第六話
「じゃあ、番を見つけたら是非血を売りに来てね」
村の入口でさっさと別れる。
ソラはひらひらと手を振ったが、ルイシュは心底嫌そうな顔を向けただけだった。
ソラもルイシュが背を向けた段階でさっさと踵を返す。日が暮れるには早いが、荷物をおいていた宿に戻る。
「女将さん、今戻りました」
「あら、おかえりなさいー。戻ったのね。今日は泊まってくの?」
よくある2階建ての小さな宿で、1階は食堂になっている。
一番奥が台所となっていて、その隣の衝立の中で湯浴みをすることができるつくりだ。
「はい。荷物預かってもらってありがとうございました」
「いいのよー。鍵、これね。2Fの一番奥の部屋よ。荷物はこれ。お湯いるかい?」
「ありがとうございます、お湯もいただきたいです」
預けていた荷物を回収して渡された鍵の部屋に向かう。
荷物を部屋において鍵を閉めると、着替えを抱えて台所に向かう。
「お湯ください」
「おや、今使うのかい? はいよ、これね」
木桶にお湯を汲んでもらい、衝立の奥に向かうと、水を足してぬるま湯を作る。手桶で体を流すと、やっと一息ついた気がした。
胸に描いた気配消しの魔法陣が、お湯でわずかに薄れる。
「やっと取れる…‥」
石鹸を泡立てて、体を洗っていく。
いくら気温が高いとはいえ、水浴びだけの生活では思ったように汚れが落ちていなかったようだ。泡を継ぎ足し継ぎ足ししつつ、胸に描いていた魔法陣をしっかりと落とす。気配消しの魔法陣が消えたことで、自分の周りに魔力が纏わりついているのが確認できる。
続いて髪を洗っていると、何やら外が騒がしくなった。
まだ店が混み合うような時間ではない。不審には思いつつもそこまで気にすることでもないだろう。そう判断して湯浴みを継続すると、衝立の向こうで明らかに慌てた声がした。
「ちょ、今お客さんが使ってっ!」
とすん、と軽い音を立てて衝立が倒れる。
「へ?」
その向こうから顔を出したのはルイシュだ。上記した頬に、蕩けたような瞳。明らかに様子がおかしい。
「え、どうしたの?」
「あんたが…‥いや、ソラ」
ルイシュは幸せそうに笑った。その笑顔に背筋が寒くなるものを感じる。
この笑顔は見たことがある。あの夜、竜人が番に向けていたものだ。
ぞわりと鳥肌がたった。
「悪い、出てきたら話がある。外で待ってる」
衝立が戻されて、ルイシュの非常識な行動に女将が抗議の声を上げている。それに対して言葉少なに謝るルイシュの声がする。
だがソラにとっては湯浴みの最中に踏み込まれたことなど、もはやどうでもいい。
いつもより丁寧に髪を洗いながら今後の対応を思案する。
何故踏み込まれたのか。間違いなく気配消しの魔法陣のせいだ。
そうでなければ初めて出会ったあの瞬間に番だと認識されたに違いない。そもそも番にみなされないだろうと判断して魔法陣を描いてきたのだ。
だが今後もずっと魔法陣を体に描き続けるのは難しい。これをつけたままでは魔法が使えなくて仕事にならない。魔力は常に一番近い魔法陣を流れる。体表面に気配消しの魔法陣を描いている間は、それ以外に魔力を流すのは困難だ。
手持ちの武器を確認する。
作りかけの薬が一つ。これが鍵だ。材料が一つ足りていないが、入手できる見込みがある。理論は確立しているし、機材の見込みも立っている。
うまくいけば、ソラは番でなくなるだろう。
その他に、必要そうなもの。竜でも眠る睡眠薬。女将に握らせるための袖の下。拘束用の魔法陣を封じた宝石。
いける、だろう。
手順を確認して、しっかりと体を拭いてから着替えて外に出る。宝石のついた鎖をいつものように帯代わりに巻きつける。左手で一番握りやすい位置に来る拘束の宝石を撫でる。髪は乾ききらないが、仕方ない。
「ルイシュ」
外に出て呼びかけると、ルイシュは幸せそうに微笑んだ。
「ルラでいい。ソラには、ルラって呼んでほしい」
「大丈夫かい、あんた」
女将は心配そうにソラに声を掛ける。ソラはできるだけ問題が伝わらないよう微笑んだ。万が一巻き込まれて人死が出るのは避けたい。
「えぇ。知り合いなの。今日は二人で泊まるから、ごめんなさい迷惑かけて。これ、もうひとり分」
そう伝えて、一泊分の宿泊費を追加する。女将はそれを受け取りつつ、それでも心配そうな視線でソラとルイシュを交互に見やる。
「大丈夫。騒ぎにしてごめんなさい。部屋も一緒でいいから」
ルイシュはじっと、熱を帯びた視線でソラを見つめている。もはや他の何物も目に入っていないように見える。
緊張が隠せているように。そう祈りながら、ソラはルイシュに声をかけた。
「ルラ、行きましょう。部屋はこっち」
「あぁ」
ルイシュはおとなしくソラの後ろをついてくる。
2Fの一番奥。部屋に入ると、中から内鍵を閉め、ルイシュはソラの右手を取った。
「ソラ」
「何?」
「俺の番はソラだ。なんで気づかなかったんだ? 俺の番になってほしい。里で一緒に暮らそう」
「そうね…‥」
そっと左手で宝石を握り込み、魔法を発動させる。
『拘束』
ソラの行動を予想していなかったのか、ルイシュはあっけなく出現した鎖に拘束された。
「ソラ?」
「とりあえずルイシュの血液がほしいんだけど」
ソラは強引に右手を振りほどいた。最悪ルイシュの手の腱を切って強引に外すことも考えてはいたが、意外にもあっさりと外れた。
ルイシュは寝ぼけてでもいるような焦点の合わない瞳でソラを見つめている。
ソラはそんな視線にも構わず、荷物のなかから深皿とナイフ、真新しい布と包帯を取り出す。
「同意なくこんなことはしたくないんだけど。私の身を護るためだから、ごめんね」
「ソラの身の安全なら俺が守る。これから、一生」
「身の安全なら守ってもらわなくていい。自分で守るから」
先程までソラの手を握っていた手首にナイフをあてる。切れ味が良いナイフは、軽く滑らせただけで動脈が切れて血が吹き出した。
せっかくさっき湯浴みをしたのに。そう考えながら、汚れることも気にせずソラは深皿にそれを集める。
「痛いな」
そういいながらも、ルイシュはソラから視線を外さない。
「でしょうね」
その不気味さに、ソラはできるだけその瞳を見ないように努める。
「ん。こんなもんかな」
必要量を手に入れると、布で患部を圧迫し、包帯を巻いた。
ルイシュの体に魔法陣が浮かぶ。ぎしり、と巻き付いた鎖が音を立てたが、2箇所輪が壊れるだけで終わった。
「お、すごい。この状況で鎖壊れるんだ」
「外してくれ。今あんたを狙うやつがいたら、守れない」
「そうね」
今、最も危険なのはルイシュだ。
だがそれを指摘することなく、ソラは深皿の中身を試験管に移す。少しだけ深皿に血液を残したまま、試験管の蓋を締めた。
「さて、材料は手に入ったし」
深皿を机において、試験管に入れた血液は荷物の中に入れる。
そのまま荷物から粉薬と革袋、革装丁の本を取り出した。粉薬はそのまま革袋の中に入れる。
本の3ページ目を開いて、中心に革袋を置く。魔法陣の外縁に指先を這わせて、魔力を注いだ。
『飲料水召喚』
独特の発光と共に革袋に水が満ちる。中の粉を溶かすため、ソラは軽く袋を振った。
「魔法か……?」
「そう」
とん、と扉に向かってルイシュの体を押した。全身拘束されているルイシュは、当然のようにバランスを崩して扉にぶつかり、そのまま床に倒れ込む。
ルイシュの前にひざまずいて、顔を膝に引き上げる。
「飲んで」
顎を持ち上げると、うっすら開いた唇に向けて、革袋の中身を傾けた。
ルイシュは反射的にそれを飲み込んだ。流石になにか感じたのか慌てて咳き込む。
「なんだ?」
「単なる睡眠薬」
革袋の口を閉める。
そっとルイシュの頭を床におろして、サイドテーブルに戻ると、今度は本の83ページを開いた。別の血液が入った試験管と皿を取り出すと、皿の中に血液を流し入れる。その血液は最初に採取したルイシュの血液だ。
「ソラ、番になってほしい」
「そう。私も結構ルイシュのこと気に入ってたんだけどね」
「なら」
「私はついてる。同じ個体の幼体と成体の血液が手に入った」
2つの皿を魔法陣の上に乗せて、魔力を流す。
『差分分離』
前の血液と、今手に入れた血液の分離された成分を別の皿に乗せる。
「机小さくてやりづらいなぁ。どうせなら家でゆっくりしたかったんだけど」
「何をするつもりだ?」
「今から薬の実験台になってもらう」
分離された液体に、荷物の中から取り出した別の薬を入れて、反応を見る。
透明だったそれはピンク色に染まっていく。
「やっぱり」
想定していたとおり、体内で生成される麻薬物質が反応している。念のためこの検査薬を持ってきておいて良かった。
「ソ……ラ……」
穏やかな呼吸音が聞こえて来て、ソラは深く息を着いた。
この上なく順調にうまくいったようだ。同一個体の幼体と成体、両方の血液を入手し、期せずして初めて作る実験台も確保できた。
唯一の誤算は自分を番だとルイシュが認識したことだ。
本の10ページを開く。汚れた皿を全部重ねて魔法陣に魔力を注ぐ。
『洗浄』
きれいになった皿の一枚に、前に取ったルイシュの血液と、いくつかの薬の粉末を混ぜ合わせる。
これで、麻薬物質は分泌されたままだが、それを感じ取ることはできなくなるはずだ。理論上、番を前に発生するであろう多幸感は感じ取れなくなる。
幸福になれないなら、番を求めることはないだろう。
練り合わせて固めると、先程の睡眠薬を溶かした革袋を手にとった。
「ごめんね、別に私が番じゃなければ放っておいたんだけど」
すっかり眠っているのだろう、弛緩したルイシュの体を支えると、今しがた練り上げた薬を革袋の睡眠薬で流し込んだ。
鼻をつまむと、ルイシュの喉仏が上下する。口を開けさせて飲み込んだのを確認した後、ソラは鎖に触れて拘束を解いた。
もしかしたら睡眠薬や、薬の副作用で死ぬかもしれない。だがそれは自分の自由と天秤にかけるほどの価値があるだろうか。
「さて」
わずかに痛む胸を無視して、汚れた服を着替える。使った荷物を片付けて、すべて抱えて部屋を出る。
階下に降りると、食堂はすっかり賑わっていた。食事もまだではあったが、さして空腹というわけでもない。
「女将さん、私急遽出発しなきゃいけなくなったの」
「あれ、お連れさんは?」
「彼は泊まるわ。1ヶ月位滞在するはずだから、先に料金払っておいていい?」
「もちろんいいけどねぇ」
流石に不審に思ったのか、胡散臭そうな女将に1ヶ月分より多めの金子を支払う。
「じゃあ、また」
「あいよ」
ソラはそのまま外に出た。夜風すらもソラの住んでいた場所よりは暑い。ひどく寒さを感じていたが、これなら時期に体温も戻るだろう。
「竜人の番なんて、そんなもの、なりたいわけないのに」
重いため息を付くと、ソラは村の入口に向かって歩き出す。腰につけた鎖がしゃらりしゃらりと軽い音を立てた。