トラックを降りて
トラックが泣いている。道路も泣いている。ついでにお日さままで泣いている。上には大きな字で、「やめろ、過積載!」と書いてあるらしい。小学生の字らしく、よく読めない。
このポスターを見たのは、静岡のサービスエリアにおいてであった。
「小学生が過積載なんてことばを知っとるんだろうかね」
長々とおこなわれてきたこういった不正は、うちの会社が生きていくために仕方なかったなどとは思わない。だが、一従業員の立場ではどうしようも無かったことを非難されてみると、小骨が喉につっかえたような苛立ちを覚える。
検査も厳しくなってきたためか、最近は会社でも過積載は無くなっているようだ。だが、ある年から会社のそこかしこに遵法意識の高いポスターが増えていったのには、妙な気持ち悪さを感じたし、俺たちの生きた若いころを否定されているような気分にもなった。会社にだけは、そんなことは言わせたくねえ。
ふと、辞めた同期のことを思い出す。同期の広崎が、20年務めたこの会社を辞めてから2ヶ月になる。子どもが小学校に上がったのを機に、実家の近くに暮らすことにしたらしい。
やつも、何かに嫌気が差したのだろうか。
気分が上がらなかったが、俺はまたトラックに乗り込んだ。
梅雨の晴れ間の深夜は、エンジン音がよく聞こえた。
同じ形をした電灯が次々と後ろに流れる。何千回と走った道だが、夜、前も後ろも車が居なくなり、看板も何も無い単調な直線を進んでいると、自分がどこでもない道をひたすら走っているような気分になることがある。
東名高速はこの20年でずいぶん小ぎれいになった。車線が増えた道も少なくないし、アスファルトも平らになった。土木技術が進んだからなのか。案外、過積載が減ったからなのかもしれない。快適なドライブができるというわけだ。
道は、少しずつ変わってきたのに対し、この単調さだけは変わらない。むしろ、静かなぶん、緊張が減って更にけだるくなったかもしれない。
20年前。
あのころは景気がよく、走れば走るだけ儲かった。
俺と広崎も、休み無く走った。金が欲しかったというより、暇だったのだ。
だが、30近くになってから、俺は疲れを感じるようになった。働きすぎで、体がおかしくなってしまったらしい。会社の仕事も減った。
その頃も暇なのは変わらなかったが、家に居るようになった。家に帰っても何をするわけでもなく、缶ビールを空けるぐらいのものだったが、
結局、若さがものを言う仕事だったんだなと今になって感じる。俺は、何かを積み重ねてきたわけではない。
広崎のほうも、同じような歳の取り方をした。ただ、やつはあるとき、結婚した。
俺よりは少しだけまじめに金を貯めていた広崎は、いつの間にか女を見つけていたらしい。
嫁さんは結婚式の時に見たきりだ。静かでか弱そうな人だった。広崎は今もその時もデブだが、嫁さんは対照的だったのを記憶している。ある意味お似合いかもしれないと思ったと同時に、誰もが結婚するのだなとしみじみ感じた。
しかし、結局俺の方は今に至るまで結ばれなかったわけだ。
東名から名神を経由して神戸の営業所に至り、俺は今回も無事に仕事を終えた。休みだ。
神戸の小料理居酒屋で広崎と会うことになっている。
居酒屋には子どもを連れてきていた。思うところがあったのだろうか。
訊くと、転職はうまくいったらしい。辞めた訳を問うと、
「嫁さんが、もっと子どもと居てくれって言ってきたんだよ。転職がうまくいくかどうかだけが不安だったけど、それも知り合いのつてでなんとかなったから良かった。給料は少し減ったが、体力的にはずいぶん楽になった」
という。
「そうかい。どんな仕事なんだ」
「大した仕事じゃないさ。誰でもできる仕事だ」
「こっちだって、大した仕事じゃない。お前もそう思っていただろう」
「それは、そうだったな。そういう意味では、あまり変わってはいないかもな。なんとなく生きている」
仕事の内容についてはあまり話したくないようだった。
それから、昔話をした。子どもの前で話すには、いくらか教育的に良くない話だ。
子ども連れの広崎は、少し饒舌だった。
子どものほうは、終始静かで、行儀良くしていた。いかついオヤジを前に、話せないのも無理もない。なぜ連れてきたのか。
「一度、会わせておきたいと思ったんだ」
やはりまじめな人間である。子どもも、きっとまじめなんだろう。ふと、サービスエリアで見たポスターを思い出した。
つまらない大人と会っておくのも、良い経験かもしれない。
広崎と別れた。
こんな仕事を続けてきて、疲れたのは間違いない。褒められもせず、ただ走る仕事を。
その中で、広崎は家族に居場所を求めて会社を辞めた。俺は、辞めなかった。今後も、徐々に小さくなっていく居場所で、それでも生き抜いていくに違いない。広崎と俺の間に、大した違いは無かったのだと感じる。