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君と僕  作者: コトヤトコ
5/7

第四章 待ち合わせ

 翌日の朝早く。僕は何故だか目が覚めてしまった。昨日、早く寝たというのもあるだろう。けれども、それ以上に何か、嫌な予感がした。

 何だ、と考える。澪ちゃんに、何かあったんだろうか。いやまさか。僕にそんな漫画のような第六感などあるはずがない。

 体調は悪くはなかった。昨日は何も食べずに寝てしまったので、空腹を感じる。時計を見ると、朝の四時だった。さすがに父さんは起きていないだろう。

(パンか冷凍ご飯あたり、ないかな)

 無ければ、コンビニに買いに行っても良いかもしれない。とりあえず、と台所の方へ行き、僕は思わず立ち止まった。そこに、父さんではない人がいたから。

 あら、とその人は言って笑った。

「久しぶり、佑」

 父さんによく似た通った鼻筋。忘れもしない、甘い声。僕は、魔法にかかったようにただそこに立ち尽くした。

 漫画やドラマなどでは、ここできっと暗転するのだろう。印象的なシーンで一旦切る。作り物のセオリーだ。「次週に続く」なんていう言葉で終わったりもする。

 けれど現実は、何処にも切れ目など無くて。僕はただ、彼女を前に立ち尽くす。彼女は、ゆっくりとソファから立ち上がった。父さんは何処にいるのだろう。コレは酷い夢なのではないか。それこそ、後数秒後には僕はベッドの上で大汗をかいて「夢か」等と呟いているのではないか。

「本当に久しぶり。ええと、八年ぶり、かしら?」

 そう言うと、女性は小首を傾げた。年の割に、若く見える艶やかな肌。髪は茶色のボブヘア。中肉中背の女性は、子供を一人産んだとは思えない。

 なあに、と彼女は笑う。

「あたしのこと、もう忘れちゃったの?」

 否定も肯定も出来ないまま、僕は彼女をただ見つめる。瞼が何処にあるのか、分からなくなる。早く、この目の前の出来事を区切って欲しいのに。眼球がぴりぴりと痛む。

「…父さんは…」

 辛うじて空気に溶かせた音は、それだけだった。彼女は――佐藤唯は、にこりと微笑む。

「ちょっと色々嘘をついてね。お出かけして貰ったの」

 はい、と言って唯は机の上の紙を摘んで僕に示した。

――少し急用が出来たので、出掛けます。夕方ぐらいまでには戻ります。キッチンにパンを沢山買ってきたので食べていて下さい。

 読んだ?と唯に言われて、僕は小さく頷いた。

「キッチンにパンを買ってきた、って日本語的におかしいわよね。相当慌ててたみたいね」

 くすくす、と唯は笑う。そして、僕をじっと見て微笑んだ。

「大きくなったわね、佑。私、とっても反省しているの。あなたを取られてしまったこと。あの時私は、育児ノイローゼ状態で、どうかしていたのよ」

 佐藤唯は――僕の実母は、そう言って僕を慈しんだ瞳で見る。

「今更なのは分かっているわ。でも、もう一度、あなたと一緒に暮らしたいの。だって、私達…親子じゃない?」

 さあ、と彼女は立ち上がる。

「とりあえず朝ご飯、ちょっと早いけど食べましょうか。話はその後ね。あら、仁てば結構良いパン買ってきたのね。美味しそう。私コロネが良いなあ…。佑は確かメロンパンが好きだったわよね?」

「待って…」

 再び絞り出した声は、ざらざらと掠れていて。

「何が、目的なの…?」

 僕の問いに、唯は小首を傾げた。

「目的ってどういうこと?母親が、息子と一緒に暮らしたいと思う。それに何か理由が必要なの?」

 必要だよ、と言う言葉は、何故だか遠くから聞こえた。口からではなく、後頭部からこぼれ落ちてくるような。

「だって、僕たちはもう…親子じゃないんだから」

 その言葉と同時に、唯の顔が、ぐにゃりと歪んだ。目が見開かれて、鼻の横に皺が寄る。

「――なんですって?」

 喉が、カラカラだった。言葉を零す度、身体の潤いが一緒に絞り出されていく気がする。

「僕の親は…父さんだけだから――」

 言いかけた僕に、唯が駆け寄ってくる。思わず一歩下がると彼女の腕が動くのが目の端に見えて、僕は目を瞑って顔を背ける。もはや思い出すこともなくなっていた過去の記憶が、一瞬のうちにびっくり箱のように飛び出してくる。記憶なのか本物なのか、定かではない声が僕を包み込む。――お前なんか。お前なんかお前なんかお前なんか。

 けれど僕を襲ったのは、衝撃ではなかった。痛みも、熱も伴わない。

 耳元で、甘い声が震えていた。

「ごめんね。佑…。ごめんね…」

 何が起こっているのか、分からなかった。状況を理解するまでに、唯の「ごめんね」という言葉を十数回は聞いた。

 僕は、唯に抱きしめられていた。彼女の胸に付けられた冷たい金属のネックレスの感触が、頬にようやく感じられる。

「本当にあなたには、申し訳ないことをしたと思っているの。沢山、苦労もさせたわ。本当に、ごめんなさい」

 唯の声は、ほろほろと空中で崩れて僕の肩に降り積もっていく。

「八年間、ずっとあなたのことを考えていたの。いつかまた一緒に暮らしたいって」

 僕は上手く動けないまま、ただ、息だけを続けている。頬に埋められたネックレスが、温くなっていくのを感じながら。

「大好きよ、佑」

 けれども僕は知っている。唯の――母の、嘘をつくときのクセを。役所だか保健所だかから来たという人に、僕の頬の傷を問われたとき。隣に住んでいた中年女性に、泣き声を聞きつけられたとき。違うんですよ、虐待なんてしてないですよ。と、そう言うとき、彼女は必ず、左手の親指の爪を、隣の人差し指の脇に突き刺す。何かに怯えるように。笑いを堪えるように。僕はちらり、と彼女の左手を探して視線を這わせる。ぐるりと回された唯の手。その先の左手。その、指の動きは。

 僕はゆっくりと、彼女から身体を離す。

「…僕、もう出掛けるんだ」

 なるべく静かに、言葉を紡ぐ。

「あら、そうなの?でもこんな早くどうして――」

「うん」

「どこに行くの?」

「電車を、見に行くんだ」

 宮本君の今日の予定を言わせてもらう。え、と母は少し顔をしかめた。彼女の中では、息子の趣味としてはあまり歓迎すべき話題ではなかったらしい。

「山手線の、特別ラッピング車両を見に行くんだけど、一台しかないからいつ何処で見られるかが分からないんだよね。だから、学校が始まる前に始発で行って、良い撮影スポットがあるから、そこで待ってようと思って」

「…ふうん」

「それを見てから、学校に行こうと思ってるんだ。友達と待ち合わせもしてるから」

「そう…」

「うん。友達の分のパンも持っていくね」

 言いながら僕は、近くにあった布バッグにパンを詰め込んでいく。

「もうすぐ、僕は出るけど…」

 僕の言葉に、唯はため息をついた。

「あんたって、本当に嘘が下手ね」

「え?」

「嘘をつくときのクセは、八年前と変わらないのね」

 くすくす、と唯は笑う。僕は、顔から血の気が引いていくのが分かった。頭のてっぺんから、徐々に冷たくなっていく。

「まあ良いわ。あなたの顔が見れただけで、ママは嬉しいから」

 にっこりと唯は笑って言う。

「そうだ、佑もスマホ買ったんでしょう?アドレスと電話番号教えてよ」

 僕が沈黙していると、唯は「ま、いっか」とあっさりと引き下がった。

「これ、私の連絡先」

 そう言って彼女は、名刺を滑らせた。パソコンで印刷したような、安っぽい名刺。有限会社、から始まる会社名の下に「麻木 唯」の名がある。役職名や部署名は無かった。一番下に、携帯電話の番号とメールアドレスが印字されている。

「じゃ、また来るわ。元気でね」

 そう言って彼女は、軽やかに部屋を出ていった。取り残された部屋は、ようやくそこで暗転をする。がちゃり、とドアの向こうから鍵をかけられた音がした。



 すまなかった、と言って父さんは頭を下げた。僕は首を横に振って、目の下に暗い隈を浮かべている父さんを見る。

「鍵は、なるべく早く変える。いざというときの為に、お袋に渡しておいたのが悪かった。まさかアイツが取りに行くなんて考えもしていなくて…。いや、それより引っ越そうか。場所を知られているだけでも嫌だろう?」

 ううん、と僕は再び首を横に振る。

「大丈夫だよ。僕ももう、子供じゃないし。誘拐される年でもないし」

「いや――…でも…」

「でも、まあ鍵は変えておいた方が良いかもね。なんか盗まれても困るし」

「ああ…」

 あの後すぐに父さんに電話をすると、父さんは慌てて帰宅をした。疲れ切った顔の彼を見ていると、逆に僕の方が冷静になれた。大丈夫だよ、と何度繰り返しただろう。

「けど、何で急に来たのかな。八年も経ったのに」

 僕の問いに、父さんは更に顔を歪ませた。

「…また、離婚をしたらしいんだ」

 ああ、と僕は嘆息する。成る程ね、と殊更明るく言葉を発してみる。

「寂しくなったのかな。それとも、お金が入り用になったのかもね」

 父さんは苦しそうな顔で、頷いた。

 僕は頷きかえすと、キッチンに行ってコーヒーを入れた。先程布バッグに詰め込んだパンを取り出すと、トースターで温める。

「…学校は、どうするんだ?」

 まだ、時計は朝の七時を指していた。けれど、僕も父さんも、ぐったりと疲れ切っていた。でも、僕は「行くよ」と答える。今日は体育で五十メートル走の測定がある。休んだ人は放課後に残って計られるという。それを言うと父さんは、そうか、と答えた。

 また来る、と唯は言っていた。部屋には、まだ唯によってもたらされた恐怖が淀んでいる。

 ミルクをたっぷりと入れたコーヒーと温めたパンを並べて、父さんと一緒に食べる。父さんはあまり食欲が無いようで、もそもそとロールパンを囓っている。

(たぶん、ばあちゃんに会ったんだろうな)

 唯が父さんを呼び出すのは、簡単だ。祖母の名前を出せば良い。玄関にキーが無かったので、父さんは急いで車で駆けつけたのだろう。唯の帰宅後、僕が電話をかけたときには、後方でやたらと大音量のテレビの音がしていた。

(いつまで、父さんは傷つくんだろう)

 三十も後半になって、未だに母親の呪縛から逃れられない父さんが、酷く哀れだった。父さんと唯を傷つけて、歪んだ大人にした祖母。唯は、それを僕になすりつけることで、人格を保った。けれど父さんは。漫画家という職業は、彼を救わなかったのだろうか。父さんの描く家庭は、コマの端にあっても、何ページもの紙に渡っていても、どれも温かい。子供がお皿を落とせば、「怪我していない?火傷は大丈夫?」と言いながら慌てて母親が飛んでくるし、赤ん坊はいつだって母の胸に幸せそうに抱かれている。

(せめて、茜さんがいたら違ったのかな)

 唯一、父さんが愛したという女性。僕が産まれる直前ぐらいに亡くなってしまったらしく、僕は写真でしか見たことがないのだけれど。写真のなかの茜さんは、丸い顔に優しげな笑みを浮かべている人だった。

(どうしたら、救われるのかな)

 幾ら細い線のコマの中に幸せな家庭を描いたって、父さんは救われない。茜さんに未だに操を立てている彼が、新たな伴侶を見つけるかどうかも分からない。だとしたら。

(ばあちゃんと、母さんが居なくならないと駄目かな)

 ふ、と背中が冷たくなった。マヨネーズとコーンが載ったパンが、てらてらとこちらを見ている気がする。

(…まさか)

 そんなことをしたところで、父さんが救われるはずもない。むしろ余計に傷つくだけかも知れない。

(だとしたら)

――きっといつか君も思うよ。救ってあげたいってさ。

 先程よりもより背中が冷たくなった。凍傷を呼ぶほどに。ぼうっとコーヒーの表面を見ている父さんに気づかれないように、僕は慌ててパンを詰め込む。

 そうだ、とわざと明るい声を出す。

「ねえ父さん、冷蔵庫に入ってるヨーグルト、そろそろ賞味期限じゃない?食べても良い?」

 ああ、と乾いた声を出す父さんに気づかないふりをして、僕は席を立つ。僅かに、自分の胸の中を撫でた思いがあった。

 父さんが本当に救われるのは、父さんがいなくなった時じゃないか、と。

――あと少しの、辛抱だ。

 例えば僕が、父さんの足枷になっているんだとしたら。

(嫌だ、そんなの)

 けれど、どうしても思いはぶれる。僕なんかの気持ちと、父さんの気持ちと、どちらが大切か。僕が、父さんに生きていて欲しいと思うエゴと、父さんのこの苦しみからの解放と、どちらが大切か。

(駄目だ、考えちゃ)

 そして、脳裏には澪ちゃんの顔が浮かぶ。旭君の震える肩が、同時に蘇った。



 食事を終えて、行く支度をする。父さんは疲れているだろうに、部屋に籠もらずにリビングに居て、僕と他愛のない話をする。

(気を遣われてるんだな)

 久しぶりに実母と会った僕が、おかしくなっていないかが気になるのだろうと思う。

「行ってきます。今日は、部活でちょっと遅くなるかも」

「分かった。行ってらっしゃい、気をつけてな」

 うん、と僕は手を振って家を出る。

 電車に乗って、ようやく僕は息を吐いた。

(…何だろう。あんまり、何とも思わない)

 実母との再会は、思ったよりもあっけなかった。もっと例えば老け込んでいたり、逆にけばけばしい装いだったら、また違ったのだろうか。父さんが落ち込んでいるせいなのかもしれない。いずれにせよ、彼女との出来事は、僕の中に何の痕跡も残しては居なかった。

 何となく手持ちぶさたに、スマートフォンでゲームをしようと手に取る。ひび割れた画面。

(しまった、修理に行かなくちゃ)

 問題無く操作はできるが、なるべく早く直した方がいいだろう。財布の中の三万円を思う。

(…今日行けるかな。行けたら行かなくちゃ)

 それから、僕は唐突に、ふ、と気づいて顔を上げた。

(茜さん)

 何故彼女は、死んだのだろう。病気だろうか。父さんとは籍を入れていたのだろうか。不意に色んな事が気になって、僕は検索ウィンドウに、文字を入れる。

(まあ、出てくるはずはないと思うけど)

「麻木茜」

 半ば冗談のつもりでそれを入れると、検索ボタンを押す。同姓同名の人間が二人ほど(一人は何か絵の賞を取ったという幼稚園児で、一人は会社経営をしているやせぎすのおばさんだった)出てきただけだった。

(ニュースになるような死に方をしなかったのかな――あ、でも籍を入れる前だったら名字が違うのかもしれないな)

 茜、という名前は芸能人やスポーツ選手を引っくるめてもそれなりの人数がいるだろう。その中から一人の茜さんを探すのは至難の業だ。

(だいたい、茜さんの死の原因を知ったところで何になるわけもないし)

 僕は諦めて、検索ウィンドウに「カワノコウミ」を入力する。カワノコウミのブログは、相変わらずだった。ごついダイバーウォッチの写真で、ドラマで共演してる五味さんからプレゼントして貰いました、と書いてある。コメントは相変わらず多くて、凄い、とかお洒落、とか良いなあ、とか、そんな呟きが連なっていた。

 ぼうっとしていたところに、不意にスマートフォンが震えて、僕は飛び上がる。慌てて救いを求めるようにしてそれを操作する。

 電話が、鳴っていた。公衆電話、と画面の下方部に表示されている。

 僕は、目を見開いて。そして、閉じかけていたドアから、飛び降りるように下車をする。



 その場所に僕が到着したのは、九時前だった。どこだ、どこだ、とまるでパントマイムみたいに大げさに首をぶんぶん振る。全国的に有名な、繁華街の待ち合わせスポット。

「…たっくん?」

 その、綺麗に耳に届く声は。

「澪ちゃん…」

 思わず、声が出ていた。何のために彼女の名を呼んだのかは分からない。けれど、ほぼ無意識にその名が出ていた。心配で心配で、会いたかった、大好きな人の名前が。

 けれども。

 そこにいたのは、僕の知らない澪ちゃんだった。少し、痩せているのもある。けれど、違うのはそこだけではない。そこにいた少女は、酷く暗い目をしていた。ぼうっとした顔。寝起きのようにも見える。いつも明るくて、えくぼを絶やさない澪ちゃんとは、どうしても同じ人間とは思えなかった。クラスの真ん中で、思いっきり笑っている少女ではない。廊下か窓に近い所で、ちらちらとそちらを伺いながら、囁くように友人と話す――まるで、僕のような、人間で。

 澪ちゃんは、黒いノースリーブのロングワンピースを一枚だけ、着ている。手には何も持っていない。鞄の類もない。足下は、ショッキングピンクのEVA素材のサンダルを履いていた。ワンピースのポケットに膨らみがあった。小さなコインケースのようなものが、形取られている。まるで、真夏にコンビニに行くような雰囲気で。そして彼女の左手首には、手当ての跡がある。

 まだ四月の朝の格好には、不釣り合いな気がする。だから、僕はつまらない事を口にしてしまう。

「…寒くない?」

 澪ちゃんはそれには答えず、顔を歪ませた。笑ったのだ、と気づくまでに少しの時間を要した。

「制服、似合うね。格好いい」

「――…澪ちゃん、どうして」

「喉、乾かない?」

 そう問う澪ちゃんは、やはり僕の知らない澪ちゃんで。

 どうして良いか分からないまま、僕は頷いた。

 じゃあ行こう、と澪ちゃんは僕の手を引く。彼女と手を繋いだのは、いつぶりだっただろうか。彼女の手は、薄着の割にあまり冷たくはなく、でもあまり柔らかくもなく。何かに似ているな、と思ったけれどそれが何かは分からなかった。

 僕と澪ちゃんは、駅前のファーストフード店に入った。苺味とチョコレート味のシェイクを頼んみ、小夜子さんにメールをする。澪ちゃんと今、S駅の前のファーストフード店にいます。小夜子さんからは、すぐに返信が来た。今すぐ行くから、お願い。澪の側にいてあげて。

 澪ちゃんは、ぼうっと座って、目の前のシェイクを眺めていた。僕は、道化のように笑う。

「澪ちゃん、覚えてる?前にさ、旭君と小夜子さんと四人で一緒に出かけたとき。小夜子さんがシェイクを三つ買ってきてくれたでしょ。旭君はバナナが良いって言って、僕はチョコレートにして、澪ちゃんは苺にしたよね。小夜子さんがたまには違うのにしたら、って言ったら澪ちゃんはあり得ない!って言って、それで喧嘩になったよね。親に向かってその言い方は何って」

 べらべらと喋る僕を透かすように、澪ちゃんは僕の後方にある窓ガラスを見つめている。そして、ようやく僕に気づいたように視線をずらした。

「ママに、連絡した?」

 僕は口をつぐむ。した、と答えて良いだろうか。迷っている間に、澪ちゃんはまた窓ガラスに視線を泳がせる。

「――連絡は、しないでね」

「どうして?」

 僕の問いに、澪ちゃんは答えなかった。どうしよう、と僕は半ば泣き出しそうな気持ちで思う。僕のスマートフォンの送信ボックスには、送信済みのメールがある。場所を明記した、メールが。

 何故だかその時の僕は、澪ちゃんの言うことを聞かなくてはいけないという強迫観念のようなものを背負っていた。少しでも彼女の意に背いたら、彼女が消えてしまうような気がして。

 落ち着かなく瞬きを繰り返す僕にまた視線を合わせて、澪ちゃんは口を開く。

「…逃げて来ちゃった」

 ようやく少し微笑んだ澪ちゃんは、いつもの澪ちゃんの影を帯びていて、僕はほっとする。

「逃げるって、家から?」

 こくん、と澪ちゃんは頷く。

「…クラスメイトが、来るって聞いて」

 そう、と答えながら僕は澪ちゃんの手首を見る。ガーゼを当てて、サージカルテープのようなもので、それを固定させている。真っ白なガーゼは、何も無かったような印のようなものに見える。一滴の赤すら滲んでいない。

 ふふ、と不意に澪ちゃんは笑った。僕はこんな時なのに、どきりとしてしまう。

「ホントに格好いいね。制服。大人っぽく見える」

「いやそんな…」

 もごもごと言う僕に、澪ちゃんは笑いかける。その顔が、いつもの澪ちゃんの顔に見えた気がして、澪ちゃん、と僕は彼女に言う。

「小夜子さんに、連絡するよ?」

「…どうして…?」

 僅かに彼女の顔が曇って、揺らぐ。少し迷いながら、僕は言葉を選ぶように口にする。

「心配、してるから」

「…やめて」

「どうして?」

 僕の問いに、澪ちゃんはだだっ子のように首を小刻みに左右に振る。

「澪ちゃん」

「…みんなには分からない」

 彼女は、口からとろりとその言葉を流れさせる。

「みんな?」

 問い返しながら、僕は胸の中がざわりと揺れるのを感じる。みんな。それに、自分が入っているのかどうかが分からなくて。

「どうしたら、綺麗事が通用する世界にいけるんだと思う?」

 綺麗事、という言葉を僕は繰り返す。

「小学生の時の道徳の時間、みたいにさ。丁寧に親切に優しく…そんな世界は、何処にあるのかな。例えば頑張って勉強して…私立に行ってたら違うかな?どう?」

「…いや。私立だからって、そう言う訳じゃ無いと思う」

 いつか廊下で聞いた河野に対する、冷たい言葉を思い出す。だよね、と澪ちゃんは小さく呟く。

「私が、変わらなくちゃ駄目なのかな」

「――変わる?」

「うん。…どっちにしようかな。ママの言うような、綺麗な人になるか。それとも、みんなと一緒に居られるような…」

「澪ちゃん」

「いつになったら、終わるんだろ。…高校行ったら?大学行ったら?社会人になったら?結婚したら?」

 ふ、と澪ちゃんは笑う。

「終わらないよね。ずっと、ずっと。ママ友地獄なんて言葉もあるしね。老人ホームに入ったって、ずっと変わらないよ」

「…でも、分からないよ。もしかしたら、違う…友達が出来るかもしれないし」

 僕の言葉に、澪ちゃんは眉間に皺を寄せて、友達、と音を立てずに呟く。

「たっくんには、友達、出来た?」

 僕はどう答えたらいいのか分からず、一瞬詰まる。今の澪ちゃんに、ベストな答えは何だろう。一、まだ出来ていないよ。二、長谷川君と宮本君というあまりイケていない友達が出来たよ。三、今世間で大人気のカワノコウミの家に行ったよ。三択問題が、頭の中に浮かぶ。空欄提出は駄目だ。何かを、埋めなくては。

 けれど、澪ちゃんは、ふい、と顔をそらした。そして、殆ど口を動かさないままに、囁くように問う。

「どうして、たっくんは生きていられるの?」

「…え?」

 脳内に、一瞬重くて固くて大きいものが満ちた気がした。その間の生殖活動が一瞬、それによって潰された感覚がする。

 澪ちゃんは再び僕に視線を移して、そして、泣き出しそうな顔をした。

「…私より、ずっと辛い目にあったはずなのに」

 なのに、と言ってから、澪ちゃんは、はっとした顔をした。さあ、と顔色が変わっていくのが見える。がたん、と椅子が音を立てた。

「ごめ…ごめんごめんごめんっ、私…今…」

 混乱したように繰り返す澪ちゃんに、僕は首を横に振る。

「大丈夫だよ」

 まだ、頬に、耳に、唯の感触が残っている。

「ごめん、たっくん。本当にごめん」

 小夜子さんの家では、僕の過去の話はタブーだった。旭君と一緒に風呂に入っても、一度も傷跡について触れられることはなかったし、赤ちゃんの時の話(オムツが取れたのがどのぐらいだったか、とか、産むとき大変だった、とか)も僕に振られることはなかった。

「…ごめん、本当にごめんね」

「澪ちゃん、大丈夫だから」

 僕が幾ら言っても、澪ちゃんは、ごめん、という言葉を繰り返すだけで。

そして突然立ち上がった。がたん、と派手な音を立てて椅子が倒れる。視線が、集まる。澪ちゃんはそれには関せず、呟く。

「――…ごめん…ほんとに、あたし、最低…。あたしなんか、死んだ方がマシだ」

「澪ちゃん!」

 僕は思わず大声をあげる。澪ちゃんは、泣きじゃくっている。

 澪ちゃん、と再び僕は言う。

「帰ろうよ」

 ね、と僕は言って、彼女の手を取り店内を歩いて行く。カウンターの店員に、ぺこりと――お騒がせしました、という気持ちを込めて――僕は頭を下げて、店を出る。ありがとうございました、というやや揺らいだ声が背中を押す。

 そして店内には、手の付けられていないシェイクと、僕たちに好奇心の入り交じった視線を投げかけた持ち主達だけが残されていた。



 僕の鞄の中で、スマートフォンが唸りを上げた。小夜子さんだ、と思う。もうあのファストフード店に着いたのだろうか。店員に聞いているのかもしれない。中学生ぐらいの男女二人を見ませんでしたか、と。机に放置してきたシェイクはもう片付けられているだろうか。僕はその動く鞄の中身には触れず、ただ澪ちゃんの手を握りしめている。

 僕と澪ちゃんは、電車に乗っていた。終点のない、山手線。ぐるぐると都内を回る電車。制服姿と部屋着姿の中学生に、誰かに何かを言われるかと思ったけれど、ホームでアナウンスをしている駅員さんは、そんな僕らにちらりと一瞥をくれただけだった。

 九時を過ぎた車内は、乗車率九十パーセント弱、といった所だった。つり革が幾つか空いている。制服姿の高校生や、スーツ姿の大人の姿もまだあった。

 鞄の中ではまた、スマートフォンが震えている。泣いているようにも、思える程に。

 幾つかの主要駅で止まる度に、多くの人が降りて、また同じくらいの人数が乗ってくる。けれど少しずつ人々の服装は、スーツからカジュアルなものに替わっていって居た。細いヒールから、低いローファーへ、そしてスニーカー。きちんと化粧をしたOLさんから、眠たそうな顔の薄化粧の女性、子供を連れたお母さん。かっちりとした革のバッグから、キャンバストートバッグ、ナイロンリュック、ボディバッグ。不思議なことに、時を経るごとに、僕と澪ちゃんがうまく紛れられるような人たちが電車を占めてきている。

 乗って三十分ほどしてから、僕と澪ちゃんは空いた座席に腰掛けた。まだ冷房がついていない車内は、さほど寒くなかった。うららかな春の日差しが、大きな窓越しに降り注いでいる。

 不意に、澪ちゃんの言葉が耳に過ぎる。

――どうして、たっくんは生きていられるの?

 続けて、河野の言葉も被さるように木霊してくる。

――きっといつか君も思うよ。救ってあげたいってさ。

 人を殺すことはいけないことで。楽しく生きることは大切なこと。それを教わったのは、一体いつだったんだろう。それとも、動物の本能として、思考回路に組み込まれているんだろうか。子孫繁栄のために。種の保存のために。だとしたら澪ちゃんと河野は、何処でその本能を落としてきたんだろう。それとも身体の何処かに、それは閉じ込められているんだろうか。僕がそれを開けられたら――例えば鍵を見つける、とか。大きなトンカチで壁を壊すとか――何かが変わるだろうか。

 二人の声はまだ、僕の頭の中でリフレインを続けていて。

 何の根拠も無しに、僕は二人が間違っていると信じ続けている。そうでなければ、僕は多分、一線を踏み外してしまう。僕をギリギリこちらに繋ぎ止めているのは、一体何だろう。

 そして、河野が、澪ちゃんが、沢山のことを抱えながらもまだこちら側にいるのは、どうしてだろう。

 乗り換えのため降りる駅に着いたけれど、僕と澪ちゃんはそのまま座っていた。大丈夫。また山手線はぐるりと回って僕らをこの駅に運んでくれる。

「寒くない?」

 再び問うた僕に、澪ちゃんは頷く。

 次の駅で、澪ちゃんの横に男の人が座った。四十代ぐらいだろうか。白髪交じりの、白いシャツを――でも、ビジネス用ではないような、コットン素材の――を着て、カーキのパンツ、ビーチサンダルという出で立ちだった。清潔感が無ければ、あまり近寄りたくないと思う服。その人は車内をぐるりと見回して、唐突に、口を開く。

「――不思議だねえ」

 そう呟いた言葉に、僕は、眉根を寄せる。

「みんな、服を着ている」

「――え?」

 思わず、僕は声を漏らす。澪ちゃんは、青白い顔のまま、その男の人を見つめている。僕は胸がざわつくのを感じた。ちょっと、危ない人なんじゃないだろうか。せめて澪ちゃんと席を替わらなくては、と思う。けれど澪ちゃんは、僕の手を、ぎゅう、と握っていて。動かないで、というように。僕の手を、縫い止めるように。

「みんな、服を着てる。そして、あの服一枚一枚に、物語がある」

(…物語?)

 男の人は、淡々と話す。酷く小さな声で。囁きのような声で。

「最近買ったものなのかもしれないし、誰かに貰ったものかもしれない。自分で作ったものなのかもしれない。お気に入りかもしれないし、妥協かも知れないし、あまり好きではないのかもしれない。久しぶりに着たのか、昨日も着た服なのか。ダイエットをして着れるようになったのかもしれないし、遺品かもしれないよね。前から着るって決めてたかもしれないし、寝坊して慌てて手に取ったかもしれない」

「――…?」

「鞄も、靴も。みんな、何らかの方法で手に入れて…そして、何らかの理由で、今日身につけてきたのだねえ」

 彼の小さな囁きは、多分、僕らの耳にしか届いていない。かたん、かたんと電車は揺れる。

「ひとりひとりに、ひとつひとつに、物語があるのね。――二人とも、それを大切にしなさい」

 電車は、ただただ揺れる。僕と澪ちゃんは何も言えないまま、その揺れの中に居て。

「…たまには、お酒が飲みたいなあ」

 彼は突然、無関係なそれだけを言うと、立ち上がった。電車はいつの間にか、次の駅に着いていて。彼は、静かに下車をしていく。電車は扉を閉ざすと、再び発車する。思わずホームを振り返ったけれど、先程の男の人はもう何処にも居なかった。僕は澪ちゃんの手を握ったまま、車内の人を見る。スーツのサラリーマン。皺の伸びたシャツは、クリーニングだろうか。或いは家族の誰か――例えば妻――がアイロンをかけてくれたのか。自分でやったのか。綺麗な女性の耳元に揺れるピアスは、誰が買ったのか。自分へのご褒美。友人からのプレゼント。恋人にねだって買って貰った。母親からのお下がり。女子高校生のスマートフォンのケースは。幼子の猫柄の帽子。ロングスカートの老婆の眼鏡。お洒落な男性の靴。眠たそうな青年のリュック。わざわざ出向いて手に入れたのか。たまたま出先で見つけたのか。彼らの朝ご飯は何だろう。数時間前までくるまれていた布団は?

「…澪ちゃんの、その服は?」

 僕の問いに、澪ちゃんは目を瞑って、頷く。細まった目の隙間から、涙が一粒落ちた。

「――ママと一緒に…買いに行ったの。そう…上に羽織ったら可愛いねって、白いカーディガンと一緒に」

 うん、と僕は頷いた。僕の鞄の中にあるものにも、沢山の物語がある。父さんのお下がりのシャープペンシル。長谷川君に借りている料理漫画の単行本。塾の先生がくれた、合格祝いのブックカバー。葡萄味のガムは、通学中に買った。コンビニのおばさんは感じのいい人で、優しい声で「ありがとうございました、気をつけていってらっしゃい」と言ってくれた。宮本君と偶然お揃いになった消しゴム。この消しやすさは神だよ、と彼は大げさに笑いながら言っていた。

 山手線はぐるぐる回る。

 僕はそのまま小夜子さんに、メールを打った。澪ちゃんと一緒に、これから帰ります。物語の沢山詰まった、家に。

 小夜子さんに送ってもらって帰宅したのは、お昼過ぎだった。父さんは、何も言わず、僕の背中をぽんと叩いた。何度も何度も小夜子さんは謝り、澪ちゃんは小夜子さんの車の助手席で泣き疲れて眠っていた。

 今日は結局、学校を休むことにした。朝から色んな事があって、くたくたに疲れていた。五十メートル走ぐらい、いつだって出来る。

 長谷川君からはメールが来ていた。

「体調悪いの?大丈夫?明日は午前中だけだから(午後から先生方の研修会があるんだって!)無理しないでゆっくりしてね」

 ありがとう、と僕はメールを打つ。

 スマートフォンに、また一つ、物語が産まれた気がした。

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