男どころも何も、誰一人として話しかけられなかったです。まるで私がそこにいないみたいな感じで無視されていました」


 私が言うと、あはは、とシスター・アーニャは快活に笑った。


「ま、だろうね。修道士なんてのはたいがい自尊心の塊みたいなもんだから」


「それ、偏見じゃないですか?」


 私は言った。


「いいや、絶対そうよ。ブラザーになるには、シスターになるより高い持参金が必要だから、なるのは貴族の次男とか三男とかしかいないのよ。爵位と領地を継げないコンプレックスを抱えた連中が、教会権力を手にするために一日四時間も寝れない厳しい修行生活を毎日送っているんだから、そりゃあ自尊心くらい高くないとやっていけないでしょ」


 そういえば、写本中にうとうとしているブラザーが多かったな、と私は思い返した。あれはもしかしたら、こっそり居眠りをしていたのかもしれない。


「……ということは、シスター・レーアは浮気はしてなかったってことね」


 シスター・アーニャが、突然何の脈絡もなくそんなことを言った。


「何の話です?」


 私が尋ねると、シスター・アーニャは口元をゆるませながら、自分の胸元から一枚の白い便箋(びんせん)を取り出した。

 そして、手紙の差出人を見た後、わざとらしくかしこまった口調で、それを読む。


「――ニコラウス・ディアック伯爵子息、アルバート・ディアック」


「アルバート!?」


 私は一年ぶりに耳にしたその名前を聞いて、背中を揉んでくれていたファリンダを押しのけながら飛び上がった。

 私の反応を見て、シスター・アーニャはにんまり笑った。


「ん? あれ~? もしかして、恋人?」


 ベッドから下りて、私はシスター・アーニャから手紙を奪い取る。


「違います。元婚約者の弟です」


「にしては、反応がずいぶん良かった気がしたけどー?」


 くくく、とシスター・アーニャはいやらしい目つきで微笑んだ。

 私はそんな彼女を無視して、ナイフで便箋の封を開け、中に入っていた手紙を読み始める。


 アルバートの手紙には、彼自身が、修道院に入ることになった私のことを案じてくれている様子が数枚に渡ってびっしりと書かれていた。

 たった一度きりしか会っていないにもかかわらず、そのうえ、とてもひどい出会いだったにもかかわらず、彼が私のことをとても心配してくれていることに、私は強く胸を打たれた。


「……ちょっと、泣いているの? シスター・レーア。まさか……、誰か死んだの?」


「違います! アルバートが私のことを心配してくれていただけです!」


 私は涙を流しながらも微笑んで、シスター・アーニャに言葉を返した。


「シスター・アーニャ。お酒飲んでいるだけなら、私の部屋を出ていってくれませんか? これから手紙の返事を書きたいので」


「えー、別に私が居たっていいじゃない。人生の先輩として内容を優しくチェックしてあげるわよ」


「嫌です! 絶対からかうつもりでしょ!」


 私はベッドに腰掛けていたファリンダの方へと向く。


「ファリンダも、今日はもう遅いからそろそろ宿舎に帰りなさい」


 私は言った。

 けれど、ファリンダは私のことをじっと見たまま、何の返事もしなかった。


「ファリンダ……、どうかした?」


 私がもう一度言葉を投げかけた時、ファリンダはようやく、はっとしてから返事をする。


「あ……、ごめんなさい。レーア様」


「どうかしたの? 眠くなった?」


「ううん、そうじゃなくて……」


 ファリンダは首を振り、もう一度私を見た。


「……私も、手紙、書けるようになってみたいと思って」


 そんなファリンダの言葉に、私とシスター・アーニャは驚いた。


 ファリンダは他の使用人達と同樣に読み書きが出来ない。

 以前、一度だけファリンダに読み書きを教えることを提案してみたけれど、他の使用人達が出来なくても何とかなっていることを、あえて苦労して覚える気にはなれなかったらしく、やんわりと断られた。


 そんな彼女が、自分から読み書きを学びたいと言ってくれたのだ。


 私は思わず、ファリンダのことを抱きしめた。


「それは素晴らしい考えだと思う! ファリンダが読み書きができるようになれば、私が部屋に居ない時も書き置きで連絡が取れるようになるし、他の使用人達だって読み書きを学びたいと思うようになるはずだわ!」


「……レーア様、教えてくれますか?」


 ファリンダは微笑みながら言った。


「もちろん! 私とあなたの仲じゃない! 遠慮なんていらないわ!」


 私は笑みを浮かべながら言った。

 すると、ファリンダも声をあげて明るく笑った。


 そんなファリンダの笑い声を聞くのは、私はその時が初めてだった。

 アルバートの手紙、ファリンダの笑い声、その日は二つも良いことが続き、私はすごく幸せだった。


 ……とはいえ、良いことが起こった後には、たいてい悪いことが起こるものだ。

 その翌週、私はとても不快な二つの出来事に遭遇した。

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