第二章 死骸
トイレの壁には、整然とタイルが並んでいる。欠けもゆがみも無い、四角形。規則的なそれらは、思わず息を吐くほど美しかった。
河野の言葉が、そのトイレのタイルに浮かんでは消える。
――葬儀をしようよ。
それはまた虫の葬儀をすることなのか、と問うた僕に、河野は首を横に振った。
――言ったろ。死骸があるって。
何処に、と問うた僕に、彼は少し笑った。じゃあ明日、見においでよ、とそう言って。
そしてその「明日」が今日になったのだ。
教室に戻ると、何人かのクラスメイトが、ノートやテキストを見ながら話していた。やがて担任教師が来て、一日が始まる。今日は、所謂『お迎えテスト』だった。国数理社英の五教科。
一時間目の国語。順調に問題を解いていた僕は、思わず手を止める。――亡き母や海見る度に見る度に。小林一茶の句だ。塾での模擬テストでも、何度も出てきた。
(雄大で、ゆったりとした海を見る度に、亡くなった母を思い出す…)
今まで、年号や公式と同じにしか意識していなかった一つの句。不意に、テキストの端に書かれたコラムが脳裏に浮かぶ。――小林一茶は、三歳の時に母と死に別れています。
(――…三歳…)
僕が母と別れたのは、五歳の時だった。母との記憶は酷く曖昧だ。ただ残るのは、痕だけで。
(僕を捨てた母や背痛む度に痛む度に。…なんてね。字余りも良いとこだな)
低く笑いそうになって、僕は慌てて、いけない、とシャープペンシルを持ち直す。白い紙からの問いは、酷く単純だった。――この作者は誰ですか。小林一茶、と書き入れると次の問題に目線を落とす。若鮎の二手になりてのぼりけり。この句の季語はどれですか――…。
午前中に、国語、社会、理科のテストを終え、午後の最初は数学だった。かつかつ、というシャープペンシル、もしくは鉛筆が紙越しに机を叩く音が響く。ねぶり取られた黒鉛が、紙に付着していく。数学は、頭を余計なことに使わなくてすむから、楽だった。言葉は、僕を抉る。時に一文字の漢字で。時に、幾つかの組み合わせで。対角線や補助線、という言葉には何の深みも感じない。良かった、と思う。もうここまで来ると、『ナントカくんが』という出だしから始まる文章題は殆ど出ない。
一瞬、脳裏に小学生の時の風景が蘇る。あれは、二年生の時だっただろうか。当時の担任は、児童の名前を使って文章題を作るのが好きだった。えりちゃんが、クッキーを焼きました。たいちくんは、鉛筆を三十本持っています。ある日、彼は黒板にチョークを走らせる。曰く、たすくくんは、お母さんに頼まれてお使いに行きました――…。
慌てて僕は顔を上げる。一番前の席は、カンニングの疑いが無く助かる。時計を見たふりをして、再び視線を落とした。
(…いつまで、引きずるんだ)
ただの数字の羅列に、もう惑わされないと思っていたのに。もう「算数」ではなく、「数学」なのに。だから、大丈夫だと思っていたのに。
(そうだ、もう大丈夫。もう、変わっている)
ここにはもう、小学校の時の知人は一人もいない。先生、麻木君にはお母さんはいませえん、と叫んだ人間も。そんな事言ったら可哀相でしょう、と金切り声を上げた人間も。ごめんなぁ、佑、と神妙な声を出した人間も。
五教科全てのテストを終えて、帰りのHRを終えた教室は、昨日と同様にざわつきが立ちこめていた。
「アサ、行こっか」
河野に声をかけられた僕は、顔を上げて、そして頷く。何処に行くのかは会えて問わない。クラスメイトの何人かが、僕らを見ている気がする。気づかないふりをして僕は立ち上がるす。
(死骸…)
何処かの公園で、猫でも死んでいたのだろうか。
(人だったら嫌だな)
老人の孤独死、という今朝見たニュースが蘇る。あばらやで死んでいる老人。もしくは、ホームレス、とか。河野は無表情のまま、僕を伴って教室を後にする。
何となく不安のまま、けれど彼に「行かない」と告げないのは、僕は彼の言う「死骸」が見たいのだろうか。
(別に見たくはないかな)
彼との「葬儀」のときも、僕は殆どその元生き物には触れなかった。彼が転校していった後、幾つか見つけた死骸(夏の終わりに腹を見せて動かなくなっている蝉とか。道路の隅で潰れたようなカラスとか)にも、触れなかった。ただ、横目で見ていただけだ。誰かがそれを「回収」するのを待つだけ。
では何故、僕はこうして彼と下校をしているのか。
(…何でだろ?)
目立つ人間の側に居ることは危険と学んでいるはずなのだけれど。
(もしかしたら)
無言の河野に歩みを合わせながら思う。
河野が、僕のことを呼ぶとき。アサ、と呼ぶとき。僅かにその声が、震えて聞こえるから。なのかもしれない。
そして再び河野は、自宅の前で歩みを止めた。また、彼の家である。ぱちぱち、と目を瞬かせていると、彼は自然な動作でオートロックを解除してエレベーターに乗り込む。けれど、今度押した数字は昨日と同様の「二十八」ではなかった。
「…十階?」
問うた僕に、うん、と河野は頷いた。
「そこに、…ええと、ある、の?」
何故かエレベーターの箱の隅に着いている監視カメラが怖くて(多分音声は入らないけれど。世の中には読心術をつかえる人も居るわけだし)主語を抜かしたまま問う。うん、と河野は再び頷いた。
乗っている時間は、酷く短かった。あっという間に扉が開く。
彼はまた、迷いのない動作で十階の廊下を歩く。そのうちの一室の前で、カードキーをかざした。
「どうぞ」
「お邪魔します」
言って入った部屋に、僕は再び絶句する。
中は、色の洪水どころか津波のようなものだった。壁は面ごとに別々の壁紙(それも単色の物ではなく全て三、四色は使われている派手なもの)が貼られている。床には十色ほどのタイルカーペットがランダムに組み合わされておかれている。家具は全て色もテイストもバラバラで、籐の椅子の横に真っ赤なスチール棚が置かれていたり、市松模様のダイニングテーブルに、細かいレリーフで飾られたアンティークのようなベンチが置かれていたりする。家電も、全て(テレビや冷蔵庫なども)三種類ほどはあり、CDラジカセに至っては八個も色々な場所に散らばっていた。
「…ここは、河野の家?」
昨日と同じ問いをした僕に、河野は答えないまま小さなデスク(よく職員室なんかにある味気ないデザインのもの)の上のパソコンの電源ボタンを押す。
死骸は、とは上手く問えないまま、僕はきょろきょろと部屋の中を見回す。大きな食器棚の中には食器は一枚も入っておらず、フィギュアがずらりと並んでいる。昔流行ったゲームのキャラクターから、世界的に人気のアニメのもの、所謂「萌え系」のものや、薔薇で彩られたミニチュア家具、ロボット、車、電車など様々な物が無造作に詰め込まれている。逆さまになっているものすらある。
「――ああ、映ったね」
河野の呟きに、僕は顔を上げる。見てごらん、と河野は言う。彼が指を指したのは、白い枠の中に在る画面で。その画面上には、写真のようなものが映っていた。
「…病院?」
それは、病室によく似ていた。白い壁。大きなベッド。カーテンのかかった窓。ベッドの中では誰かが横たわっている。点滴や、何かの袋やコードが、ベッドの周りに置かれている。
「これは…」
粒子が粗くて、誰が眠っているのかはよく分からない。河野は、少し笑った。
「俺の姉だよ」
そう言って河野は、僕をじっと見つめる。粗い画面のなかで、何が起こっているのかは分からない。けれども。彼は「死骸」と言った。顔に布は、かかっていないのに。
「…お姉さん?お姉さんが、いたの?」
「うん。コウメって言うんだ。幸せな芽って書いて、幸芽」
僕はまた、じっとその画面を見つめる。顔の部分には、管があって(多分呼吸用の何かを付けているんだと思う)表情や細部はよく分からなかった。
「お姉さんは、幾つ?」
僕の問いに、河野はようやく眼を細める。何処か愛おしげに、画面を見つめた。
「同い年だよ。双子なんだ」
「え?」
「色々事情があって、小さい頃に離ればなれになったんだ」
そうなんだ、と僕は呟く。そう言えば僕は、河野の家の事情を何も知らない。同じマンションに二部屋、ちぐはぐな部屋を持っている理由も。
「お姉さんは…病気?」
僕の問いに河野は首を横に振る。
「怪我、かな」
「…怪我」
繰り返した僕に、河野は頷く。
「俺がやったんだ」
「え?」
「俺が、頭をぶん殴ったんだ。――ねえ、アサ。葬儀をしようよ」
再び見つめ返した河野の顔には、既に笑みはなかった。ただ僅かに、目尻が痙攣したように震えていた。
あの頃。僕たちの「葬儀」は既に息絶えている虫がメインだったけれど、時々、残り僅かな命に苦しんでいるものもその範疇に入れていた。
痙攣するように進んでいるミミズとか、辛うじて触覚だけを動かしている蟻だとか。
最初、僕はそれらを「埋葬」することを拒んだ。まだ生きている、と言って。
けれど河野は、苦しみを取り除いてあげることも大切だ、と言った。僕たちはそれについて、幾度も議論をした。時々ケンカのようになってしまうこともあった。そして、いつもそれを着地させることは出来なかった。何故なら、僕たちがああでもないこうでもないと言っているうちに、生き物たちは生を終えてしまうから。その最期が幸せだったのか、不幸せだったのか、僕たちには伝えないまま。
どうやって河野の家から自宅に戻ってきたかは、定かではなかった。不審がる父さんに、帰宅中にお腹が痛くなったと嘘をついて布団に潜り込む。僕は元々あまり腸が丈夫ではない。乳製品を取りすぎたり、冷房の効きすぎた部屋にいると、すぐにお腹が痛くなる。父さんはそれを知っているので、薬を渡しただけで、すぐに気遣うような顔をしていた。
画面の、河野の姉――幸芽さんが、頭から離れない。そう言えば頭の辺りに白く何かが巻いてあったようにも思い出される。
(…河野が、頭を殴った…)
いや、と僕は身体を起こす。
(河野が、そんなことするはずが無い)
踏まれた蟻に、慈しみを注いでいた河野が、そんなことをするはずがない。
(何か理由があったんだ。多分。偶然あたっちゃっただけ、とか。事故だったに違いない)
ちゃんと彼の弁解を聞かずに、一方的に逃げるように帰って来た自分に嫌悪感を覚える。
しまった、と思いながらスマートフォンを弄る。河野とは連絡先の交換をしていなかった。
(ちゃんと謝らないと。で、ちゃんと話を聞かないと)
ばかな自分に、思わずため息が零れる。
(明日、ちゃんとしなくちゃ)
そう誓って、僕は眠りに落ちる。まるで、死骸のように。
翌朝のニュース番組では、番宣が行われていた。
父さんは昨日遅かったらしく、まだ寝ていて。僕は朝食を取りながら(その日は納豆ご飯だった)、それをぼうっと見ている。
――今日はいよいよ始まる新ドラマ、主演のお二人に来て頂きましたあ。若いアナウンサーがはしゃいだように言う。本日夜九時から始まる「夢色」より、サカイリオコさんと、ゴミケイゴさんですぅ。
(…夢色?)
何か聞いたことあるようなフレーズのような気がして、テレビに視線を這わす。テレビでは、その「夢色」のVTRが流されている。どうやら壊れた家族が再生していくという旨のものらしい。どこでその「夢色」を知ったのだったか。
主演の二人の略歴が画面に映し出される。ふうん、とそれを見ながら、ようやく僕は一つのことを思い出した。
(――…そうだ。河野が出るドラマ…)
澪ちゃんの雑誌に書いてあった。夢色に出る、と書いてあった筈だ。再びテレビ画面はドラマのVTRになった。主演の二人が、見所を語っている。専業主婦から、カリスマブロガーに変貌した妻と、リストラされ、ついでに癌に冒されていることも分かった夫。受験に失敗して引きこもった長男と、読者モデルを始めた長女と、プロの将棋棋士を目指して奨励会に通う次男の物語。ちょっと盛り込みすぎではないかと思うが、大体そんな感じだった。河野は、その子供達の誰でもなかった。第一話では出てこないのだろうか。或いは河野は子供達の友人、などという脇役的位置づけで出てくるのだろうか。そう思ったときだった。それは画面いっぱいに映った。
(…河野…)
ナレーションに切り替わっているので、彼がどんな台詞を言っていたかは分からない。けれど、十秒ほど口が動いた後に、にっこりと彼は微笑む。最後は主演のサカイリオコが、何か驚いた顔をするところでVTRは終わった。
――本日夜九時!どうぞご覧下さい。アナウンサーの言葉と共に、テレビはCMに切り替わる。
その日、学校に行くと河野は十人ほどに囲まれていた。朝のニュース見たよ。姉貴がサイン貰ってこいって。ドラマ見るからな。なあなあマキエリに会った?五味恵吾ってどんな人?凄いじゃん、母さんがファンになったって言ってたよ。
僕はそれを横目で見ながら、着席をし、目を伏せる。手元のスマートフォンを、眺めているふりをしながら。不意に、あのさ、と声をかけられて僕は顔を上げる。宮本君というクラスメイトが話しかけてきていた。
「麻木君ってさ、もしかして麻木仁となんか関係ある?漫画家のさ。麻木仁」
「――え?」
麻木仁、とは父さんの名前だ。漫画家である彼は、ペンネームを使わない。ええと、と僕はもごもごと答える。
「…親戚、なんだ」
半分正解で半分外れの答えを言うと、彼はへええと大仰に声を上げた。
「すっげえ。俺、アカセン本当に好きでさ。親戚の兄ちゃんがずっとファンで、俺もアニメのDVDとか見せて貰って」
アカセン――暁の戦士は父さんの代表作だ。十年以上前だけれど、アニメ化もされ、麻木仁を世に知らしめた作品。炎を司る魔法を使う主人公が、氷の軍団と戦う――というのが第一部。氷の長と仲間になり、今度は地中に住む軍団と戦う、というのが第二部。主人公の幼なじみとの確執やら友情やらをメインにしたのが、第三部。最後は、主人公と氷の軍団の姫が結婚して、大団円で終わるというものだった。最終回の後も、五年ほどは『戦士シリーズ』として、脇役などにスポットライトを当てた外伝漫画をぽつぽつと発表していた。
「漫画全巻あるぜ。でも、オレ的に一番は鵺の戦士かな。やっぱあれが一番だわ」
そりゃどうも、と僕は曖昧に言う。(ちなみに『鵺の戦士』――通称ヌエセンは、第三部で主人公と敵対することになる幼なじみの事を描いた外伝的漫画だ)
やっぱり雀姫が一番良いと思うんだよなあ。何で暁は晶姫を選んだかなあ。ぶつぶつと登場人物達について言う宮本君に適当に相づちを打ちながら、ちらりと僕は河野を見る。河野は、ゆったりとした空気を醸し出しながら、ただ席に着いてクラスメイト達に何かを返しながら笑っていた。
(…ごめんって言わなくちゃ)
けれど、人垣は崩れることはなく。――どっかの事務所に所属してるの?スカウトってどうやって声かけられたの?妹が持ってる雑誌で実は知ってたんだよ。そんな声に混じって、宮本君が一生懸命話す声が聞こえる。でもさ、地味に紫紺の戦士も名作だと思っててさ――…。
やがて担任が教室に入ってきて、出欠を取る。一番に、「はい」と答えると、僕は再びちらりと河野を見た。彼はすましたように座っていて、名前が呼ばれると「はい」と答えていた。
SHRを終え、一時間目の体育の支度を始める。男子校、ということもあり、更衣室なんていうものは無い。一応、窓にカーテンはあるけれどそれすら引かずに、皆教室で無造作に服を脱ぎ始める。僕もそれは同様で。制服のワイシャツの下には、グレーのTシャツを着ている。気にせずワイシャツを脱いで、Tシャツの上に、襟付きの体操着とジャージを羽織った。河野が、ちらり、と着替える僕を見た気がした。彼は僕の傷のことを知っていただろうか。小学校の時には、プールや組み体操など、背を晒したり負担をかけるものは全て見学していた。背中に酷い傷があるという事はクラスの周知の事実だったし、彼も知っているかも知れない。原因までは流石に知らないだろうけれど。
話しかけよう、と思った時には、河野は左隣のクラスメイトと何かを話していて、こちらには視線をよこしていなかった。
ぞろぞろと僕らは体育館に向かって歩く。体育館は僕らの教室の真逆だ。一度三階に行って渡り廊下を通らなくてはいけないこともあり、だらだらと歩くと五分は楽にかかりそうだ。河野はまた、何人かに取り囲まれている。主題歌歌ってるウェイブには会えるの?他にもなんかテレビに出てる?僕は少し離れたところから、それを見ながら歩く。不意に、後ろの方から、ぼそり、とした声が聞こえた。
「――あいつ、調子乗ってるよな」
ひやり、と背筋に嫌なものが触れた気がした。振り返ることは、長年の経験上しない。僕は、眼球の動きだけで河野を見た。新入生代表挨拶。芸能活動。ドラマ出演。そして、あの恐ろしいほど綺麗な顔立ち。それは間違いなく、誰もに好意的に受け入れられる人間では、多分、無くて。例えくだらない苛立ちが根っこにあるだけだとはいえ、それがどういう風に変化していくのかを考えるだけで、僕はにわかに肩胛骨が凍るような感覚を覚えた。
「マジ、ウゼェ」
ぼそぼそ、と、声変わり中の、やや掠れた声がそんな言葉を交わし合う。
僕は目を伏せて、けれど、何処かに逃げる勇気もなく、ただ歩く。二人か、三人だろうか。河野に対する、酷く曖昧で幼稚な陰口を零す、彼らの前を。
「俺、三年に知り合いいるから」
丁度階段を、降りるところでかれらが僕を抜かしていく。その低い声が僕の横を通りすぎたとき、ぞわり、と背筋が冷たくなった。その悪意は決して自分に向けられたわけではないけれど。でも、僕と繋がっている人間に向かっている。そして、僕は目を伏せる。僕がこの言葉に嫌悪感を抱くのは。もしかして、僕に、線を伝って悪意が向けられる可能性があるからではないのか。
「――アイツのこと、話してみるよ」
彼らの声が遠ざかっていく。河野は、相変わらず何人かの生徒の問いかけに、適当に答えていた。あ、ねえねえ、と僕は肩を叩かれる。宮本君だった。
「さっき、急にゴメンな。部活って、もう決めた?俺さ、鉄道研究会に入ろうと思ってるんだけど、良ければ一緒にどう?」
彼はにこにこと言う。僕は曖昧に笑って、ごめん、あんまり鉄道とか分かんない、と答えた。新幹線も白っぽいのと緑と赤があるぐらいは知っているけど、ナントカ系だの「ひかり」だの「こだま」だの「かがやき」だの、とまでは全く分からない。そうかあ、と彼は少し残念そうに言う。
「じゃあさ、料理部は?」
ひょい、と宮本君の横から顔を出した生徒が、唐突に問う。ひょろりとした背の高い子だ。名前は――。
「あ、ゴメン。俺、長谷川。二人とも、料理とか興味ない?」
にこにこと問う長谷川君に、鉄道よりかは興味がある、と僕は答えた。家での食事は、殆どが父さんが作るけれど、締め切り前には自分で作ることもある。
「何、料理部って。なんか食べれんの?」
「そりゃあそうでしょ。ていうか作って終わりとか、意味分かんないじゃん」
宮本君と長谷川君が話している。あ、俺たち塾が同じだったんだ、と宮本君が補足する。
「どう?えーと、そうそう、麻木君。とりあえず、体験だけにも行ってみない?今日なんだけどさ、コロッケで、試食もあるってさ」
僕はちらりと河野を見る。彼の頭部は微動だにしない。それから、こくり、と頷いた。
「体験だけでも、良いんだったら」
「オッケーオッケー。大丈夫。良かったあ。俺さ、三年に兄貴がいて、料理部の部長なんだ。一人でも多く人連れて来いって言われてんの。ミヤも来いよな。兼部とかも大丈夫だし。な」
僕は頷いて、そして妙な心地よさを覚える。僕にこんな風に普通に話しかけてきてくれる人は、久しぶりだった。小学校でも、塾でも、大体僕は俯いてばかりだったのだ。
それよりさあ、英語の先生発音微妙だよなあ、などとぼやく宮本君に頷きながら、僕たちは体育館に到着した。
結局、その日は一日、河野と会話をすることは出来なかった。
夜、リビングのテレビを見ていると、父さんが意外そうな顔でこちらを見た。
「珍しいな。テレビ。なんかやるのか?」
ああ、と僕は口ごもって、それから、うん、と答える。
「――クラスの奴が、ドラマに出る、かもしれなくて」
「へえ?」
「ほら、澪ちゃんのところで見た雑誌に出てた…新入生代表の奴。なんか、コレに出る、とか書いてたから…一応、見て見ようかと思って」
しどろもどろになりながら言うと、そうか、とあっさりと父さんは頷いた。僕の部屋に、テレビはない。元々納戸だった部屋だったので、テレビのアンテナ用の線が無かったのだ。何度か父さんに必要かと問われたのだけれど、毎回断ってきていた。そこまでして貰う義理はないとも思ったし、あまりテレビが好きではなかったのだった。けれど今は、やはり置いて貰えば良かった、とも思う。なんとなく、ミーハーみたいでかっこ悪い気がして。
「ふうん。ああ、堺理央子が主演なのか。懐かしいなあ。昔好きだったんだよ」
新聞を眺めながら、父さんは言って、ソファに腰を下ろす。次の締め切りは大分先だという彼は、珍しくお酒を飲んでいる。ドラマが始まるまでは、あと十分。最新のスマートフォン。安くて安心の医療保険。崩れないファンデーション。CMが終わり、静かなナレーションと共に、ドラマが始まる。夫の、会社のシーンから始まるようだった。
僕はぼんやりと、ドラマを見ながら、河野幸実の姿を探した。年齢的にも設定的にも、読者モデルをしているという長女関係で出てくるのだろうと思っていたのだけれど、違った。河野幸実は、次男(プロの棋士を目指して奨励会に入っている)の憧れの存在、という役所だった。中学生でプロ入りした、天才棋士、という設定だ。彼の台詞は、それなりにあった。第一話では、リストラされた父親に反発した次男が家出をするシーンがあり、その家出をした次男に声を掛け、何やら良いことを色々と語り、家まで送る、ということまでをした。(番宣にて放送された何かを喋って最後に笑うシーンは、ここだった)ちなみに、この、家まで送ったとき、母が目を止めて写真を撮り、ブログにはしゃいで載せたことで、ブログが炎上する、というおまけ付きだ。
to be continue…という文字が映し出され、エンディングが流れる。誰もいない家のそこかしこを、映しているだけだ。首藤伊織・カワノコウミと書かれている。
いやあ、と黙ってドラマを見ていた父さんが呟いた。
「上手いな、あの子」
僕は頷いた。河野は――いや、カワノコウミは、上手かった。激高するシーンは殆ど無い。淡々と、次男を諭し、最後を除き表情を顔に出すこともなかった。けれど――もしかしたら、次男や長女役の子がぎこちなかったせいかもしれないけれど――間違いなく、上手かった。次男が彼のすばらしさを説明する前に、何か普通のことは違う、という何かを醸し出していた。
「こりゃあ、人気出るなあ」
凄いな、と父さんは言って、そしてううん、と伸びをした。
「まだ、起きてるのか?」
「ううん、もう寝る」
そうか、と父さんは頷いて洗面所へ向かう。僕はテレビの電源を切ると、スマートフォンを見つめた。河野のアドレスも、SNSサイトのアカウントも、何も入っていない。勿論、連絡なんて来るはずがないのに、でも、見つめてしまった。
翌日、河野はまた益々大勢の人たちに囲まれていて。サインだの写真だのと騒ぐ制服姿で、表情はおろか欠片すら僕の目には届かなかった。
授業が始まり、囲みが解ける。僕は何度か河野に視線を向けたけれど、河野の横顔はこちらを向くことはなくて。どうしよう、と迷っている間に、つまりは勇気を出せない間に、放課後を迎えていた。
一緒に鉄道研究会を見に行かないかという宮本君の誘いを断って、僕はぼうっと河野を見る。河野は、別のクラスの人間も含めた人の壁に囲まれていて。
どうしよう、と僕はそれを見ながら(多分、端から見たら不審だっただろう)思う。
(謝りたいだけ、なんだけど…)
別に謝らなければいけないわけではないような気もするけれど。
(河野は、怒ってるのかな)
だから今日は、こちらを見なかったのだろうか。いや、そんなことはない、と思う。
(そんな、僕の事なんて考えている暇なんて無い)
彼の囲いはまだ、絡まっていて。
(――帰ろう)
いいや、と思う。彼に対して、どうしても謝らなくてはいけないほどの悪事を働いた訳でもない。一緒に帰ったり、毎日一言は声を交わそうと約束した訳でもない。
けれど、僕がそう決めて鞄を掴んだその時。
「アサ、帰るの?一緒に帰ろうよ」
その声が、甘やかに僕を貫いて。それと同時に視線が一気に僕に突き刺さる。身体に、次々打ち込まれていく視線。河野はそれに気づかぬように、鞄を掴むと「じゃあ」と囲んでいた制服達に挨拶をした。
何、同じ小学校かなんか?塾での知り合い?そんな囁き声を背に、僕たちは二人で歩き始める。
ああ、いやだな、と僕は思う。目立つことは、嫌いだったはずなのに。
「アサ、また、うち寄ってく?」
河野は頓着しないように、問うていて。僕は、いや、と首を横に振った。肺の辺りが、ざわざわとする。視線を射った人間は、もうこちらを見ていないのに。弓はもうとうに下ろされているのに。身体中にはまだ、それが刺さったままで。
「…河野」
どうして良いか分からず、彼の名を呼ぶ。ごめんね、と言う言葉は何かで縫い止められているようで。もしかしたら、先程射られた矢で固定されてしまってるのかも知れない。それを抜けば早いのだけれど、抜いたらきっと血が噴き出してしまう。
「どうしたの?」
河野が足を止める。昇降口には、数人の生徒達が居た。何人かが顔を上げて、河野を見て、続けて僕を見る。
その言葉を落としたのは、殆ど無意識だった。無意識と言うことは、それが多分本音で。
「やっぱり行く。昨日の、もう一回見せて」
河野は、少し笑った。ドラマで見せた笑みに比べると、控えめに。でも、嬉しそうに。
僕は、画面越しにまたそれを見ている。昨日とは僅かにそれは異なっていた。カーテンが今日は開けられていて、窓の奥に咲き誇る桜が見えた。
「…どうして、お姉さんを殴ったの?」
酷く圧迫感があって落ち着かない部屋でそう問うと、河野は肩をすくめた。
「忘れちゃった」
眉をひそめた僕に、河野は無表情のまま視線をよこす。
「世の中には色んな宗教があってさ」
彼は言いながら、ペットボトルのジュースを僕によこす。
「死んで空の上に行くのが幸せだっていうのもあるんだって。だから葬式では『おめでとう』って言って、大はしゃぎするの」
「…ふうん?」
「生きてることって、しんどいんだよね」
河野はそう言って一口ジュースを飲む。僕もそれに倣った。強めの炭酸が、喉にちくちくと攻撃をしてくる。
「…僕には兄弟がいないから、よく分からないけど」
僕の言葉に、うん、と河野は答える。
「昔、一緒にした葬儀では…河野は、哀しんでるんだと思ってたけど」
「そう?」
「うん…。だって、虫を殺した奴らが許せない、みたいなことを言ってたから」
ああ、と河野は答える。
「まあね。死にたがってないのを殺すっていうのは、やっぱり違うとは思うよ。でも、死んだ方が幸せっていうのはあるじゃない」
「…そう?」
「うん」
もう一度僕は、そうかな、と呟いて、口を開く。
「…あのさ、知ってると思うけど、僕は、ええっと、母親に虐待を受けてたのね?」
「うん」
河野は静かに頷く。知っていたんだな、と思う。確かに小学校ではその噂が一番大きく、そして信憑性を持っていた。あいつは虐待を受けていたから、服を脱げないらしいぜ、と。ちなみに次点では、大きな事故にあったというものがあり、後は、入れ墨が入っているというものもあったらしい。呪いの入れ墨、と言われていたこともあった。
「その時はまだ、小さかったから…その、死ぬっていう発想は無かったけど、でもまあ、人生で一番、しんどかったな、って思ってるんだ」
うん、と河野は相づちを打つ。
「でも、今は割と幸せでさ。あの時、死ななくて良かったなって思うんだ。だから、その――…上手く、言えないけど。もしかしたらこの先良いことがあるかもしれないのに、それを殺しちゃうっていうのは…」
「でも逆に言えば、この先もっと酷い絶望があるかもしれないよ?」
河野の言葉に、僕はやや下方から反撃をする。
「…それは、どうして?超能力者でもないのにそんな――…」
「あの頃と同じだね」
僕の言葉を遮るように、河野が言う。少し苦笑したような、静かな、落ち着いた声で。でも、何かをすぱりと半分に切るように、迫力を持って。
「死にかけの虫を、いつだって君は殺さなかった。どうせ、死ぬのに」
僕は俯く。死にかけの虫を前に、何度河野と言い合いをしただろう。僕はどうしても、それを殺すことが出来なくて。僕と河野が言葉を尽くしている間に、虫は息を引き取っていって。
「君が信じて見守っていたとして、再び羽ばたけるようになった虫はいたかい?生殖活動を行えた虫が一匹だっていた?」
「――河野」
「みんなみんな、最後は苦しんで死んでいった。違うかい?」
そう言って河野は、画面に目をやる。
「このまま幸芽が、再び笑う日なんて来るはずがないんだよ」
だから、と彼は言う。
「手伝ってよ。葬儀を。終わらせてあげたいんだ。どうしても」
僕は、彼をじっと見る。出来ないよ、と小さく呟いて。




