第一章 再会
その日、僕は彼と再会をした。――とはいえ、彼は壇上にいたので、一方的な再会になったわけなのだが。
つまりどういうことかと言うと、その日は中学校の入学式で。彼は、新入生代表挨拶という名目で、壇上にいた。僕は、新入生一同の欠片として広い体育館にずらりと並ぶ椅子の一つに腰をかけていた、というわけだ。
「…そして、この青峰大学中等部に入れたことを、誇りに思い…」
彼の挨拶は淀みなく。高すぎず低すぎず、滑舌の良い心地よい声。そして、恐ろしいほど整ったその顔は最低限の動きしかしなかった。無意味に視線を泳がせたり、頬を震わせたりなどしない。作り物のような動きをしている。その完璧な姿のせいなのだろうか。列席者の間でため息や囁き声が漏れた。
「――であることを誓います。新入生代表、河野幸実」
僕はただ、ずらりと並んだ男子中学生の、一部分になって、壇上の彼をパイプ椅子の上で見つめていた。おろしたての制服の下で、鳥肌が立つのを感じながら。
やがて式は進み、新入生の名が呼ばれる。
一年A組出席番号一番。
「麻木佑」
はい、と言って僕は立ち上がった。彼が僕に視線を寄越したかどうかは、分からなかった。
次々と呼ばれて行く新入生達。徐々に立ち上がる人間の数が増えていくごとに、僕はまたただの新入生一同の欠片になる。
入学式の帰り道、父さんは、ぽつりと言った。すごいなあ、と。
「あの新入生代表はなんかちょっと雰囲気違ったよな。あれって入試トップの奴がやるんだろ?」
「たぶん」
「佑もかなり点数良かったけどなあ。さらに上がいたんだな」
僕は少し笑って、そりゃあまだまだだよ、と答える。父さんは、ふ、と空を見て感慨深そうに息を吐いた。
「佑も中学生か」
「それ、もう何十回も聞いたよ」
「何十回も思ってるからなあ」
くつくつと父さんは笑い、改めて僕を見つめる。
「でっかくなったなあ」
「お陰様で」
うん、と父さんは頷いて、そして校門を振り返る。暗いブレザーに身を包んだ男子中学生達が、様々な動きをしている。写真を撮ったり、親と話したり、友人を見つけて笑い合ったり。父さんは少し笑った。
「しっかし男子校ってこう…華が無いというか…」
「しかもガリ勉的な奴らばっかりだしね」
僕も同意する。新入生は、どこかぱっとしない野暮ったさを振りまいている。眼鏡率もそれなりに高かった。ちなみに僕は割と目が良い方だ。
僕は、ふと今気づいた、という風を装って話す。
「――そういえば、小学校の時同じクラスだったかも」
「え?」
「あの新入生代表。四年生ぐらいの時。転校してきて、半年ぐらいでまた転校しちゃった気がするけど」
「そうだったか?えーと、四年生だと…絹田先生とかだったかな?」
「うん。確かね」
「そうかあ。世の中っていうのはつくづく狭いな」
そうだね、と僕は相槌を打つ。父さんは腕時計を見て、ああ、もう昼か、と呟く。
「腹減ったな。昼、どこで食おっか」
「どこでも良いよ」
「んじゃ、あそこ行こうか。久しぶりに。小夜子さんの所。十一時半からだったよな」
ああ、と僕は頷く。漫画家である父さんの、元担当編集者。結婚だったか出産だったかを機に退職。子育てが一段落した今は街の洋食店、といった風の店で働いている。
「佑の制服見たら泣いちゃうかもな」
父さんは言って笑う。僕は苦笑して、そして小夜子さんを思い浮かべる。
僕と父さんは、血のつながり上でいけば「親子」ではない。僕らは元々、叔父と甥という関係だった。五歳の時、実の母に虐待され、捨てられた僕を、彼は救って、そして七年間子供として育ててくれた。その時に、子育てに対して何の知識もない父さんをサポートしたのが、小夜子さんだった。彼女にも当時小学生の息子と娘がいた。お下がりの服や本や玩具をくれたり、熱を出した僕を看病してくれたり、締め切り間際には僕を連れて何処かに遊びに行ってくれたり。
――たあくんは、うちの三番目の子よ。
何度も彼女はそう言って、僕の頭を撫でてくれた。
父さん、と僕は声を掛ける。駅に向かって歩いていた彼が歩みを止める。
「…ありがとう」
何に、とは言わずに言うと彼は目元を和ませた。
「俺を泣かす気か」
照れたように彼は言い、そして「こちらこそ」と言った。父さんの左手の薬指には、まだ指輪が填っている。シンプルなプラチナの線が書かれただけの、指輪。かつて彼が愛し、添い遂げると決めた人との、愛の印。
「久しぶり、アサ」
入学式の次の日、ややざわつく一年A組の教室で河野幸実にそう言われたとき、僕は、ああ、と息を漏らした。やっぱり覚えていたんだな、と思う。さわやかに微笑む彼に、僕は、うん、と頷いた。
「久しぶり。河野」
一列五人の、出席番号順の席。僕と河野は丁度隣の席になった。
自己紹介で始まり自己紹介で終わった中学校最初のHRの終わりを告げるチャイムが鳴り、教室がにわかにざわめいていた。先程零した自己紹介という名の僅かな情報を頼りに、数人の人が動き始めている。――A区なんだ。何線で来てるの?サッカー部、良ければ一緒に見学に行かない?サカイミキって知ってる?塾で一緒だったんだ。君と同じ小学校だと思うんだけど…。
「俺のこと、覚えてる?」
河野はそう問う。否定を許さないような、酷く澄んだ問い方で。僕は頷いた。
「うん。四年生の時だから…ええと、二年ぶりぐらい?」
僕の答えに、どこか満足そうに、うん、と河野も頷く。
「まさかまた会えるなんてね」
にっこりと笑った河野に、僕は曖昧に頷く。小学校三年生から四年生の間の一年弱、同じクラスに籍を置いた少年。わずかな期間だったけれど、僕たちはいつも一緒にいた。遠足のバスも、隣同士に座ったはずだった。丁度今みたいに。
「会えてよかった」
彼はそう言って、ほほ笑んだ。その言葉を合図にしたみたいに、チャイムが鳴った。それは学校内を均一に満たして、僕たちは漂うように全員、前を向く。
その日の、帰り道。地下鉄の中で僕は、スマートフォンを弄って、父さんにメールを送る。今から帰るけれど、何か買ってくもの、ある?父さんは携帯電話を使わない。家に居るときは九割方パソコンの前にいるので、大抵そこにメールを送るとすぐに返信が来る。メールはすぐに返ってきた。お疲れ。悪いんだけど、牛乳と小麦粉を頼む。了解、と更に返信をすると、僕はドアに身体をもたせかけた。牛乳と小麦粉ということはグラタンかシチューだろうか。手持ちぶさたにスマートフォンを操作しようとして、ふと僕は、彼に気づいた。あちら側も気づいたらしく、程良い乗車率の車内をこちらに向かってきた。
「久しぶりじゃん、佑」
うん、と僕は頷いて、彼――旭くんを見た。僕を三番目の子と言ってくれた小夜子さんの長男。九日生まれだから、旭と書く。(予定日の十日産まれだったら、早になっていたらしい)僕の四つ上だから、今年高校二年生。ひょろりと高い背に、それなりに整えられている髪。鼻筋の通った落ち着いた顔は、小夜子さんによく似ている。彼は偏差値中ぐらいの高校の制服に身を包み、スポーツブランドの学生鞄を携えていた。
「似合うじゃん。青峰の制服」
僕は何となく彼のくしゃりと笑った顔を見ていると、くすぐったくて、笑ってしまう。旭君は、はは、とそんな僕を見て笑った。
「お前、地下鉄で通ってるんだ。遠回りじゃね?」
「うん、でも定期代こっちの方が安かったから」
「偉いなあ」
そう言って旭君は笑う。
「…旭君は、いつも地下鉄だっけ?」
「うん。俺はこっちの方が、乗り換え少ないから」
そっか、と僕は頷く。そうだ、と旭君は言う。
「この間は、お袋ん所でメシ食ったんだって?」
「あ、うん」
「澪がそれ聞いていいなあ、って言ってたよ」
え、と僕は思わず問い返す。
澪、というのは旭君の妹だ。僕より二つ上の、中学三年生。(ちなみに彼女は三〇日生まれで、さんずいにゼロと書いて澪である。一日前の二十九日だったらニクになっていたというのは彼女の鉄板ネタである)
「私もたっくんに会いたかった、って言ってた。そのうちまた家に遊びに来いよ。制服も見て見たいって」
「…うん」
僕は澪ちゃんを思い出しながら、顔に表情が出ないように努める。
旭君はそれに気づいていないのか(或いは気づかないふりをしてくれているのか)ぼうっと電光掲示板を見ている。そして、ふ、と僕に視線をよこす。
「なんかあったら、連絡しろよ。いつでも助けに行ってやっから」
彼はそう言ってにかっと笑う。陸上部で砲丸投げをしている旭君は、がっちりとした身体をしている。幼い頃、僕や澪ちゃんがからかわれたり意地悪をされているときには、助けに来てくれた。まるで漫画の主人公のように、真っ直ぐで強い人。
「うん」
僕は頷く。
「ありがと、旭君」
「お前ほんとに可愛いよな。早く反抗期になれよ」
旭君が苦笑する。僕は笑った。
「父さんにも言われた、それ」
「男はやっぱクソジジイって言って、一発殴られてからが勝負だからさ」
旭君は冗談めかして言う。いつも穏和な、彼の父である亘さんが殴る所なんて、想像も出来ない。
「んじゃ、またな」
地下鉄は、ゆっくりとホームに滑り込む。下車していく旭君に手を振りながら、僕は澪ちゃんのことを考えていた。すらりと背が高く、小夜子さんによく似た聡明な顔をした女の子。そして、現在進行形で続く、僕の初恋の女の子のことを。
次の日曜日に、僕と父さんは小夜子さんの家に行くことにした。貰った入学祝いのお返し――内祝いというということを初めて知った――を持っていくのだ。
車で十五分ほどの烏丸家に着くと、小夜子さんが満面の笑みで出迎えてくれた。
「お待ちしてました。いらっしゃい。先生、仕事は大丈夫だったんですか?」
「うん。昨日締め切りで。亘さんは、出張でしたっけ」
「ええ、上海まで。準備から参加するみたいで。先生は行かれないんですか?タカマツ先生はサイン会をやるようですけど」
「僕は飛行機苦手なんで」
言うと小夜子さんは頷いて笑った。彼女の夫――亘さんは、編集者だ。数年前は、父さんを担当していたこともあったらしい。小夜子さんとは所謂社内恋愛だったらしい。(ちなみに亘さんは十一日生まれらしい)
玄関先には、澪ちゃんが居た。ショッキングピンクのパーカーに、紺色の膝丈スカートを履いている。僕はあまりファッションに詳しくはないけれど、それが所謂「ダサイ」格好であるとは思えなかった。ふわり、と揺れるスカートは、多分、今年の流行なのだと思う。分からないけれど、澪ちゃんが着ているものはそう思えてしまう。彼女は、僕と父さんを見ると「やっほう」と言って手を振った。
「久しぶり。たっくん」
内祝いを渡し、進められるままにソファに座ると澪ちゃんはそう言って笑う。うん、と僕は頷いて、澪ちゃんを見た。つるりとした頬に、えくぼが浮いている。父さんと小夜子さんは、仕事の話をしていた。だれそれの漫画がアニメ化した、とか。最近はハーレム系漫画が飽きられつつある、とか。
「学校どう?」
「…うーん、まだ始まったばっかりだから、よく分かんない」
ふうん、と澪ちゃんは言う。
「部活とかは何するの?後は、委員会とかは?」
「部活は、まだ決めてない。委員は、来週に決めるみたい」
僕の答えに、そうなんだあ、と言って澪ちゃんはにこにこと笑う。あんた親戚のおばさんみたい、と小夜子さんに言われて、何それえと言って笑った。ひとしきり笑って、そういえばさ、と澪ちゃんは言う。
「カワノコウミって知ってる?多分、青峰だと思うんだけど」
「――はっ?」
思わず裏返った声が出た。澪ちゃんは、首を傾げている。
「…え?何で?河野?」
「あ、知ってるんだ。青峰って聞いたからさ。同じクラスなの?」
うん、と頷くと澪ちゃんは不思議そうな顔をした。
「知らないの?カワノコウミ」
「…いや、知ってるけど…」
言うと澪ちゃんは笑う。そうじゃなくて、と言ってスマートフォンを弄る。
「ほら、カワノコウミ。知らないの?ほら、今アイスのCMに出てるじゃん」
そう言うと彼女は、正に河野幸実の写真を取り出した。昨日、僕の隣席に座っていた少年。けれど、学生服に身を包んだ彼とはまた違っていて。髪を、綺麗になでつけて、シンプルな黒いパーカーを着て、はにかむように笑っている。
「あ、そーだ。これにも出てないかな」
そう言いながら、澪ちゃんは本棚から数冊の雑誌持ってきて捲る。
「――あ、いたいた。ほら、カワノコウミ」
ぺらりと出されたそのページには、確かに知った顔が居た。カワノコウミkun、と顔の横に書かれている。そのポップな――というのだろうか、明るい雑誌は、彼のイメージとは合わない気がするのだけれど、けれどこうやって誌面になると、とてもしっくりと来ている気がする。
「時々雑誌に出てるんだよ。読者モデル、っていうのかな。結構人気でさ、ブログもずっと一位だし。今度ドラマにも出るんだって」
「――…へえ?」
僕はそのページをじいっと見つめる。彼は涼しげな目を少し細めて笑っている。彼の頭の上には吹き出しがあって、そこには「笑顔の似合う子がタイプだよ」と書かれている。改めて河野の笑顔ではなくページ全体を見る。そこには「今が旬!話題の男の子」と書かれていて。隅には、簡単なプロフィールが記されていた。――二○××年四月九日生まれ。A型。北海道出身。街でスカウトされたのをキッカケに読モ活動をスタート。好きな食べ物はチョコレート。趣味はスニーカー集め。春からXXX系ドラマ「夢色」に出演予定。
僕は思わず、それを見て息を漏らす。九日生まれ、ということはもう彼は十三歳なんだな、というどうでも良い感想しか浮かんでこない。
「…どしたの?」
は、と僕は慌てて視線をあげる。澪ちゃんが不思議そうに首を傾げてこちらを見ている。
「あ――…いや、ちょっと、びっくりして」
「そう?学校では秘密にしてるの?」
「…うーん…。どう、だろう?」
僕が首を傾げると、父さんがひょい、と雑誌をのぞき込む。
「ああ。この子、あれじゃないか。新入生代表の」
え、どれどれ、と小夜子さんも顔を近づける。
「あら、すっごい綺麗な顔の子じゃない。人気出そうねえ。――…ていうか、え?てことは、青峰の新入生代表なの?へえ…凄い。天は二物を与えるってやつね」
僕は曖昧に頷きながら、雑誌を机に置く。何かを勘違いしたのか、小夜子さんは笑顔で僕の肩を叩く。
「でも、たっくんだって負けてないぐらい格好いいからねっ。ほんと、まだ私が仕事してたら、五ページぶち抜きで特集したいぐらいだからねっ。五千字インタビューとかやっちゃうからねっ」
あはは、と父さんが笑う。澪ちゃんも吹き出すようにして笑った。僕も笑いながら、目の端では雑誌のページを捉えていた。写真の河野は、とても優しげな瞳をしていると思った。
帰宅後に、河野幸実――もとい、カワノコウミのブログを検索する気になったのは、ただ僕が暇だったからだ。父さんは少し調べ物があると言って出掛けてしまったし、合格祝いに買ってもらったゲームも春休みのうちにクリアしてしまった。図書館に行くには少し空模様が怪しかったし――と、いろいろな言い訳を並べて、僕はこちらも合格祝いに買ってもらったノートブックを立ち上げる。ブラウザのテキストボックス内に「カワノコウミ」と入力し、それを検索する。
澪ちゃんの言っていたブログは、何のことは無いシンプルなものだった。更新頻度は三日に一度ぐらい。スニーカーの写真を載せて、「この青のラインが好き」と書いてあるだけだったり、空の写真を載せて「そろそろ雨が降りそう」と書いてあるだけだったり。けれど、そんなブログにもコメントはどれも二百件以上は寄せられている。スニーカー可愛いね!とか、お洒落!とか、こっちは晴れてるよ、とか。何故人気があるのか、僕にはちっとも分からない。それでもなんとなく、手を止める気にならずに「前の日記へ」ボタンをクリックしていく。今朝食べたパン。新商品のジュース、意外と美味しい。小さいころ愛用していたミニカーを発掘した。写真は角度も雰囲気にも凝った感じは無かったし、文章も特段変わったものでもない。本当に河野が書いているブログなのかどうかも良く分からなかった。河野の指先すら、映っていないのだから。
何故か否定する気持ちの方が強くなっていくのを抑えきれず、僕はクリックを繰り返す。特に面白くもなんともない写真を見ながら、ふと僕は気づく。肋骨の隙間から洩れていく気持ちに。
(澪ちゃんは、河野のファンなんだろうか)
澪ちゃんは、どちらかと言えば華やかな方だ。クラスでも、萎縮したりはせず、自然体に話せる人。明るい色の服を着て、前髪をあげておでこを出して、休日には友達と何処かに出かけるような。しかし――という接続詞が正しいのかどうかは分からないけれど――決して彼女はミーハーな方ではない。両親の仕事柄、芸能人のサンプル写真などをもらってくることもあったけれど、別にどうこう騒いだことは無かったのではないか。
(…別に関係ないよ。たまたま僕と同じ学校だって言うだけで。だからちょっと聞いただけだよ)
うん、と誰にともなく頷くと、僕はブラウザを閉じてトランプゲームのアプリケーションを立ち上げる。べらべらべら、という効果音とともに画面を埋めつくすトランプを見ながら、深くため息をついた。
「僕の家に、寄っていかない?」
月曜日の放課後だった。帰宅準備をしている僕に、河野幸実は突然そう言った。部活動の解禁はまだ先で。入学式を含めてまだ四日しか顔を突き合わせていないクラスメイト同士、微妙な空気がまだ立ち込めている教室(何線で帰るの?良ければ一緒に駅まで行かない?なんていうお伺いの言葉がそこかしこで聞かれる)で、河野は僕を見て笑顔を見せた。
新入生代表を務めた綺麗な顔の河野は、とてもクラスでは目立つ。数人のクラスメイトが、どうしてあの組み合わせなのか、という視線をこちらによこしている。
ええと、とまごつく僕に、河野は「おいでよ」と屈託なく言った。
「そんなに遠くないから。ちょっとだけ。ね?」
うまく断る理由が思いつかないまま、僕はこくりと頷く。河野は嬉しそうに、じゃあ行こう、といったように手を引いた。まるで、幼稚園児がはしゃいで好きな子を砂場に連れて行こうとするように。その、子供じみていて、何にも頓着の無さそうな仕草に、僕は少し落ち着かなくなる。人の視線が、痛い。
靴を履き替える段になって、ようやく彼は手を放した。ブログに載っていたものではないスニーカーに足を入れながら、彼は家の場所を説明する。駅の反対側なんだけどね、と彼は言う。歩いて十分弱かな。とも。
「…え、それじゃあ河野って徒歩通学?」
僕の問いに河野は頷く。
「うん。近いから選んだんだよ」
彼はこだわりなく言うと、行こう、と歩き出す。僕はふうっと息を履くと、彼を追う。僕が二年間必死に勉強をして入った中学。塾には低学年からずっと勉強をしてきた子だって沢山いた。そこにトップクラスで入ってきた人間は、近いから、という理由で選んでいた。
(…僕は悔しいのかな)
けれど、悔しがるほど、自分が彼に近い人間だとは思えなかった。地価の高そうな所に家を持ち、整った綺麗な顔を持ち、くだらないブログにコメントを付けてくれる人が何百人もいる。どこにも自分が触れるどころか追えそうな所など、見つからない。
「アサは今何処に住んでるの?」
「変わらないよ。まだA区」
「そっか」
「河野は、今まで何処に?」
「んー…あの後はまた転々と。W県にもいたし、N県にも。三ヶ月ぐらい、アメリカの方にも行ってたりもした」
「転勤族だっけ」
「うん。まあね。でももう引っ越さないと思うよ」
「そうなの?」
「うん。父親がこの間退職したからさ。――ああ、結構年いってからの子だったんだよね」
「へえ」
そう言えば河野の両親とは会ったことがなかった。逆に、父さんと河野も会ったことが無かったなと思う。学校行事――運動会や参観日がどうだったのかは、あまり思い出せない。
微妙に距離感のある会話を続けながら、僕たちは歩く。その微妙な居心地の悪さを、僕はひしひしと感じながら。
そして、僕はもう笑うしかないのだ。駅に隣接した、大型マンションの前で、河野が足を止めるから。
「…ここが、河野の家?」
「そう。駅近だけが魅力のマンション」
だけ、と彼は言ったがしかしそこは、全体的に「魅力的なマンション」だった。黒い大理石が敷き詰められたエントランスには、警備員のような人が二人ほど立っている。広々としたロビーには応接セットが四つほど並んでいるし、小さな庭園のようなものもガラスの向こうに見えた。彼はそう言ったものに頓着しないように(或いは慣れているだけかもしれない)進むと、エレベーターに乗り込んだ。最上階である二十八階を躊躇いなく押す。
「…河野の親って何してたの?」
「ただのサラリーマンだよ。てか、アサの家も凄いんじゃないの?」
いや、と僕は答えて階数表示に目線をやる。父さんが十数年前に買ったマンションは、多分、日本の平均的な共働き夫婦であれば普通に買える程度のものだ。父さんが、ベランダから見える川沿いの風景が気に入ったという理由で購入した、下町のマンション。
「まあ、どうぞ。散らかってるけど、誰もいないから」
父親が退職したのであれば、家に居るのではないのかなと僕は思う。いないというのは、出掛けているということなんだろうか。
カードキーを扉にかざして、河野は事も無げに部屋に入る。彼に続きながら、お邪魔します、と言って中に足を踏み入れて、僕は思わず絶句した。
モダンで高級感のある外観とはほど遠い。水彩画調のカーテンは褪せたような安っぽい山吹色で、床に敷いてあるラグマットは、濃いピンク色。ソファには薄水色のワッフル地のカバーが掛けてある。その上に、染みの付いたベージュのクッションが置いてある。その前には、もう春だというのに小ぶりなこたつが置かれていた。こたつカバーは藍色の和風なものがかけられている。焦げ茶色のダイニングテーブルは、角が禿げていて、その上にはダイレクトメールや新聞、チラシなどが無造作に積まれている。部屋の隅にはゴミ袋が二つほど置いてあり、中にはコンビニ弁当の開き容器やペットボトルが分別も無しに詰め込まれている。天井にはシャンデリアが吊り下げられていて、床には大きなキャラクター縫いぐるみが、三体ほど転がっている。隣室は和室のようで、そこには衣装ケースが三つほど、引き出しを開けた状態で置いてある。そして、衣類やトイレットペーパーの買い置きなどが置かれているベビーベッドがあった。
ぼうっとしている僕に、河野はこっち、と言って奥の部屋を示した。夢を見ているような気がしながらも、僕は彼に続く。
そこはどうやら河野の部屋のようだった。河野の部屋は、六畳ほどの広さで、古くさい勉強机と、合板の本棚が二つあるだけだった。本棚には幼稚園児の絵本バッグのような乗り物柄の布が掛けられている。
「…ここが、河野の家?」
思わず再び問うと、彼は答えずに肩をすくめる。そして、少し笑みを零した。雑誌に載っていたように、綺麗な顔で。
冷えた缶ジュースを二本持ってきた河野は、一本を僕に渡し、乾杯、といって缶と缶を打ち付けた。
「本当に久しぶりだね」
「うん」
僕が頷くと、河野は笑う。
「…覚えてる?」
何を、とは言わなかった。けれど僕は再び頷く。
「覚えてるよ」
小学校三年生の時に引っ越してきた河野が、再びまた引っ越していくまでの僅かな――けれどあの時の僕たちに取ってみれば長い時間。僕たちはいつも一緒に居て。二人で、沢山の所に出掛けた。区内の地図を広げて。公園。遊歩道。堤防。入り組んだ住宅街。
僕たちはそれらの場所で、死骸を探していた。
「また、やろうよ」
河野は言う。僕は答えられないまま、彼を見返す。
「また、葬儀をしようよ」
僕たちは、死骸を(殆ど虫だった)見つけては、それらを全て土に埋めて、葬式を行っていた。毎日、毎日。
「…河野?」
「死骸が、あるんだ」
河野はそう言うと、膝を抱えるように座る。
「だから、また葬儀をしようよ」
あの頃の僕たちは、いつも一緒に居て。
沢山の話をした。
「人を殺したら罪になるんだろ」
まだ小学校三年生で、背もさほど高くなかった河野はそう言いながら、羽をもがれて死んでいるトンボを手のひらに乗せていた。
「猫とか犬は、キブツソンカイザイって聞いたんだけどさ」
「キブツソン…?」
問い返した僕に、河野は黙って頷く。彼も言葉の意味はよく分からないようだった。トンボを見つめたまま、ぽつりと呟く。
「まあ、罪って事。でも、虫を殺しても、何にもならないんだよね」
「虫を殺すためのものもいっぱい売ってるしね」
蚊やハエ、ゴキブリを殺す薬品はテレビCMでも何度も見ている。人気のあるというタレントが「コレ一本で!」なんて笑いながら虫を殺していく。
「昔の日本では、虫一匹殺しただけでも死刑だったらしいよ」
柔らかい花壇に穴を掘りながら、河野は言う。ショールイアワレミのケイだって、と。(後に歴史の授業で生類憐れみの令という言葉を僕は知ることになる。ちなみに死刑になったケースは殆ど無いとも聞いた)
「…ほんとに、死刑で良いよ」
河野はそう呟いて、羽のないトンボを、穴に落とす。上から土をかけて、彼はきつく目を閉じながら手を合掌の形にする。
「――…今から、トンボくんの葬儀を始めます。トンボくんのお父さんお母さんをはじめとする家族の皆さん、友達の皆さん、見ていて下さい」
彼はそう言って、それから深く頭を下げる。
「トンボくんの死が、幸せに変わりますように」
そう言って彼は顔を上げる。僕は彼に倣って、空を見た。
「行こっか、アサ」
河野に促されて、幼い僕は頷く。墓標も花もない、トンボの墓に一礼をして。
河野の家から自宅に戻ると、時刻は五時を回ったところだった。夕食までは後一時間ある。今日の食事当番は父さんだ。スパイスの匂いが漂ってくる。
ただいま、と玄関で言ったときと、ほぼ同時だった。不意に、廊下の向こうで固定電話の呼び出し音が響く。我が家の固定電話は、殆ど鳴らない。父さんは殆どの連絡をパソコンのメールソフトを使って行うし、僕も自分用のスマートフォンで行う。固定電話が鳴るのは、せいぜい一年に一度か二度。そして、その相手は――。
こそりと廊下の向こうの扉を開く。父さんが、リビングの電話を耳に当てていた。眉間に皺が寄っている。
「はい、麻木で――…ああ。うん。うん。元気だけど…。うん。いや。うん。でも…。――分かったよ。うん。…分かった」
僕は目を伏せる。父さんの電話の相手は、多分父さんの母。つまりは、僕の実母の母でもあり、僕から見れば戸籍上でも血縁上でも、祖母にあたる。父さんと実母を、産んで育てた人。
「…明後日までね。うん。口座はいつもの?――…うん」
時折彼女は、金の無心に父さんに電話をかける。父さんの稼ぎから見ると微々たる額(多分)だけれど、それだって塵も積もれば、というやつで。たぶん、今までに田舎の新築マンションぐらいは買えるぐらいのお金を、送金しているはずだ。
(断れば良いのに)
父さんの代表作、『暁の戦士』が爆発的に売れたとき、父さんは祖母にマンションをプレゼントしたらしい。(家に来た税理士だったかというおじさんや、小夜子さんに聞いた)バリアフリーで、受付にはコンシェルジュもいて、年を取っても安心出来るようなマンション。田舎の方なので、都心の同等のマンションの半額以下だったらしいが、それでも決して安くはなかったはずだ。未だに、管理費等のお金も全て、父さんが払っている。
「分かってる。…うん。でもちょっと、忙しいからさ。…分かってるよ。でも…うん」
祖母は、父さんと僕の実母を支配するように育てた。時に手をあげて、時に衣食住を盾にして。あまり詳しく聞いてはいないけれど、多分、虐待、という括りで表現できるんだと思う。僕が受けたものと、多分酷似している筈だ。
そして父さんは未だに、祖母の呪縛から逃れられていない。
「――分かった。うん。大丈夫。お金はきちんとするから。うん」
じゃあ、と言って父さんは受話器を置く。そして、立ちすくむ僕に気づいて、困ったように笑った。
「――…大丈夫だよ」
何が、とも言わずに彼は言う。それに、僅かな苛立ちを覚えて、僕は思わず言葉を零す。
「…何が?」
父さんは驚いたような顔をした。今まで僕がこんな風に問い返したことなど、無かったからだ。僕はいつだって、うん、と頷いていた。父さんが大丈夫と言えば、大丈夫。心配するなと言われたら、心配しない。それは特に取り決めでもそういう教育を受けたからと言うわけでもない。でも、自然と僕はいつだって頷いていた。それは父さんのことが好きだったからでもあるし、口答えをするという選択肢を持っていなかっただけの事かもしれない。
「何が大丈夫なの?」
再び問うと、父さんは目をそらした。ねえ父さん、僕は心の中でみたび問いかける。何が大丈夫なの?
そりゃあ、ばあちゃんにいくらか送金したって、多分、僕らが食うのには困らない。それが、大丈夫ってことなの?それとも、ばあちゃんは金さえきちんと払っておけば、わざわざ家には来ない。それを、大丈夫って言っているの?僕の実母からの電話ではないから、大丈夫だよ、とでも言っているの?
僕のその、腹の中でぐるぐると回る問いかけに、父さんは分かっているといった風に頷いた。
そして彼は、目を伏せて言う。
「――全て、大丈夫だ」
「嘘だ」
思わず声が出た。父さんが、目を見開いてこちらを見る。
「全然、大丈夫じゃない。父さんが…大丈夫じゃない」
父さんの動きが、止まる。
不意に僕は、泣き出しそうになる。父さんの苦しみ。けれどそれは。地球というひとつの星の中では、とてもちっぽけで。そして、期限付きで。つまりは、死んでしまえば終わると言うこと。それが何故だか、唐突に思い浮かんだのだ。葬儀のことを、思い出したからなのだろうか。人の苦しみというものが、とても無意味でつまらない物に一瞬思える。
ぴろりん、という場違いな明るい音が、父さんの仕事部屋から響いてきた。
「――父さん、メール」
父さんは静かに頷き、仕事場の方へと向かう。そして、入る前、こちらに背を向けたまま言った。
「ごめんな、佑」
どうして父さんは謝るんだろう。悪いことなど、一度だってしていないのに。
僕は彼の後ろ姿が消えたその扉を見て、そして目を伏せる。僕の背には、沢山の痕がある。形状も温度も、様々な物が、時にたたき付けられて、時に押しつけられて、残していった痕が。鏡越しでなければ、見えないけれど、その痛みは時折僕に覚えていろというように蘇る。泣くほどはもう痛くなく、けれど、無視できるほど優しくなく。僕のその背についた傷は、実母がつけたものだ。そして、その実母に手をあげさせたのは、たぶん祖母のかけた呪いで。実母という中間地点を経由して、祖母がつけたものだと僕は思う。実母も、たぶん、苦しかったのだ。たぶん。勝手な、思い込みだけれど。
急に背筋が寒くなった気がして、僕は台所に行く。水を煽るように飲み干して、息を吐く。鍋からは、いいにおいが漂ってくる。料理上手な父さんの、カレーの匂い。祖母の作るカレーと同じ、匂い。同じメーカーのルーを使って作る、カレーライス。




