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君と僕  作者: コトヤトコ
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第五章 河野幸芽

 その翌朝に、小夜子さんが家を訪れた。彼女は紙袋いっぱいに詰めたおかずをぶらさげながら、憔悴しきった顔で僕と父さんを見て、頭を下げた。まだ僕のうちの冷蔵庫や冷凍庫には、旭君が持ってきたおかずが山のように入っているのだけれど。父さんは何も言わずにそれを受け取ると、彼女に座るよう勧めた。

 今、澪ちゃんは小夜子さんの夫である亘さんと一緒に居るらしい。海外出張から帰ってきた彼は、辛抱強く澪ちゃんの話を聞いている、と小夜子さんは言っていた。

 僕は学校に行く支度をしながら、リビングの父さんと小夜子さんの会話に耳を傾ける。小夜子さんは、泣いているらしかった。時々、声が震えて歪んで聞こえる。

「――私、つい間違っていることは、間違ってるって…言っちゃって。主人は…それはしちゃ、いけないって言って…いて」

 うん、と父さんが相づちを打つ声が聞こえる。

「…どうして私――…どうしたら、ちゃんと子育てが出来るんでしょう」

「…小夜子さん」

「私――…たぶん、子育てを間違えたんだと、思うんです」

「そんな」

「――箸の持ち方とか…電車でのマナーとか、友達の悪口を言わないとか…そんなことは…一番必要な事じゃなかったんです。だって、世の中にはそれをしている大人なんて、腐るほど居るじゃないですか。彼らは、幸せそうに生きて居るじゃないですか」

 彼女の声は、何度も何度もぶれて。僕は、洗面所で歯ブラシを持ったまま上手く動けない。

「小夜子さん、でも」

「私は…それが大事なことだと思ってました。社会に属する上で…大事なことだと…。親として、ちゃんと教えてあげなくちゃ行けないことだと」

 でも、と彼女は言う。

「私は、もっと大事なことを…澪に教えてあげられなかった」

 僕は目を伏せる。

――…みんなには分からない。

 澪ちゃんの言葉が、洗面所の明かりの下に蘇って。

「…どうして、伝わらなかったんでしょう。たとえ…電車で騒いでも、万引きをしても、何をしても…。私は、澪のことが大切だったのに」

 洗面所には、ダイニングから流れ込んできた食べ物の匂いが僅かに漂っていて。

「どうしたら、それを伝えられるんでしょう」

 トマトの熟れた匂いと共に、小夜子さんの泣き声が僕に届く。

「先生、私――…私…」

 小夜子さん、と父さんの温みを帯びた声が、そこに重なって。

「…俺は、高校生の時ぐらいまで、自分は生きていてはいけない人間だと思ってました。生きているだけで、世の中の迷惑になると…そう思っていました。だから、電車では息を止めるように隅に乗っていたし、買い物に行ったら、なるべく潰れたり痛んだりした野菜を買ったりしていました」

 父さんの声は、何処か柔らかくて。僕は息を止めて、それを聞いている。

「先生――」

「でも、そんな俺が変われたんです。澪ちゃんよりずっと、年上の時に、変われてるんです。だから、大丈夫です。人間は、いつだって変われます」

 父さんは、静かに言う。

「でも、俺にそれをくれたのは、親ではなかったです。茜と、佑です。二人が、俺を救って、生きていて良いんだよって、思わせてくれた。世の中を構成している誰かが、良いんだよって言ってくれれば、それだけで救われるんです」

 かあ、と耳が赤くなった。父さんは、僕がここにいることを知っているのだろうか。

「ホントは、俺が何かしてやらなくちゃいけない立場なんですけどね」

 照れたように、笑ったように言う父さんの言葉が熱くなった耳に触れる。

 小夜子さんの嗚咽が、大きくなる。

「小夜子さん。荷物を、少し分けませんか。人一人を育てるのに、親が全て背負うことはないです。現に佑を、一緒に育ててくれたじゃないですか」

(…父さん…)

 胸の中が不意に柔らかくなる。

 そして、父さんは、「佑」と僕を呼ぶ。

「…聞いてただろ?全部」

 僕は洗面所から顔を出して、迷ってから、こくん、と頷いた。

 父さんは笑って、おいで、と手招きをする。小夜子さんは、赤くなった頬と鼻をティッシュで押さえながら、僕を見た。

「生きて、幸せになることが…全宇宙的に見て正しいかどうかは分かりません。でも、少なくとも俺の中では、正しくて落ち着くことだと思うんです。ただ、それだけです。――その結果が、俺と佑だと思ってます」

 僕は、小夜子さん、と彼女の名を呼ぶ。

「…僕、澪ちゃんのことが好きです」

「え?」

「澪ちゃんに伝えて下さい。――僕は、澪ちゃんがどう変わっても、変わらなくても、好きですって」

 格好良く――もしくは父さんのように落ち着いて言おうと思ったけれど、それは全く叶わなかった。目はあちらこちらに落ちつきなく動くし、手は、もそもそと動いている。何度も舌を噛みそうになりながら、早口でそれを伝える。頬が熱くなっているのが、自分でも分かった。

「死なないで生きていてくれれば、それで良いですって」

「たあくん…」

 恥ずかしくて、身体が上手く動かせなくて、僕は慌てて時計を見る。

「あ――…あの、僕、もう行くね。あ、今日はあの…午前授業だから」

「ん?あ、そうか」

 うん、と僕は頷く。

「…あ、そうだ、じゃあ…これ、もらっていっても良い?」

 ひょい、と小夜子さんの持ってきた紙袋を持つ。

「友達と、分けて食べるよ。ありがとう」

 そう言うと僕は、慌てて玄関に向かう。ドアを閉める直前、鞄忘れてるぞ、と父さんの慌てた声がそこから漏れてきた。



 学校の最寄り駅に着くと、しかし僕は学校の方向へは向かわず、駅に隣接した高層マンションへ足を向けた。玄関で十階と二十八階のどちらを押そうかと、オートロックの機械を見ている時に、向こう側から自動ドアが開いた。

「…アサ?」

 ほっと僕は息を吐く。おはよう、と言うと、河野幸実はやや眠たそうな、そして不思議そうな顔で僕を見た。

「こんな所で…どうしたの?」

「これ」

 ぐい、と僕は紙袋を河野に差し出す。彼は、目をぱちぱちさせて、それをのぞき込んだ。

「…何これ」

「河野。お姉さんの所、一緒に行かない?」

「え?」

「北の方だよね?何県?最寄り駅ってなんて言うの?」

「アサ?」

「どうせ今日は午前中だし。サボっても大丈夫だよ。宮本君に電話したら、行き方すぐ教えてくれるから」

 全く状況が掴めていないといった風の河野は、困ったようにきょろきょろと辺りを見回す。

 年配の警備員が、こちらをじっと見ている。もしかしたら僕は彼を虐めているように見えるのかも知れない。

「――行こうよ、河野」

「…でも」

「行かなきゃ、駄目だよ。行って、きちんとしよう。電車賃も、出すから」

 僕は財布の中の、スマートフォンの修理代にと貰った三万円を思いながら言う。父さんごめん、と思いながら。まだ残っているお年玉とお小遣いで、どうにか返します。

 再び、でも、という河野に僕は言う。

 あの日、僕のスマートフォンを壊してまでも、つまらない脅しのようなことをしてまでも、家に来いと言った河野。あの時彼は、本当にあんなことを言いたかったんだろうか。

――君は、転んでいる人がいたら、助け起こさないの?

 もしもあれが、彼からのSOSだったとしたら。ごめんね、と呟いた彼のあの震えを、どうして見過ごしたのか。

「行こう、河野」

 ようやく河野は諦めたようにため息をついた。分かったよ、と彼は言う。

「でも、ちゃんと授業には出ようよ。今日の一時間目は、英語の小テストがあるんだから」



 どうして、と河野は言った。

 特急電車の中だった。あの後、一旦学校にいて授業を受けた僕たちは帰りのHRを終えて、そのまま宮本君に言われた通りの電車を乗り継ぎ、そしてこの特急に乗り込んだ。折りたたみ式の簡易机の上に、小夜子さんの作った食べ物を広げて。

「…どうしてって?ああ、北の方ってのが分かったってこと?窓の外に、桜が見えたからさ。こっちはもう殆ど散っちゃってるから…」

「そうじゃなくて」

 僕の言葉を遮って、河野は少し笑う。彼は僕の進めた食べ物に、素直に箸を伸ばした。椎茸の挽肉詰めを食べて、美味しい、と言った。

「え?じゃあ、何がどうして?」

「ううん、何でもない」

 河野は柔らかい空気を含んでいるように思えた。一つ一つのおかずを、噛みしめるように食べる。

「河野」

 僕の言葉に、河野は顔を向ける。

「――…ごめんね」

 え、と河野は目を瞬かせる。何が、と彼は問うた。

「…ちゃんと、話を聞かなくて」

 僕の言葉にも、河野は理解出来ないというように瞬きをするだけだった。気にしていたのは、多分、僕だけだったのだ。僕は大凡一週間ほど前に、河野の家に行ったときに理由も聞かず、姉を殴打したと告白した河野から逃げたことを謝った。河野はぽかんとしたように聞いていたが、ようやく理解出来たようで、肩の力を抜いて、笑った。

「良いよ。全然気にしてない」

 僕もようやく、ほっと息を吐く。そして、小夜子さんの作ったご飯を食べ始めた。小夜子さんのいなり寿司は、少し甘めで美味しい。

「――俺も、ちゃんと話さなかったから」

 河野はそう言うと、車窓を眺める。広い窓の向こうには、春が広がっている。少しずつ、うす桃色が増えている気がする。時が、巻き戻る、なんていう陳腐な表現がしっくり来る。河野の横顔が、少し幼く見えるのは気のせいだろうか。

 やがて彼は、ぽつりぽつりと話し始める。

「…俺と幸芽は双子だったけど、似て無くてさ。まあ、二卵性って事を割り引いても…うん、似てなかった」

 彼はそう言って、生徒手帳に挟んだ写真を僕に見せる。深緑の綺麗な色のセーターを着た二人の子が、こちらに向かってはにかんでいる。二人とも髪型は同じショートカットだけれど、成る程確かに似ていない。向かって左側の恐らく河野幸実は、さらさらとした柔らかな髪をなびかせていて。その右側の幸芽と思われる子供は、硬そうな髪を、ニット帽で隠している。顔のパーツ――眉毛の濃さや鼻の角度などを見ても、やはり似ていなかった。特別驚くほどの酷い顔ではないけれど、横に河野がいるせいで、その不器量さが際立つ。

「普通、双子じゃなくてもきょうだいって多少は似るもんじゃない。でも、俺と幸芽は共通点を探す方が難しいぐらいで」

 そう言いながらも彼は、おかずに手を伸ばす手を止めない。肉じゃが。鯖の味噌煮。太巻き。

「俺は母親似でさ、それもあったせいか、母親はいつでも俺のことばっかりを可愛がってた。幸芽はどっちかと言えば怒られ役でさ」

「…うん」

 僕には兄弟がいないので、よく分からない。見た感じだけでは、旭君と澪ちゃんも平等に可愛がられていたような気もするし。

「幸芽は、ずっと俺のことを憎んでいた。俺が全部、綺麗な部分を持って行っちゃったって」

 どう相づちを打てばいいのか分からず、僕は仕方なく「うん」と言う。そう言えば姉だと河野は言っていた。女の子の方が不細工というのは、やはり傷つくものだろう。

「そしてあの日、幸芽は俺に…ノコギリを突き立てたんだ」

「…ノコギリ?」

 うん、と河野は言う。

「あの日は…母方のばあちゃんの家に行っててさ。蔵で幸芽と二人で宝物探しをしてたんだ。ほら、良くテレビであるだろ?古い掛け軸が何千万とかって。それを見つけようって言ってさ」

 ああ、と僕はテレビ番組を思い浮かべながら相づちを打つ。

「――その中に、古い着物があったんだ。多分、ばあちゃんのだったのかな。もうかび臭くて、埃まみれで、汚い奴だったんだけど…幸芽が、着てみたいって言って。勿論サイズも合わないし、着付けなんて出来ないから、ちょこっと羽織っただけだけど。…凄い、綺麗な着物だったんだ。赤地に…花がいっぱいついてて。色も金とか紫とか色んな色で模様がついてて」

 言いながら河野は、優しげに笑う。姉の晴れ着姿を見た、弟の笑み。けれど彼は、すぐに顔を曇らせた。マカロニサラダを口に入れる。

「幸芽は、俺には別の…暗い色の着物を着せた。紺かなんかだったかな。女物だけどね。それで…二人で、ファッションショーごっこをしているみたいに、楽しんだんだ。最初はそれで良かった。二人で、そのままの格好で宝物探しの続きをしててさ。…でもそこで、古い鏡台を見つけたんだ」

「…きょうだい…ああ、鏡台」

「つまりどういうことかというと、幸芽は綺麗な着物を着た自分をそこでようやく鏡越しに見たんだな」

 河野は寂しそうに言って、いなり寿司を咀嚼する。

「夢から覚めた、みたいな顔をしていたよ。幸芽の中では、俺が赤い着物を着ているようだと思ったんだろう。だって、双子なんだから」

「…うん」

「幸芽は、わんわん泣き出した。どうして、って。どうして、私はこんなに不細工なのって」

 河野はそう言うと、ようやく思い出したようにペットボトルのお茶を口に含む。沢山あった食べ物はあっという間に八割方が減っていた。僕はアスパラのベーコン巻きを食べながら、問う。

「――それで、ノコギリを?」

「うん。まあそんなとこ。俺の存在自体が、許せなかったんじゃないかな。世の中に、彼女レベルの人間なんて山のようにいるし。多分、メイクとか髪型とかでは多少変わると思うんだけど。でも、そういうのは問題じゃなかったんだよね。俺が居ることが、彼女にとっては許せなかった。いつかそう言う日が来るとは思ってた。思ってたよりは、早かったけど」

 でも、と河野は苦しそうに言う。

「…それを、受け入れようとずっと思ってた。思ってた…筈だったんだけど…。気づけば俺は…ノコギリを取り上げて、それで、幸芽を…」

 河野は泣いていなかった。微かに震えているだけで。でも、下唇を、ぎゅっと噛んでいて。

「俺は、生きていちゃ行けないんだ」

――俺は、二十歳過ぎまで自分は生きていてはいけない人間だと思ってました。

 父さんの言葉が、河野の言葉に重なる。

「…俺が居る限り、幸芽は幸せになれないんだよ」

 ぽつりと、河野は言う。

 その時、何故だか不意に僕は強い不安を覚えた。何の根拠も無い、足のない不安。風のように、翼だけが舞うような。

「――…河野」

 こちらを見た河野の顔は、とても穏やかで。

「…葬儀をするっていう『死骸』って…君のことなの?」

 僕の問いかけに、河野は穏やかな笑みのまま、頷いた。

「待って、それは――」

「俺は、姉が…幸芽のことが、世界で一番大切なんだよ」



 特急を降りて、ローカル線を二本ほど乗り継ぐ。彼の姉である幸芽の病院は、そこから更にバスで三十分ほどの所にあった。時刻は既に三時を回っている。

 僕はすっかり軽くなった紙袋を下げたまま、河野と共に病院の入り口を通った。

「一緒に来てくれる?」

 河野の言葉に頷くと、彼はほっとしたようにエレベーターのボタンを押した。

 彼女の部屋は、一番奥にある個室だという。隣室の四人部屋の入り口にあるネームプレートを見て、あれ、と僕は何かの違和感を覚える。田口一樹、渡辺亮、小山信蔵。

「…待って、河野。お姉さんって…」

 河野は何も言わずに、個室のドアを開く。そこには、あの時十階で見た景色が広がっていて。

「――…久しぶり、幸芽」

 河野はそう言って、そこに寝ている姉の頭を撫でる。僕は、ぼうっとベッドの上部柵に張り付いている立花幸芽、と書かれたネームプレートを見ていた。入院日、20××年5月1日。生年月日20××年4月9日生まれ。A型。――性別、男性。



 河野は、じっと幸芽さんを見つめていた。彼女の頭には包帯が巻かれていたけれど、いつか見た澪ちゃんの手首と同様に真っ白いだけのそれは僕に何の想像も呼び起こさせなかった。

 一時間ほど経っただろうか。窓の外には、まだ桜が風にそよいでいて。扉の向こうからは、足音や声が絶え間なく聞こえていた。

「僕が死んだら、幸芽は目を覚ますかもしれない」

 囁くように河野が言う。僕は、彼の顔に視線を這わせる。

 彼は、少しだけ目を細めた。笑ったつもりなのかもしれない。

「さっき、母親が僕ばかりを可愛がってたって言ってたでしょ」

「あぁ…うん」

「事件が起こってからは、真逆になったんだ。母は、もう幸芽のことしか見てない」

「…寂しい?」

 僕の問いに、河野は首を横に振った。

「幸芽が、望んでいるとおりになって…むしろ嬉しいよ」

 河野は、と言った僕の声は震えて少し滲んでいた。

「お姉さんのことが、好きなんだね」

「うん」

 あの、新入生代表挨拶のような綺麗な声で、河野は断言する。

「大好きだよ。世界で一番」

 けれど彼の顔は揺らいでいて。

「…河野は、どうして芸能界に入ったの?」

 僕の問いに、河野はゆっくりと顔をこちらに向ける。

「どうして、って?」

「どうして?」

 再び問うと、彼はじっと姉の顔を見つめた。鼻に、チューブが刺さっている。青白い、顔。

「――…別に。暇だったし…」

「河野は、今、一人暮らしなんだよね?」

 こくん、と河野は頷く。素直なその仕草は、いつか僕に謝罪をしたときの表情を浮かべていて。――つまりは、泣き出しそうな、顔。

「生活費とかって…どう、してんの?」

 僅かに彼は、口の端を歪めて笑った。それが多分、答えだった。

「おとう、さんは…」

「知らない」

 機械音が、している。ヴー、という低い音だったり、ピ、ピという高い音だったり。

 河野は暫く沈黙をした後、深く息を吐いてから、僕に椅子を勧めた。自分も座ると、もう一度息を吐いてから、続けて同じ場所から言葉を吐く。

「あの家は…二十八階が、うちの父親のもので…十階が…うん、なんて言うのかな。父親の恋人のもの、といえば良いかな」

「…恋人」

「まあ、母親と別れて何年も経ってるし。別にね、居たところで問題もないんだけど。あ、ちなみにその人はカメラマンなんだ。あそこは家兼スタジオって感じ。まあ芸能活動は…その人に勧められて、始めたんだけど」

「うん」

 相づちを挟むと、河野は小さく頷いた。

「まあ、別にでもそんな目立つつもりはなくて。雑誌の読者モデルで終わろうと思ってたんだ。いいお小遣い稼ぎになるなっていうぐらいで。…まあ、思えば、俺を独り立ちさせるために勧めたんだろうな。結局は今、仕事を増やすしか無くなってるんだから」

 独り立ち、と僕は繰り返して、はっと顔を上げる。

「…今、二人は――」

「知らない。心中をほのめかす書き置きがあったけど――…実際はどうなのかは、分かんない。まだ、発見されていないのは確かだけど」

「それは…」

「つい最近の話だよ。…ていうか、受験の日。その日は父親が仕事を休んでいてさ。てっきり迎えにでも来てくれるのかと思ってたら…。帰って来たら、書き置き一枚がぺろんってね」

「――河野」

「口座にはまだそれなりに残高があるから、引き落としされる金は問題無いんだ。マンションの管理費とか、光熱費とか、俺の携帯代とか。…でも、現金が、足りなくて。ハンコはあったんだけど、キャッシュカードとか通帳が見あたらなくてさ。もしかしたら銀行とか…役所とかで相談すれば、何とかなるのかもしれないけど」

 僕は半ば泣き出しそうな思いで、彼を見る。

「…それで、仕事を?」

「うん、まあ…。丁度、ドラマの話も来てたからさ。授業料と、食費ぐらいはどうにかね」

 ふう、と河野は息を吐く。

「正直、出来れば芸能活動以外のことで働きたくてさ。でも、いけるかなと思った新聞配達はうちは中学生は駄目って断られちゃったし。家にあるものを売るにも親の許可が無いと駄目だし。…まあ、何回かは許可書を偽造して売ったけど」

 といってもCDや本だからたいした金にはならなかったけど、と河野は苦しそうに微笑む。

「…芸能活動は、嫌い?」

「ん…いや、嫌い、ではないよ。うん。別に」

 うん、と彼は頷いて、それから、でも、と呟いた。

「…別に、やりたくはなかったかな」

 そう、と僕は答えて、そして、眠っている彼の姉を見る。彼のその消極的姿勢は、彼の姉と関係があるのだろうか。姉の憎んだ顔を、情報媒体で垂れ流すことによって稼いで、生きて居る彼。

 彼はぼんやりと、姉の顔を見つめている。不器量な、その顔を。河野と幸芽さんの共通点は、何処だろう。

 僕は、どうしようか少し考えてから、言葉を紡ぐ。

「でも、あの――…良かった、よ。ドラマ」

「え?」

「…その、見た、んだけど。ドラマ」

 何だか恥ずかしくなって、思わず俯いてしまう。いつか彼の周りにそびえ立っていた、男子達と同じになった気がして。――いや、間違いなく同じなんだけれど。

「――…あんまり、演技とかよく分からないんだけど…うん。凄いなって、思った。ごめん、上手く言えないけど…」

「そんな、元気づけようとしなくても良いよ」

 困ったように河野は言う。いや、と僕は思わず声を上げた。

「ホントに。そう思ったんだ。まあ正直、あのブログとかは別に面白くもないし何で人気があるのって思ったけど…でも、あのドラマは、すごい良かった。なんか、格好いいと思ったし…あの、やっぱ違うなっていうか。ええと――」

 上手いことが言えないまま、僕はもごもごと言葉を吐き出す。ふ、と河野は笑った。くつくつ、とその笑いは変わっていき、ややあってから彼は笑顔を僕に向けた。

「…ありがと。ていうか、ブログ見てくれてたんだ」

「あ、いや、澪ちゃ――いや、幼なじみが、言ってたから」

 ああ、と彼は何かを思い出したように言う。

「連絡を待ってた子?」

「うん」

「連絡は、来たの?」

 うん、と僕は再び頷く。そっか、と河野は頷いた。

「…アサは、その子が好きなの?」

 今度は僕は、すぐには頷けなかった。けれども、河野の顔は何処か穏やかで。

「…うん」

 小さく頷いて、目をそらす。幸芽さんは、静かに眠ったままで。機械音と、ドアの向こうの声だけが柔らかく彼女を包み込んでいる。

 そっか、と河野は頷いた。

「それは何より」

「でも――…河野のことも、好きだよ」

「え?」

 河野は、きょとんと僕を見返していて。

「だから…河野が死んだら、僕は哀しいよ」

 河野は、ぱっちりとした二重の瞳を見開く。

「河野は、死骸じゃないよ」

 僕はそれを言って、河野を見る。河野は、まるで彼の姉のように微動だにしなくて。静かに、ただ、目を見開いて僕を見ている。

「河野」

 軽く、背を叩くとまるでそこにスイッチがあったように、彼の瞳から、ぽつんと涙が落ちた。

「――…アサ」

 彼が呟く。何かを、求めるように。いつか、僕を脅して家に連れて行ったときのような顔。

「…俺…どうしたら良い?」

「どうもしなくていいよ」

 僕は、静かに、ゆっくりと言う。僕には河野のように、綺麗な声は出せないけれど。堂々とした風には、話せないけれど。それでも、伝わるように。

「そのまんまで、良いと思う。河野はだって、死にたくはないんでしょう?」

 食べ物を口に運んで、働いて、学校に行って勉強をして、排泄をして、ブログを更新して、眠る。それを彼は、放棄せず粛々と行っている。それだけが、多分答えで。

「たぶん、河野が生きて居れば…お姉さんも、目を覚ますよ」

 頷いた彼の瞳からは、また涙が零れる。



 帰宅後、父さんはほっとしたような顔で僕を迎えた。

「――次からは、連絡を入れろよ」

 真面目な顔で言われて、僕は、ごめんなさい、と素直に言う。外はもうとうに暗くなっていて。

「言い訳はしません。お金も使っちゃって、帰りも遅くなってごめんなさい」

 深く頭を下げると、真面目な顔をしていた父さんは、ぷ、と吹き出した。

「もういい加減に、『うっせえクソジジイ!』とか言えよな」

「そのうち言うよ」

 僕の言葉に、ははは、と父さんは笑いながら、夕食を並べてくれた。全て、前に旭君が持ってきてくれたおかずだった。

「ドラマ、観るだろう?録画しておいた」

 父さんの言葉に、ありがとう、と僕は答える。河野は、自分の出ているドラマを何処かで見たのだろうか。彼とは、病院の前で別れた。面会終了時間は、ドラマの始まる前で。彼は母親に会っていく、といって僕に手を振った。僕は、頷いてその場を辞した。彼が帰りの電車賃を持っていたのか、とか、母親と会って何をするのか、とかといったことは何も分からない。

 ドラマは、相変わらずてんこ盛りの内容で飽きなかった。カワノコウミは変わらず爽やかで、次男の泣き言を聞いてやっていた。

 彼は呟く。――僕には、味方がいない、と。味方って?と首藤伊織が問い、次男は「君には沢山いるでしょう」と言う。首藤伊織には、老若男女問わず沢山のファンがいるいう旨のことを続けて言った。

 父さんは特に表情を変えないまま、僕の隣でドラマを見ている。

 河野も、父さんも、所謂「ファン」という人が沢山ついていて。彼らは口を揃えて「好きだ」とか「必要だ」とか言う。僕にも、残念ながらそう言う人は居ない。でも。

 首藤伊織は言う。でも、僕のファン一号と二号は両親だよ、と。

 ドラマを見終わった僕は、ベッドに潜り込んだ。シャワーも宿題も、明日にやることにする。

 遠出をして疲れていたけれど、なかなか眠れなかった。河野の連絡先を、僕は知らない。あちらも知らないはずだけれど、でも、それでも、スマートフォンを幾度も弄っては連絡が来ていないことを確認した。カワノコウミのブログにも、何度もアクセスをした。

 結局僕が寝たのは、三時半を過ぎた頃で。何度も確認をしたスマートフォンが電池切れを告げたのと同時だった。充電機を取らなくては、と思った所までは覚えている。そこから先は、覚えてはいなかった。

 そしてそれから三日間、つまりはその週の残り全てを河野は休んだ。彼の連絡先を知らない僕は、何もしようがなくて。特急の乗り心地やナントカ系に乗ったのかという宮本君の問いを躱すだけで精一杯だった。

 カワノコウミのブログは、暫く更新が途絶えていて。最後の更新は、僕が河野と電車に乗った日の朝――つまり、河野と僕が出会う直前ぐらいで。彼の最後に乗せた写真は、何処かのベーカリーで買ったと思われるパンの写真だった。ミルクパンにハマっている、と彼はコメントを載せていて。その最後のブログには、沢山のコメントが連なっていた。ドラマ観たよ。雑誌読んだよ。もっと更新して。最近更新無いけど忙しいの?元気?好きだよ。もっと話を聞かせて。大好き。会いたい。カワコーのおかげで毎日が楽しいよ。格好いいね。ファンです。好き。あなたが、居てくれて良かった。

(…河野)

 僕は教室の自席で何度でも、横に視線を向ける。空席に、何度も。



 その週末に、電話が鳴った。その時、僕と父さんは食事をしていて。立ち上がろうとした僕を手で制して、父さんは受話器を取る。

「…もしもし、麻木です。――え?あ…いや」

 父さんはちらりと僕を見る。それから、目を伏せた。

「…いや、今は…いない。うん。――何?え?母さんが?」

 ああ、と僕はそこで電話の相手を理解する。そのまま僕は立ち上がり、父さんの受話器を取り上げる。佑、と父が言う。

「もしもし?…唯さん?」

 僕の言葉に、受話器の向こうでぱちんと声が割れる。

「…あら、やっぱり居たのね」

「うん」

「丁度良かったわ。仁を説得してくれる?おばあちゃんがこの間階段から落ちてね。私も病院とか付き添わなくちゃ行けないから今仕事が出来なくて。だからね、少しで良いから援助を――」

「唯さん」

「…なあに?」

 言葉を途切れさせられた唯は不満げに問い返す。僕は少し笑んだ。

「お金が足りないなら、あのマンションを売って分相応なところに住むと良いよ。名義人は、ばあちゃんなんでしょ」

「はあっ?あんた――」

「それよりさ」

 僕は言いながら、少しだけ微笑む。いつかのあの人を思い出しながら。

「たまには、お酒を供えてあげなよ」

「は?」

「僕の父さんは、麻木仁だけだから…行けないけど。行ってあげてよ。母さん」

「は?あんた何を――」

 僕はそのまま受話器を置く。ぽかんとした顔の父さんが、こちらを見ていた。

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