第三章 澪ちゃん
次の金曜日は、河野は欠席だった。仕事らしいよ、と誰かが言った。僕は、鉄道と漫画が好きだという宮本君と、イケメン料理男子として有名になって女の子にモテたいという野望を持っている長谷川君とその日は昼食を採り、土曜日には、父さんのサインの礼だ、という宮本君に連れられて長谷川君も含めた三人でM駅近くにある、貨物ターミナルに行った。帰りがけ、ファミリーレストランで昼食を取りながら、熱っぽく貨物を引く電気機関車の種類を説明する宮本君に苦笑しながらも、僕は居心地の良さを覚えていた。宮本君も、長谷川君も、良い意味で地味な存在だった。人目を引く、何かは(現時点で僕の知る限り。並びに、あの、狭い教室という箱の中で、という注釈もつくが)無い。つまりは、クラスで、目立たない、ということ。河野幸実は逆で、とても目立つ存在だった。容姿も、立ち振る舞いも、立場も。あの時、ぼそぼそと聞こえた彼に対する悪意が、僕を臆病にさせる。
「――でさあ、この間車両基地の見学会があってさ」
楽しげに話す宮本君に、僕は相づちを打つ。長谷川君は苦笑しながらも、俺も小さい頃行ったよ、などと話している。
「やばかったんだよ、〇六系がさ――」
穏やかな休日が、ファミリーレストランの席を埋めている。家族連れや、友人同士。恋人同士。一人の人。服装も鞄も靴も、様々で。彼らの前に置かれた食べ物も、様々だ。飲み物だけ。一緒に来た人とシェアできるような大皿料理。子供に取り分けられるようなメニュー。デザート。昼からアルコールを飲んでいる人も居る。パソコンが広げられていたり、スマートフォンを使っていたり。絵本を読んでいる子供。おしゃべりに夢中になっている女性達。
「それよりさあ、俺今パソコン欲しくてさ。中古でもいいんだけどさ」
長谷川君がそう言いながら、ストローでジュースを吸い上げる。
ふと、僕は思う。僕ら三人も、このファミリーレストランの中の柔らかな休日の欠片の一つなのだと。熱っぽくデジカメのデータについて語る宮本君と、ひたすらコーラを飲む長谷川君と、相づちを打っている僕。
(…平和だなあ)
誰かに注目されているわけでもなく。華やかさもなく。名も知られていない僕ら。けれど、この小さな空間の一部になれている僕ら。
それがただ、意外なほど僕の胸を温かくした。
こうして、生まれて初めて僕は、友人と電車に乗ってそしてファミリーレストランで食事をした。ただ、それだけのことだけれど――多分、澪ちゃんも旭君もきっと河野も今までに幾度もしたことなのだと思うけれど――僕は、酷く安堵して、そして嬉しかった。慣れたように「会計別々で」という長谷川君と宮本君の後ろで財布を取り出しながら、ただただ、嬉しかった。
その日の夜のことだった。小夜子さんから、父さんに電話が来たのは。珍しく家の固定電話が鳴ったのは、夜九時を回った所だった。
父さんは真剣な顔で幾度か相づちを打った後、酷く痛そうな顔をした。
「――いえ。こちらには何も」
言ってから父さんは、手元のメモ用紙に何かを書き付けてそれを僕に示す。
「?」
近寄っていってそれを見る。
『みおちゃんから連絡来てるか』
僕はぶんぶんと首を横に振る。父さんは一度、深く頷くと再び会話を続けた。
「ええ、うちには…。佑にも連絡は来ていないようで。ええ」
僕はただ、父さんの横に立ってメモ帳に書かれた文字を何度も見つめる。
「――昨日の夜のことだそうだが…澪ちゃんが、手首を切った」
「え?」
思わず、という感じで僕は聞き返した。父さんはゆっくりと車を発進させる。僕はぽかんと父さんを見る。父さんは、前を向いたまま、硬い表情を崩さない。
「幸い、命に別状はない。傷も浅くて、病院にも行ってないらしい」
僕はからからの喉を潤すことも忘れて、父さんの横顔をぼうっと見る。
「ただ、机の上に…遺書、と書かれた紙があったらしくて…」
父さんは、そこで言葉を切る。赤信号だった。車の中に、エンジン音が満ちる。
胸が、重くて、痛くて、そしてやはり重かった。胸一杯に、空気が吸えないぐらい。何かで肥大しているようだった。嘘でしょ、と言って笑いたかった。流石に騙されないよ、と。振り返ったら、澪ちゃんが居る気がした。ばあ、っと後部座席から顔を覗かせているような気がした。引っかかったあ、と。びっくりしたでしょ、と。
けれど、父の顔は真剣で。そもそも、バラエティ番組の所謂「ドッキリ」だって好きじゃない人なのだ。真面目で。曲がったことや意地悪なことが嫌いな父だ。
だとすれば答えは「真実」とするしかなくて。
どうして、という言葉が瞼の裏でちかちかと点滅する。この間会ったときは、あんなに元気だったのに。楽しそうに笑っていたのに。どうして。
「佑」
父さんの声で、は、と顔を上げ、初めて自分が俯いていたことに気づいた。
「――澪ちゃんは、まだちょっと不安定みたいでな。会うことは、出来ないんだが…」
でも、一緒にプレゼントを買いに行こう、と父さんは言った。
澪ちゃんの好きな食べ物と、飲み物と、可愛い雑貨を買って。そして玄関に下げておこう、と。
「佑が、選んであげなさい」
うん、と僕は頷く。澪ちゃんの遺書には、何と書いてあったのだろう。あの明るい澪ちゃんを、死という方向に押したのは何だったのだろう。
旭君が来たのは、翌日だった。その日の朝に来たメールには、プレゼントしたものに対する礼と、今日行っても良いかという問いがあった。父さんには、小夜子さんから連絡が行くはずだ、ということも書いてあり、丁寧な旭君らしさに少しほっとした。
僕は朝から部屋の掃除をしながら、大きな紙袋の中身を思い出していた。可愛い缶に入ったチョコレート。綺麗な深海のような色の石のついたブレスレット。苺を象った小皿。甘い匂いのするリップクリーム。手のひらサイズの、ネズミの縫いぐるみ。北欧のラッキーモチーフ、ダーナラホースのポストカード。淡い黄色に、白いドットがちりばめられたポーチ。マドレーヌの詰め合わせ。チャームが揺れるカラーボールペン。鍵付きの日記帳。ハーブティ。小さなサボテン。色とりどりの刺繍糸。ショッピングモールの各店を回って、僕らはそれを集めた。どれに対しても、父さんはプレゼント包装を頼んだ。ひらひらのリボンがかかった箱を、大きな紙袋に詰めて、僕らはそれを澪ちゃんの家の玄関にかけておいたのだった。
旭君からのメールには、何故そうなったか――つまりは澪ちゃんがどうして手首を切ったのか、という理由は書かれていなかった。今は、小夜子さんが仕事を休んで側に着いていると言う。昨日紙袋に入れたハーブティを飲んだ、とも書かれている。まだ、誰かと会う状態ではない、とも。
旭君は、二時過ぎに家を訪れ、少し疲れた顔で、よう、と言って笑った。
「ほんとに、ありがとうな。そして、申し訳ない。本当に、すみませんでした」
ぺこり、と僕に、そして次に父に頭を下げた旭君を、慌てて僕は押しとどめる。
父さんがキッチンで苦笑する。もう良いよ、と父さんは旭君に言って、旭君は弱々しい笑みを浮かべた。
「これ、その――…頂いたものの、お礼、です」
旭君はそう言って、大きな紙袋を取り出す。いやそんな、と父さんは言って、手を止める。
「――…これは、小夜子さんが?」
こくり、と旭君は頷いた。僕はそうっとその中身を盗み見る。
中には、タッパーに詰めた料理が十個以上は入っていた。ラザニア。エビのクリームコロッケ。肉じゃが。タケノコご飯。カツサンド。鶏の唐揚げ。ナスのみぞれ煮。人参サラダ。ロールキャベツ。次々とテーブルの上に出されるそれを見て、僕は眉根を寄せる。そして最後に、旭君は、大きな箱を取りだした。中に入っていたのは。
「…シフォンケーキ」
ふわふわの、何の飾りも無いケーキが丸ごと。小夜子さんの十八番だ。
「…これは…」
すみません、と旭君は疲れたように謝る。
「ずっとお袋も…キッチンに居るんです。澪の部屋から下に来ると、必ずキッチンの横を通るからって」
ああ、と僕は頷く。このタッパーの中身は、全て澪ちゃんの好物だ。何の飾りも無い素朴なケーキも。
「まだ家に、山のようにあるんです。本当に、すみません」
いや、と父さんは言う。
「謝ることは無いよ。ありがとう。旭君も一緒に食べていってくれ。佑、お皿と箸を出して」
うん、と僕は言ってキッチンに回る。
旭君は、家には今、小夜子さんと澪ちゃんの二人きりだと言った。亘さんは出張で海外に行っているという。食事を共に、と言ったとき、旭君の肩が僅かに緩んだのを、僕は見た。多分、旭君もしんどいのだと思う。
せえので揃えたように頂きます、という言葉を三人で発する。僕は唐揚げをほおばった。小夜子さんの唐揚げは、甘辛い味に、少し生姜のぴりっとした風味がする。小さい頃から、何度も食べている味。締め切り前に差し入れに持ってきてくれたり、何処かに連れて行ってくれたときにお重に詰めてあったり。そう言えば澪ちゃんは、鶏皮が好きだった。旭君と僕はいつも、唐揚げから皮を剥がして澪ちゃんにあげていた。
旭君はぼうっと箸に摘まれた唐揚げを見ていた。彼も僕と同じ事を思っていたのかも知れない。ぽつり、と言葉を零す。
「…澪は…あいつは、一年生の時、友達とちょっと…モメて。まあ…うーん、いじめ、までは行かないんですけど」
うん、と父さんが相づちを打つ。え、と声を上げたのは僕だけだった。一年生の時、ということは二年前だ。何度か澪ちゃんとは会っているはずだけれど、全く気づかなかった。
「いや、でも、本当にちょっとしたトラブルって感じで…。いじめっていうほど、仰々しい感じではなかったんですけど、ちょっと無視されたりしたらしくって。まあ…ぶっちゃけ、俺が間に入ったんです。一応事情を聞かせて欲しいって言う体で。俺も、その時三年生でまだ学校にいたし…。部活の後輩からも、ちょっと色々聞いてたから」
歯切れ悪く、旭君は言う。まだ、箸には唐揚げが挟まれて居るままだ。
「その結果、その無視は一週間ぐらいで終わって。また澪は元の子達と仲良く遊び始めました。母は、そんな子達と一緒に居ないで別の友達を捜しなさいとか、そう言うことを言ったんですけど。まあ…悪口言うような子は本当の友達じゃない、みたいなことを」
小夜子さんなら言いそうだな、と僕はナスを食べながら思う。
「澪は、大分苦しんだみたいです。母のそういう…なんて言うのかな、理想論のようなものと、クラスの実情の間で。で、一応二年生でクラス替えもあって落ち着いたと思ったんですけど…。また、ちょっと…」
旭君はそこで言葉を切った。
「うん」
「…なんて言うかな。いじめにしては軽い、というか。勿論、軽いとかそういう風に区別しちゃいけないと思うんですけど。でも、本当に、別の人が聞いたら『何が問題なの?』みたくなっちゃうぐらいのことで。――ああ、もうすいません。えっとですね、簡単に言うと、ちょっとした悪口みたいなもんです。別に無視されてるとか、そういうんでもなくて、ほんと、ちょっとしたもの。ごめんね、って言えば解決するぐらいの、そんなもので。正直、何で俺もそんなんでそこまで傷つくのか、分かっていないんですけど。ただ、まあ、また母親がね、澪の話を聞いてちょっとまた要らんことを言った感じで。負けずに戦え、とか、多分、そう言うようなことを」
最後の方はあえて駆け足をするかのように、曖昧に言葉を選びながらそう言うと旭君はようやく唐揚げを口に入れる。ううん、と父さんは頭を押さえて、麦茶を一口飲む。
「小夜子さんは…真っ直ぐな人だからなあ…」
「まあ、俺が言うのも何ですけど、強い人なんですよ、あの人は。一昔前のドラマとかに出てこられそうな。――けど、澪はそんなに強くない。誰かに嫌われることが怖いし、傷つくことが怖い」
「うん」
「多分、この世の中っていうのは…母親が思っているほど、綺麗な世界じゃないんです。特に、色んな人間が集まる、学校っていう場所は」
うん、と父さんは相づちを打つ。僕も小さく頷きながら、少し心の中で驚いていた。真っ直ぐで熱い旭君が、物事を深く考えているとは思っていなかった。漫画に出てくるような、所謂「熱血漢」だと思っていたのだ。旭君が言葉を続ける。
「どうにか澪にも、踏ん張って欲しいんです。ぐだぐだ悩んだところで、少しずるくないと生きていけない世の中は変わらないし、あいつが、そう言う人間になれるわけでもないし。だったらもう、その間で上手くバランスを取るしか無いんだから」
旭君は独り言のように呟くと、手のひらほどのカツサンドを一口で食べる。そして僕を見て、少しだけ微笑む。
「ごめんな、変な話聞かせて」
「ううん」
否定した僕に再び笑いかけると、旭君はようやくふっきれたように、次々と腹の中に食べ物を入れていく。
それを見ながら、僕は旭君もしんどかったんだな、と思う。四つ年上の彼は、何処かほっとしたような顔で食事をしている。父さんは、そんな彼を慈しむような目で見ていた。
多分、旭君には小夜子さんと澪ちゃんのどちらの気持ちも分かっていて。分かっているけれど、多分、どちらとも間違っていると思っていて。それが、苦しいのだと思う。
切り分けたシフォンケーキにフォークを入れながら、旭君はぽつりと言う。
「こんな事言っちゃ、駄目なんですけど。絶対に、駄目なんですけど」
そう、前置きをして。
「澪が手首を切ったとき、助かって良かったと思ったんですけど…死なないで欲しいとは思ってるんですけど…。ただ、それってただの俺のエゴだなって思って」
柔らかいシフォンケーキは、フォークの圧力を受けてぐにゃりと歪む。
「…澪のためには、どっちが良かったんだろう、って、少しだけ思ってしまうんです」
父さんはそれには何も答えずに、旭君の肩に、ぽん、と手のひらを乗せる。旭君の肩は、震えていた。僕はケーキに視線を落とす。
(…どっちが良かったのか?)
不意に河野の言葉が頬骨の辺りを過ぎる。
――死んだ方が幸せっていうのはあるじゃない。
まさか、と僕はシフォンケーキと共にその言葉を噛みつぶす。
いつだって澪ちゃんのことを、大切にしていた旭君。澪ちゃんの望むものを、彼は幾つ差し出していただろう。唐揚げの鶏皮も。日当たりの良い方の子供部屋も。一枚しか貰えなかったシール。最後の一つのクッキー。
今、澪ちゃんの望んでいるものは一体何なんだろう。何処で彼女は、踏ん張るのをやめて座り込んでしまったのだろう。
食べ物でお腹を膨らませた僕らは、そのまま黙ってしまって。夕方に旭君が帰った後、夕飯を食べる気になれなかった父さんと僕は早々に自室に引き上げた。
澪ちゃんから電話が来たのは、その日の夜中だった。僕は阿呆なことに、深い眠りに落ちていて。気づいたのは、朝になってからだった。
不在着信、と書かれた画面を見て、僕は酷く狼狽えた。慌てて何度もかけ直してみたけれど、電話は繋がらなかった。只今電話に出ることが出来ません――という無機質なアナウンスが、耳に注ぎ込まれるだけだった。
学校にはきちんと行け、と父さんに言われ、僕は翌日、学校に行った。澪ちゃんは相変わらず家に閉じこもっているらしい。僕は何度も澪ちゃんにメールを送った。電話に出れなくてごめんね。今度は出るから、また電話して。連絡を下さい。いつでも良いから、連絡を。
スマートフォンを見つめている間に、一日を終えてしまった。放課後。もう帰ろう、と決める。宮本君に本屋に誘われていたのだけれど、断ってしまった。
金曜日の放課後は、いつもより廊下に居る人間が多い気がする。
今週、僕の列は掃除当番だった。一通り片付いて、ゴミ捨ての生徒を待っているところだ。
「アサ、ちょっと良い?」
不意に声をかけられて、僕は顔を上げる。河野が、廊下で手招きをしている。
「…何?」
僕は教室に居るまま、彼に問い返す。今は、彼に構っている暇は無いのに、と心で呟きながら。澪ちゃんのことを、考えていたかった。――考えていたところで、何も進展はしないのだけれど。
「ちょっと、来てよ」
そう言われても、僕は教室を出なかった。だいたい、ゴミ捨ての生徒を待つまでは教室を出る事は出来ない。手のひらの上にあるスマートフォンを、ぎゅう、と握る。
不意に、無関係なはずの河野に苛立ちがこみ上げた。
――死んだ方が幸せっていうのはあるじゃない。
そんな言葉を吐いた彼に。
「――今、ちょっと忙しい」
僕は目を伏せて、そう呟く。河野が悪いわけではないのは分かっているけれど、あまりのタイミングの良さに酷く狼狽している自分がいる。
ようやく、ゴミ捨てに行っていた生徒が帰ってきた。担任が終了だと告げて教室を出て行く。じゃあ、お疲れ様。お互いに言い合って、鞄を手に取る。
僕は目線をスマートフォンに落としたまま、河野の前を通り過ぎる。じゃあ、と短く言葉を発して。河野は苛立ったようなため息をついた。
「――そういうことして、いいと思ってんの?アサ」
何が、と顔を上げかけた僕の目の前を、何かが掠めた。真っ白なそれが、河野のワイシャツの色だと分かるまでには、僅かな時間を要した。
やや高い、何かが壊れるような音がして、ようやく僕は理解する。右手で軽く持っていたスマートフォンが、無い。そして、河野の視線の先。床に転がっているのは、紛れもなく右手から失ったスマートフォンで。
「アサ、来てくれるよね?」
ひびの入ったスマートフォンを、河野は拾って、そして僕に手渡す。
「――ね?」
にっこり彼は笑う。廊下に居る人間の視線を、痛いぐらいに感じる。
目立ってしまって嫌だなあと、そう思って、そして、僕はようやくあることに気づく。――澪ちゃんからの、連絡が受け取れない。
「――…!」
今度は出るから。そう送ったメール。
「アサ」
声をかけた河野を、突き飛ばして僕は走った。危ねっ。こら、廊下は走らない。数人の声に混じって、河野の声が、何処かで聞こえた気がした。
駅に向かって、ひたすらに走る。ここから十分ほどの所に携帯ショップはあったけれど、修理が必要であればお金が足りないのだ。後払いが可能だろうか。しかし契約者は父さんの名前でもあったはずだ。だとしたら、僕が行ったところですぐに修理をして貰えるとも限らない。兎に角一刻も早く、家に帰る必要があると考えた僕は、信号待ちをしながら、ただ焦れていた。万一この間に、澪ちゃんから連絡が来ていたら。
「アサ」
不意に声がして、僕は反射的に顔を上げる。
「…ごめんね」
河野幸実だった。河野は走ってきたらしく、髪をくしゃくしゃにしていた。それでも、声は柔らかで、綺麗だった。何処か泣きそうな顔で、河野は僕を見ている。僕は、何かを言おうと、口を開く。けれど、その口からは何も出てこなかった。許諾の言葉も。罵倒の言葉も。
信号が青になる。足を踏み出そうとしたときだった。
「待って、アサ」
不意に腕を捕まれて、僕はびくりと身体を揺らす。河野が、殆ど泣いているのではないかという顔で、こちらを見ている。
「――…俺、俺は…」
言いかけた河野の言葉を、きゃあ、という声が遮った。
「あの、あのっ、カワコーさんですよねっ」
「…?」
高校生ぐらいだろうか。二人連れの女子が、スマートフォンを手にじりじりと近寄ってくる。
「うわーっ、めっちゃ格好いい!ブログもいつも見てますっ」
「ドラマ録画してます!あのっ、写メ撮って良いですかっ」
一瞬、河野の腕が緩んだ。
その隙に、僕は彼の腕をふりほどくようにして、駅まで走った。
一度も振り返らずに、改札の前まで来たときだった。不意に気配を感じて、僕は振り返る。河野幸実が、こちらを見ていた。先程よりも、髪の毛が乱れている。彼は呼吸を整えると、こちらに向かって歩いてくる。先程の女の子達はどうしたのだろう。
「――…何で逃げるの」
その声に、微かな震えが付着しているのを感じて、僕は彼の顔をまじまじと見る。彼の表情は、何ともしがたい色をしていた。泣き出しそうにも見えるし、どこか怒っているようにも見える。
「逃げてる、わけじゃない」
僕の言葉に、河野は片眉を上げる。
「連絡を、待ってるんだ。ただ、それだけだ」
子供に言い含めるように、話すと、河野はじっと僕を見つめる。
「…待ってるって、誰から?」
僕も河野を見つめ返し、そして脳内でよりよい言葉を選ぶ。友達。親戚みたいな子。大切な子。好きな子。――いや、それよりも。
(…河野には、関係ない子)
それを思ったと同時だった。河野が、一歩歩みを進めて僕との距離を縮める。
「――アサ。死にたくなかったら、俺に着いてきてよ」
そう言って彼は、ポケットに手を入れた。かしゃり、という金属音が布越しに聞こえる。
「俺は、人を殺すことなんて怖くない」
言葉を途切れさせて、そして彼は小首を傾げた。薄い笑みが広がっている。
「来てくれるよね?アサ」
そう言って彼は、親しげに僕の腕を取った。金属音が、また聞こえた気がした。
そして何度目になるだろうかの、河野の自宅だった。今度はまた、二十八階で。統一性も高級感もないファブリックと家具が無造作に置かれている、高層マンション。
「アサ」
河野が横で囁く。ちら、と彼を見ると彼はにっこりと笑った。
「来てくれて、ありがとう」
僕は目を伏せる。脅しておいて一体何を言うのかと言いたかったけれど、その言葉は上手く喉から飛び出していかなかった。いや、と小さく言って僕は目を伏せる。スマートフォンは、鞄の中だ。どうにか隙を突いて逃げる方法を考えたけれど、上手く思考はまとまらなかった。脱出を試みるよりも、適当に河野に合わせる方が結果的に早く出られそうな気がする。
すう、と息を吐いて僕は澪ちゃんを意識させて頭から取り除く。河野にだけ、集中する。どうか、全て終わるまで連絡が来ませんようにと僅かに願ってから。
河野は、ちょっと待ってて、というと立ち上がり、一旦部屋を出ていった。僕は再び息を吐いて、そして、部屋を見回した。壁には何一つ――何かをかけるフックやポスターやカレンダーなども――張り付いていない。ただ、隣室との仕切りという機能しか、果たしていない壁。
ややあって、河野がお菓子の袋を数個と、ジュースのペットボトルを二本持って来た。
「もう一度聞いて良い?」
彼はペットボトルを手渡しながら僕に聞く。
「誰からの連絡を、待っているの?」
僕はじっと彼を見返した。その顔には、嘘をついてもどうにかなる、という緩みは一切見つからなかった。僕は息を吐く。もともと、嘘をつくことは苦手なのだ。
「幼なじみ。二つ、年上だけど」
一番適切に思える答えを言うと、彼はふうん、と首を傾げた。
「男?」
「いや、女の子」
「二つ上だと…中三?」
「うん」
僕が頷くと、河野はふうん、と声を漏らした。
少しの沈黙の後、僕は問う。
不意に、河野が顔を上げた。
「お寺の和尚さんって歌知ってる?」
「…え?お寺の…和尚さん?」
「うん。お寺の和尚さんがカボチャの種を蒔きました、っていうやつ」
ああ、と僕は思う。保育園でも幾度も聞いた手遊び歌だ。最後に、じゃんけんをするやつ。
河野は、ゆったりと歌う。園児達に聞かせるように。
「芽ーがー出て、膨らんで。花が咲いたら、じゃんけんぽん、ってやつだね」
「…うん」
唐突に河野が何を言いだしたのか、分からないまま僕は彼を見る。
「どうして、花が咲いたらじゃんけんをするんだろうね。何を求めて、じゃんけんという争いをするんだと思う?」
「何を…?」
「カボチャの実かなあ」
ぽつりと言って、河野はくつくつと笑う。そして、つ、と真面目な顔になる。
「君は、転んでいる人がいたら、助け起こさないの?」
唐突に言われた言葉が、昨日の議論の続きだと気づくのに、やや時間を要した。
「え?」
「溺れてる人がいたら、それも本人の権利だって言って放っておく?」
「…違う、それは――」
「違わないさ。より、本人の望む方向に」
「でも!」
「ねえアサ」
河野は静かに言う。
「君には、救いたい人は居ないの?」
「え?」
「本当に、居ないの?」
河野の目が、じっと僕を見つめる。
彼の言う「救いたい人」は。そして、彼の言う「救う」方法は。
「…居るわけがない」
僕の答えに、河野は少し笑った。
「アサ」
河野の声が、僕の身体に染みてくる。雨みたいに。傘を溶かして。どろりと伝って来る。
「きっといつか君も思うよ。救ってあげたいってさ」
そう言うと彼は、さて、と言って腰を上げた。
「…?」
「帰ろうか、そろそろ」
河野に促されて僕は立ち上がる。彼は何のために僕をこの部屋に呼んだのだろう。特に深い議論をしたわけでも、無い。何だか無性に気が抜けた。たかだか十分程度のために僕は何を狼狽していたのか。
「…監禁されるかと思った」
思わず呟くと、彼は心底おかしそうに笑った。
彼は駅まで送ってくれると、じゃあね、と言って踵を返す。僕はそれを見送って、ふう、と息を吐いた。駅の時計を見ると、十九時だった。さほど遅い時間でもないけれど、いつもよりは十二分に遅い。父さんは心配しているかもしれない。
電車に揺られながら、ふと思いついてスマートフォンを鞄のポケットから取りだした。ひび割れた画面に顔をしかめながら、電源ボタンを押す。
「――あ」
ヴー、という振動とともに、画面に光が灯る。思わず、声が零れた。
起動画面を経て、スマートフォンにはメニュー画面が表示される。何だ、と僕は脱力する。
(壊れてなかった…)
ほっと息を吐く。画面が割れているので、修理は必要かもしれないけれど、少なくとも操作は可能だ。
そして、僕は浅くため息をつく。
(――メールは、来てない…。着信も…)
澪ちゃんからの何かは、僕には届いていなかった。
微かな安堵――スマートフォンが壊れていなかったことと、澪ちゃんからの連絡を取り損ねなかったこと――と、圧倒的な哀しみが僕を襲う。澪ちゃんが、連絡をくれないという、たった一つの事実を根底に置いて。
帰宅すると、父さんが心配そうな顔で僕を見た。顔色が悪いぞ、と彼は言う。僕は神妙に頷いて、少し腹が痛いと答えた。携帯電話も落としてしまって連絡がつかなかった、と言って謝る。病院に行こうかという父さんに僕は首を横に振って、自室のベッドに転がり込んだ。父さんは、お腹が良くなったら明日にでも携帯ショップに行っておいで、とそれだけを言って部屋を出ていった。念のため、と修理代の三万円を僕の財布に入れて。
だから、僕はただただ目を閉じた。それに触れずに、眠ってしまおうと思った。そして、本当に寝てしまい、目が覚めると、本当にお腹が痛くなっていた。トイレに籠もって、腸内の物質を全て吐き出しながら、僕の胸に淀んでいる何かが、胃腸をくぐり抜けて排出されているのだろうかと考えていた。




