一年後
烏丸亘は、春の色の下を歩いていた。川面には、薄桃色の花びらが浮かんでいる。上を見上げると、今年は開花の遅れた桜が咲き誇っていて。スマートフォンをかざして、それを画面に封じ込める。カシャリ、というシャッター音が小気味よく響いた。家族のメールアドレスを呼び出すと、ファイルを添付した。――これから麻木先生の所に行くよ。桜が、綺麗に咲いています。
送信しようと文面を作っているところに、メールを受信する。見ると、長男の旭からのメールだった。宛先は、妻と娘と、自分。――桜が綺麗だよ。これからバイト行ってきます。彼の高校の近くの公園で撮られたと思われる写真が添付してある。
ふ、と亘は笑みを零す。本当に親子だな、と思って。
混み混みした下町の道を進んで、麻木仁のマンションに入る。階下でオートロックを開けて貰い、居室のチャイムを鳴らすと、眠たそうな顔の仁が出てきた。
「お疲れ様です。原稿を頂きに伺いました」
頭を下げた亘に、仁は笑って頷いて見せた。
この春の人事異動で、亘は再び麻木仁の担当になった。今日は、この八年をかけて連載をしていた人気漫画「君と僕」の最終回の原稿を貰う予定になっている。
どうぞ、とリビングに通される。プリントアウトした原稿を確認して、亘はテレビ台の横に置かれた写真立てを見る。一ヶ月ほど前の写真だった。澪の高校合格祝いに出掛けた、温泉の。写真の中央には、澪が居る。浴衣を着て、両手でVサインを作っている。澪の両端を旭と佑が囲む形になっている。そこにいる三人の子供達はみんな笑顔で。
「飾ったんですね、写真」
亘の言葉に、仁は頷く。記念なので、と彼は言って笑った。
出されたコーヒーを飲みながら、亘はその写真を眺める。
「…大きくなりましたよね。佑君は」
この一年で、彼の身長は十センチ以上伸びた。膝が痛いと言って笑っていた。
「お陰様で。旭君も今年は受験ですよね」
「ええ。突然教師になるとかって最近言いだして」
亘が苦笑すると、仁は大まじめな顔で「良いじゃないですか」と言う。
「ああ、そうだ。『鵺の戦士』アニメ映画化ですってね。おめでとうございます」
忘れてた、と亘が言うと仁は照れたように笑った。
「ありがとうございます。昔の作品で少し恥ずかしいですけど…うん。嬉しいことです」
「今回声優もかなり豪華だって聞いてますよ」
「まあ、まだ予定ですけどね」
仁はそう言うと、クリアファイルに入った「仮」の文字が入った声優リストを取り出す。そこに羅列された声優の名を見て、おや、と亘は言う。
「この子…あれですよね。この間のSF映画に出てた…あれ?確か、青峰の?」
「えぇ。佑の友人です。そうそう。冬休みには、この子の実家に一泊させて貰って」
「実家?」
「はい。東北の方で、離婚したお母さんがお姉さんと暮らしているそうで。二人してお姉さんに何故だか編み物を教えて貰ったそうですよ」
仁はそう言うと楽しそうに笑う。
「この間の休みは、鉄道好きの子と朝から博物館に行っちゃうし、もう段々と親離れしてきたなって感じで」
「まあ中学生だとそういうもんですよね」
亘はそう言って笑う。旭が「死ねジジイ」と叫んだのは確かに佑と同じぐらいの時だった。
「そういえば澪ちゃんに彼氏が出来たとかって、旭君に聞きましたけど」
仁の言葉に亘は大仰に頷く。
「そうなんですよ。しかも、何だかちゃらちゃらしたやつで。そもそも眉毛を整えている男が俺は許せないんですよ」
眉毛、と仁が笑う。
「まあでも」
そう言って亘は原稿を鞄にしまいながら言う。
「何だかんだと、毎日が過ごせてるって凄いことですよね」
ええ、と仁は言う。
「本当に。――凄いことです」
「ああそうだ…。桜が散る前に、お花見でもしませんか。澪が弁当を作ると張り切っているので」
「ああ、良いですね。――ええ、是非」
亘は原稿を抱えたまま、電車に揺られている。車内で同様に揺られている人たちを見ながら、思い出す。あの日――澪が、自分と二人きりの時にぽつりぽつりと話したこと。全ての人の全ての持ち物に、物語があるという話。彼女はそれを言いながら、仁と佑に貰ったという紙袋の中身を、一つ一つ出していった。可愛い雑貨や文房具などが、机の上いっぱいに広がる。まるで、机を埋め尽くすように。もしもこれが溢れたら、彼女はどうやってそれを零すのだろうと亘は思いながらそれを見ていた。水分を含んだ雲が、泣き出すように?
ぐるり、と亘は車内を見回した。もうすぐ夕方になろうかという時刻のそこは、帰り道といった風の人間が多かった。学業を終えた学生や、買い物袋を抱えた若者。楽しかったね、と語り合う中年女性達。疲れて眠りこけた子供を優しげに見る、母親。目的を終えた彼らは、何処か和らいだ顔をしている。家に向かっている、人たち。そうだな、と亘は思う。彼らにもきっと、泣き出したくなる夜があって。幸福の絶頂の日があって。こだわりの持ち物があって。けれどそれは、何処に染み出る訳でもなく、歴史に刻まれるわけでもなく。五年後にはきっと忘れてしまっているもので。そして、沢山の物語が待っている家に帰るのだ。一目惚れをした家。親から受け継いだ家。引っ越したいと願っている家。お気に入りの雑貨を並べた家。散らかっている家。彼らの鍵に着いているキーホルダーは、どんなものだろう。本革のキーケース。子供の写真が閉じ込められたプラスチック。手作りのビーズ細工。
ゆっくりと空は、闇に向かって動き出す。空が、少しずつ崩れるように暮れていく。
不意に先程受け取った仁の最終回を思い出す。
最後のシーンは、静かな風景だけの場面だった。大きな月が、空に浮かんでいて。
これが、雑誌に載るとき。小夜子はそれを手に取るだろうか。
願わくば、と思う。願わくば、あの最終ページが、彼女を構成する物語の一つになりますようにと。




