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君と僕  作者: コトヤトコ
1/7

八年前

 春は、色んなものが揺らめく季節だ。

 立っている地面だったり、着ているものだったり、そんなものが少し変わって。中身までもがそれに会わせて伸び縮みをして。

 穏やかなのに、どこか不安な気持ちになる、そんな季節で。

 温い風が、開け放したベランダから室内に侵入してくる。

 烏丸亘は、その部屋でぽかんとその少年を見つめる。まだ、三、四歳だろうか。少し痩せていて、顔色もあまり良くはない。その幼い子どもは、部屋の隅で背中を丸めて図鑑を見つめていた。

 かたん、と隣室からの物音がして、慌てて亘は「原稿を取りに来た編集者」の顔を作る。

「先生、お疲れ様でした」

 深々と頭を下げて、ゆっくりとあげる。そこには、一人の男がいた。男は、あまり抑揚のない声で――徹夜明けなので、愛想を良くしろと言う方が無理なのだけれど――小さく頷きながら言葉を零す。

「いえ…お待たせしてすいません」

 無精髭に、ぼさぼさの髪。長身の細身の男。彼の名を、麻木仁(あさぎじん)という。大ヒットのファンタジー漫画『暁の戦士』の作者。かつてアシスタントでひしめき合っていた仕事部屋は、今はしんとしている。パソコンの起動音が、僅かにそこから漏れている。

「えっと、じゃあ、これ…今月分の原稿です。一応印刷したものと、データと」

 そう言って彼は紙の束とUSBメモリを亘に渡す。

 亘はざっと中身を確認すると、確かに、と言う。

「頂きました。三十八枚ですね。どうもお疲れ様でした」

 亘はそう言うと、ちら、と再び先程の少年に目線を送る。彼は恐ろしいほど静かに、先程と変わりのない姿勢を続けていた。唯一変わっているのは、彼の手元にある図鑑のページだけだ。先程は肉食恐竜の絵が描かれていたが、今は草食恐竜がページを彩っている。あの鎧竜は何という名前だっただろうか。

「…で…ええと、こちら、は」

 彼の担当編集者になって三年。その前の友人、或いは知人としての期間を加えると大凡十年、彼とは関わっていることになる。子供がいるという事実を知らなかった、というのはあまりに無理がある。親戚の子か、近所の子を預かっているというのが恐らく一番あり得る答えだ。

 ああ、と仁は事も無げに頷く。

「姉の、産んだ子です」

 ははあ、と亘は頷いた。そう言われてみれば、目元がやや仁に似て無くもない。

「甥っ子さんなんですね。お姉さん、お出かけですか?子守を?」

「いえ」

 仁はきっぱりと言って、そして笑んだ。少年はぴくりとも動かない。

「俺の子にするんです。俺が、父親になるんです」



「…どういうこと?」

 妻、烏丸小夜子は眉根を寄せて亘に問うた。

 夜の十時である。二人の子供は、もう眠ってしまっている。亘と小夜子は、静かなダイニングに向かい合っていた。小夜子はもう既にパジャマに身を包んでいて。

「甥っ子君を、引き取るっていうことなの?でも何で?その…お姉さんに不幸があったっていうこと?まさか、誘拐してきた訳じゃ無いわよね?」

 矢継ぎ早に問う小夜子に苦笑して、亘は夕食である蟹雑炊を啜りながら首を横に振った。

「どっちも違うと思うよ。まあ、あんまり詳しく先生は話してはくれなかったんだけど」

 亘はそう言って、かつての麻木仁の敏腕担当編集(自称)の小夜子を見る。長男の旭を妊娠して会社を辞める時には、「会社には未練は無いけれど、先生の担当という職にだけは未練がある」と一度だけぽつりと呟いた。彼が高校生の時に投稿してきた漫画原稿に一目惚れをしたと小夜子は言い、デビューまでの一年間、彼にみっちりと漫画の基礎を叩き込んだという逸話はとても有名だ。デビュー後、二年をかけて彼の初連載作品『暁の戦士』を世に送り出し、一時社会現象の一歩手前までのブームを巻き起こした。五年前に最終回を迎えた今でも人気は衰えず、先日発売されたゲームもヒットしていると聞いている。現在麻木仁は、偶然のはずだ妻の仕事を引き継ぐ形になった亘と、『暁の戦士』の外伝的漫画『鵺の戦士』を短期連載中である。

 小夜子は、当時の何かをまだ引きずっているのだろうか。退職して、家庭に入ってからも年賀状のやりとりどころか、メールや電話も欠かさない。「担当」という職からずれても、ずっと彼を気にかけている。

(まあ、色々あったから気になるのも分かるんだけどな)

 先生とオレ、どっちが大切?と聞くほど亘は子供では無いし、空気が読めないわけでもない。小夜子の中には、確固たる何かがある。それは、週刊漫画雑誌の掲げるスローガン――優しい正義――に殆ど同じもので。より弱きものへ。より不幸なものへ。そんな小さな対象に愛を注ぐ、仁の漫画の主人公にも似ている気がする。正しいものを愛し、歪んだものに間違っていると大声で叫ぶ。

 ところでさ、と小夜子は言う。

「その子って、幾つ位なの?もう大きいの?」

「いや――…五歳って言ってた」

 五歳、と小夜子は息を吐く。旭の幼い頃を思い出したのかもしれない。一番大変な時期じゃない、と彼女は呟いた。

「どうにかなるのかしら。子供にするって事は養子にするってことなのかしら?それとも里子?あ、でもまずは保育園を探さなくちゃよね。その子、どんな感じ?しっかりしている感じなの?やんちゃ系?」

 いや、と亘は少し言葉を濁す。どう言えば良いだろうか、と少し思案する。

「ちらっと見ただけだから何とも言えないけど…。五歳っていうわりには…うーん、ちょっと、微妙な感じかな。身体も、精神的にも」

「微妙ってどういうこと?障害があるとか、そういうこと?」

「…いや、うん。まあ、そういう可能性もあるけど…。ちらっと、傷跡が幾つか見えたんだよね」

 小夜子はすっぴんでも形の良い眉を更に歪ませる。

「…虐待ってこと?」

「こめかみの所に、結構深い傷跡があったし…。他にも、なんか痣みたいなのもあった。五歳にしては身体も小さくて、手足もひょろひょろな感じがしたかな」

 長男の小さな頃を思い出しながら、亘は言う。

 小夜子は、何かを噛みしめるかのように亘に問う。

「その子を、自分の子にするって?」

 亘は頷く。蟹雑炊は、まだ湯気を立てている。小夜子から目をそらして、はふはふ、と啜りながら、麻木仁の自宅にいた少年――というより、幼児といった方が相応しい男の子のことを思い出す。背中を丸めて、図鑑を見ていた。靴下はサイズがあっていないようで、踵が少しだけはみ出て見えた。

「…お姉さんか」

 ぽつりと小夜子は言葉を零す。

「そう言えばいるって、聞いてたわ。思い出した。一つ上、とか言ってたわ。年子だったから、親は大変だったらしい、とかって言ってた気がする。子供がいるとか、そういうのは聞いたことがなかったけど」

「そうか」

「…うん。あ、そうだ。先生の家って、なんか玩具とかって用意してた?服とかちゃんと買ってあげたのかしら」

 亘はええと、と考える。

「それらしいものは無かった気がするなあ。服も、そういえばちょっとヨレヨレしてたような…。今日はずっと図鑑を読んでたよ。恐竜の」

「それって暁の戦士(アカセン)の資料用に買った奴じゃないの?やっぱりね。先生ってホントそう言うところ気が利かないから。明日にでも私、様子見に言ってみようかなあ」

「え?」

「もうどうせ三人目も出来ないしさ。旭の使ってた玩具も服も、押し入れに沢山あるのよ」

 小夜子はそう言って立ち上がる。ああ、とか、うん、だとかの言葉を亘は口の中でもごもごと言う。

「先生、大丈夫かな」

 押し入れのある寝室の方に向かおうとした小夜子が、ぽつりと呟く。

「心配?」

 問うと小夜子は、「当たり前でしょう」と返す。

「あの人は、家族の次に大切な人なんだから」

 ああ、と亘は頷いて、雑炊を飲み干す。彼女のこの麻木仁へのベクトルの向け方には、慣れているとは言え少しやはり心が痛む。一応彼女は「家族の次に」とは言ったが、その「次」というのが、どれだけの距離が離れているのかは酷く疑問だ。どんぶりを置いて、小夜子の背を見る。少し、肉の付いた背中。

「小夜子」

 呼ぶとぴくりと彼女の肩は揺れる。

「…何、急に」

 久しぶりの「ママ」ではない呼びかけに、彼女は照れ笑いを浮かべる。

「大丈夫だよ。先生は。むしろ、あの子がいるから大丈夫になるんだ」

 小夜子は暫しぽかんとした顔をして、それから、うん、と頷いた。

「そうね。…そうよね」

 うん、と小夜子はもう一度頷く。

 かつて、麻木仁には結婚直前の恋人が居た。高校生の時からの付き合いだという、同い年の女性。彼らは『暁の戦士』の連載――七年をかけて終わりを迎えるそれが最終回を迎えたら、結婚しようという約束をしていた。

 そして、最終回の原稿をあげた当日。麻木仁が締め切りあけで眠りこけている間に、その恋人――野上茜は、車に跳ねられて死んだ。未来の夫の大好物の詰まった買い物バッグと共に、彼女は路上に倒れ込んでいた。

 それが、五年前のことだ。まだ、仁と籍を入れていなかったということ、事故に話題性(つまりは飲酒事故だったり、子供が巻き込まれたり、ひき逃げだったり、といったもの)が無かった為、情報媒体の片隅でひっそりと報道されただけで、野上茜の死は終わった。

 麻木仁は、それから五年間、年に数回、『戦士』シリーズを発表するに留まっている。時に一話完結で。或いは数ヶ月の短期連載として。

 仁は、茜が死んだ後、新たな生き物を作ることが出来なくなった。『戦士』シリーズに出てくるキャラクターは、どれも『暁の戦士』に出てくるキャラクター達だ。長編作品だったので、サブキャラも含めるとかなりの数が居てさほどマンネリはしないけれど、市場からは「そろそろ完全新作が見たい」「いつまで過去に縋り続けるのか」という声も良く聞かれる。

 そうだな、と亘は思う。

(あの子が、いい切っ掛けになってくれれば)

 漫画家、麻木仁としても、一人の婚約者を失った男としても。彼が、新たな世界に踏み出す後押しをしてくれれば。

 懐かしい、と抑えめの声で笑う小夜子の側に行く。長男の旭が、小さな頃使っていた玩具。恐竜のフィギュアに、キャラクター縫いぐるみ。ブロック。ミニカー。

 そっと小夜子の肩を抱く。旭を産んだ二年後に、長女である澪を出産。そしてその後に、二度流産した妻。彼女はそれから、ずっと大好きだった酒と珈琲を絶っている。真夏でも、靴下を重ね履きして、腹巻きを欠かさない。何処かで子供が生まれたという知らせを聞く度に、曇った笑顔を頬に浮かべる彼女に、何度亘は心の中で言っただろう。――いいじゃないか。うちにはもう、二人も子供がいるじゃないか。

 思えば、小夜子が三人目をせがみ始めたのは、野上茜が死んだ後だったように思う。それまでは二人の育児が大変だと泣いていたのに。いや、と思う。丁度その時期は澪が二歳。乳離れをした時期なだけである。それ以外に、理由など無いはずで。

 いつか、口を突きそうな言葉は、先程の言葉と共に亘の胸で沈んでいる。

――お前は、先生のために茜さんの生まれ変わりを産みたいと思っている訳じゃ無いだろうな?

(…馬鹿馬鹿しい)

 野上茜とも麻木仁とも、血縁関係のない小夜子が産んだ子供が、どうして生まれ変わりなどになるものか。

 そしてふと、亘は思いつく。

(――…あの子、五歳って言ってたな)

 野上茜が事故死したのは、五年前。誕生日がいつかは知らないけれど、丁度入れ違いのようにこの世の中に生きて居たのだとしたら。

 いやいや、と亘は頭を振る。

(俺は一体、五歳の子に何を期待してるんだ)

 それよりも、彼を救う方が先なのにな、と当たり前のことを思う。まだ赤い傷跡が、よれた服の隙間から見えた。ガタガタの爪。暗い瞳。けれども。

(あの子は多分、大丈夫だ)

 去り際、仁と二人で見送ってくれた男の子。ドアが閉まる直前、ふと見ると仁は柔らかな笑みを、その子に送っていた。男の子は少し困ったような顔で、でも、僅かに頬に安堵のぬくもりを浮かべていたように、亘には見えた。

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