67:天使と悪魔
部屋に入るなり、エルトリアはレインにお礼を言った。
「レイ君、同じ部屋に泊まってくれてありがとうございます」
「いえ、お礼を言うのは僕の方です。エルトリア様」
「レイ君。恋人のことを『エルトリア様』と呼ぶなんて、他人行儀です」
個室に入ったのだから、もう恋人設定は必要ないのではと思ったレインだったが、エルトリアの『お遊び』に付き合うことにした。
昼間と同様に心の中で『エルは王女様じゃない、エルはただの女の子、普通の女の子』と言い聞かせる。
「そうだね、ごめんエル」
レインがそう言うと、エルトリアは嬉しそうに微笑んだ。
その後、レインは手荷物を置き、部屋の中を見渡した。
ベッドが1つしか無い宿の部屋は、やはり狭い。
ソファーなども置かれていない。
本当にベッドしかない部屋だ。
これは床で寝るしかないだろう。
レインがそんなことを考えていると、エルトリアがこんなことを言い始めた。
「それではレイ君はベッドをお使いください。わたくしは床で寝ますから」
早速、手持ちの布を床に広げようとしている。
その上に寝るつもりのようだ。
床は絨毯も敷かれていないため、冷たくて硬い。
薄い布を一枚敷いただけの寝心地は最悪だろう。
当然レインはそれを止めようとした。
王女を床に眠らせて、自分だけベッドで眠るなんてできるはずがない。
「い、いけませんよ、エルトリア様が床で寝るなんて――。ごほん、エルがベッドで寝ないとダメだよ」
律儀に言い直しつつ、エルトリアにベッドを勧める。
しかしエルトリアも譲らない。
「いいえ、わたくしは床でも平気です。レイ君がベッドをお使いください!」
「僕が床に寝るから、エルが床に寝る必要なんてないよ」
お互い、どうしても相手にゆっくりとベッドで休んでほしい。
「レイ君が床に寝るなんていけません! レイ君がお金を払ってくださったのですから、レイ君がベッドを使うべきです!」
「ならせめて、一緒にベッドで――」
と言いかけて、レインはそっちの方が不味いと思い、言葉を止めた。
だがすでに遅い。
エルトリアの顔がぱぁっと輝いた。
「いいのですかっ!? わたくし、レイ君と一緒にベッドで寝ます! ありがとうござます!」
とても嬉しそうな表情。
今更「やっぱりダメです」とは言えないレイン。
じわじわと事態が悪化していることにレイン自身も気付いているが、どうしようもない。
◇
余談だが、レインたちが身に着けている魔術の中には、生活魔術と呼ばれるものがある。
読んで字のごとく、生活を補助するための魔術だ。
身体を清潔にしたり、火を起こしたり、食器を洗ったりなどが可能な魔術である。
それらを駆使することで、身体の内外の清潔さを保ち、お風呂やお手洗いを使わずに生活することも可能だ。
だが身体を清潔にする魔術は、それなりに難度が高い。
魔力の消費も多いので、一般人はあまり使わない。
どちらかというと野営中の兵士などが利用する魔術である。
王立学院では貴族の兵役義務に備えた教育を行うので、レインたちもそういった魔術をしっかりと学んでいるのだ。
そんなこんなでレインたちは魔術で身体を清めることができるので、入浴は控えることにした。
レインがエルトリアにどうしてもと懇願した結果である。
部屋にはお風呂が併設されているのだが、脱衣所がなかった。
しかもお風呂の扉には大きな曇りガラスが張られている。
丸見えではないが、かなり際どい。
一応、中には防水カーテンがある。
だがこんなところで入浴されたら理性がもたない。
そう考えたのだ。
エルトリアは「レイ君がそう言うなら」と快く受け入れてくれた。
それから昼間に買い込んだ食料を、夕食として食べた。
質素な食事だが仕方がない。
その後はお風呂場を脱衣所代わりにして服を着替えた。
だがレインは手荷物を減らすために寝間着を持ってきていない。
なので肌着の上から、部屋に置かれていたバスローブを羽織っただけである。
一方のエルトリアは、ちゃんと寝間着を持ってきていた。
露出の少ないネグリジェである。
ワンピースのような寝間着だ。
布が透けているということもない、とてもお淑やかな寝間着だ。
「どうでしょうか、レイ君?」
くるっと回るエルトリア。
とても可愛らしい。
まるで天使様のようだ。
レインは心の中でまた『エルは普通の女の子』と自分に言い聞かせて、言葉をかけた。
「とっても似合ってるよ、エル」
自然な褒め言葉だ。
エルトリアも嬉しそうに笑った。
エルトリアの寝間着を見たレインは、秘かに安堵していた。
もしエルトリアの寝間着が、オーファのキャミソールやイヴセンティアの卑猥なメイド服みたいなものだったらと不安だったのだ。
もしそうだったなら、一晩の間、理性を保つことは難しかっただろう。
常識的な寝間着に一安心である。
着替えを終えたエルトリアは、次に手荷物をごそごそと漁りだした。
「よいしょっ」と取り出したのは小さな手鏡だ。
どうやら今からスキル鑑定の訓練をするようだ。
夜、寝る前に訓練をするのが日課らしい。
エルトリアは遠距離鑑定の練習をするらしく、部屋の隅に鏡を置くと、自分は少し遠ざかった。
そして瞳に魔力を集中し、スキル鑑定の魔術を発動させていく。
もう昔のように、勝手にスキル鑑定が発動してしまうことはないようだ。
完全に制御できている。
流石、若くして鑑定士の資格を得ただけのことはある。
レインは旅先でも欠かさずに努力するエルトリアの姿に尊敬の眼差しを向けた。
エルトリアはただ美しいだけの王女様ではない。
勤勉で努力家で優しく賢い。
そんなとても素晴らしい王女様だ。
レインに見られて少し照れていたエルトリアだったが、鏡に映った自身のスキル紋を見て首を傾げた。
「ん? あれ? んんん?」
鏡に近付いていくエルトリア。
そして鏡を手に取り、映った自分の瞳をじぃっと覗き込む。
しばらくしてから、エルトリアはゆらりと顔を上げ、抑揚のない声でレインに問いかけた。
「レイ君……、イヴセンティアさんと、キス、しましたか?」
感情の読めない表情。
さっきまでの楽しそうな雰囲気は微塵も感じられない。
「え?」
と固まるレイン。
イヴセンティアとキスをした心当たりなんてない。
だがエルトリアは確信したように言う。
「……イヴセンティアさんと同じスキル紋が見えます」
『スキル共有』が発動している。
つまりキスしたはずだ。
そんなエルトリアの言葉に、レイン本人が一番驚いた。
「ええっ!?」
と驚愕の声を上げてしまうのも仕方がない。
「レイ君、昨日の夜はイヴセンティアさんと一緒にいたのですか?」
エルトリアは昨晩もスキル鑑定の訓練を行った。
そのときにはイヴセンティアのスキル紋は見えなかった。
ということは、レインとイヴセンティアがキスしたのは昨日の深夜から今日の明け方にかけてのはず。
つまり2人は夜中に一緒にいたということだ。
レインはイヴセンティアと一緒にいたことくらいなら隠す必要はないと思って、正直に答えた。
「確かに昨日の夜は、イヴ先輩と一緒にいまし――、いたよ」
まだ恋人設定を続けるべきなのか、敬語に戻ってもいいのかわからない。
だがここで敬語に戻ってしまうと、まるで心にやましいことあるみたいな気がする。
そう考えて、レインは恋人設定を続けることにした。
エルトリアに見つめられると、なぜかはわからないが、なんとなく悪事がバレたような気分になり落ち着かない。
でも心にやましいことはない、……はず。
「レイ君、イヴセンティアさんとは何をしていたのですか?」
卑猥なメイド服を着たイヴセンティアのお尻を叩いていた。
これは物凄くやましいことのような気がする。
というかやましい。
一応あれはただの『ごっこ遊び』だ。
変な意味はない。
だが正直に言えるわけがない。
「せ、先輩には、東門の近くで泊まるところを紹介してもらっただけ、だよ?」
レインは思わず誤魔化しの言葉を吐いた。
エルトリアは直感で思った。
絶対に嘘だ! と。
でもだからといって、レインが言いたくないことを無理やり聞き出すことは憚られる。
2人で何をしていたのか聞き出したい。
だがやはりできない。
我慢だ。
「……そうなのですか、良い宿でしたか?」
「う、うん」
レインは目が泳いで、大量の冷汗をかいている。
どう見ても挙動不審だ。
端的にいって、レインはこの手の嘘や誤魔化しが下手なのである。
しかしエルトリアはそれを追及したりはしなかった。
「それは良かったですね。ところでレイ君は、イヴセンティアさんのスキルはご存知ですか?」
「え? うん、一度、聞いたことがあるよ」
レインは突然変わった話題に驚きつつ、イヴセンティアのスキルについて思い出した。
『運動能力上昇』
『破壊力上昇』
『衝撃上昇』
『聴覚強化』
『平衡感覚強化』
『老化防止』
この6つだと聞いたことがある。
6つの内、3つのスキルが攻撃能力を上げることに繋がっている、超攻撃型のスキル構成だ。
『老化防止』はセシリアが持っているものほどの効果はないようだが、若さを保つのにかなり有効らしい。
これらのスキルが『スキル共有』されたということだろうか。
確かに王都いるときから、身体の軽さを感じたり、耳がよく聞こえる気がすると思っていた。
胸のムカムカが取れてスッキリしたからそう感じるのだと思っていたが、違ったらしい。
でもなぜ、いつの間にイヴセンティアと『スキル共有』したのか、全然わからない。
まさかお尻を叩いたから?
いやいやそんなはずないだろう。
でも他に心当たりがない。
そんなふうに頭を悩ませるレインに、エルトリアは優しく声をかけた。
「レイ君、明日も早いですし、今日はもう休みましょう」
「そうだね、エル」
気になることは多いが、考えてもわからないだろう。
そう思ったレインは、明日に備えて早めに就寝することにした。
◇
魔力灯を小灯に切り替え、部屋を薄暗くする。
レインはバスローブを脱いで肌着姿でベッドへと入った。
そうすることが自然で、バスローブを着たままシーツに包まるのは変だろうと思ったからだ。
だがベッドに入ってから、エルトリアも一緒にいるのに肌着は不味いだろうかと考えた。
しかし一度脱いだバスローブをまた着直すのも変だろうと思い、結局そのまま寝ることにした。
レインは先ほどの混乱が抜けきっておらず、冷静な判断ができていない。
「レイ君、失礼します」
エルトリアがそう言いながらシーツを捲った。
すぅっと涼しい空気がシーツの中に入り込み、レインの肌を撫でる。
レインは妙に緊張した。
今更になって、やはり一緒に眠るのは不味いだろうという思いが強くなる。
だがレインがなにかを言う前に、エルトリアがベッドへと入ってきた。
ぎぃ――。
と、少しだけベッドが軋む。
そのままぎしぎしと音を立てながら、少しずつにじり寄ってくるエルトリア。
早まるレインの鼓動。
「エ、エルトリア様、近くありませんか?」
「レイ君、『エル』と呼んでください」
消灯しても、恋人設定は終わっていないらしい。
レインは『エルは普通の女の子』と心の中で3回唱え、聞き直した。
「エル、ちょっと近くない?」
小さなベッドだが、もう少し離れて眠ることはできるはずだ。
このままだと、もう少しで身体が触れ合ってしまいそうである。
だがエルトリアはなにも答えず、さらに距離を詰めてきた。
ふにゅ――。
と柔らかい感触。
「レイ君、昔言ってくれましたよね? わたくしとこうすることは嫌じゃないって。今でも、嫌じゃありませんか?」
少しだけ不安そうな声。
レインは、もしかしたら王都から離れて外泊することに不安を感じているのかもしれないと思った。
そんなエルトリアに、「嫌だ、離れろ」なんて言えるはずがない。
というかそもそも嫌じゃない。
むしろ嬉しい。
だからこそ困るのだが、やはり嫌ではない。
なので心の中で『エルは普通の女の子』と自分に言い聞かせてから、こう答えた。
「嫌じゃないよ、エル」
その瞬間、エルトリアはさらに激しくレインに抱き着いた。
レインの身体に腕を回し、自らの胸をむにゅっと押し当て、脚を絡める。
「レイ君……」
エルトリアは、レインとイヴセンティアがどんなキスをしたのか気になっていた。
自分が『スキル共有』をしたときは、たまたま少しだけ唇が触れ合っただけだった。
でも、もしかしたら、イヴセンティアとはもっと大胆な大人のキスをしたのだろうか。
そんなことを考えてしまう。
イヴセンティアは女のエルトリアから見ても魅力的な女性だ。
レインがキスしたいと思っても不思議じゃない。
いったいどんなキスをしたのか気になる。
激しく舌を絡め合ったりしたのだろうか。
昨晩2人がどんなキスをしたのか知りたい。
そして同じことをしてほしい。
そう思った。
「エ、エル、嫌じゃないけど、これ以上は……」
そんなレインの言葉を聞いても、エルトリアは止まらない。
もういっそのこと、レインに「キスをしてもよいですか?」と聞きたくなった。
レインなら、なんだかんだ言っても、最終的にはキスをさせてくれるかもしれない。
そんな期待をしてしまう。
でも、もし「絶対に嫌だ」と言われたらと思うと怖い。
そう考えるだけで、言い出せなくなってしまう。
だから、それらの気持ちを埋めるために、レインの身体に激しく絡みつく。
レインと触れ合っていると心が満たされる。
シーツの中でエルトリアのネグリジェの裾が捲れた。
それでもエルトリアは止まらない。
生脚をレインの脚に絡める。
レインも肌着なので、お互いの肌が直接触れ合う。
エルトリアの興奮は高まる一方だ。
「んっ……」
エルトリアの口から、身体の切なさを訴えるような小さな声が漏れた。
レインの理性がごりごりと削れていく。
レインはもう子供ではない。
オスとしての本能も立派に成長している。
その本能が語り掛けてくるのだ。
この無防備な女を犯せ。
最高の身体を味わい尽くせ。
高貴な血脈に自分の種を植え付けろ。
そんな最低な本能が、頭の中で騒ぐ。
エルトリアの身体が柔らかな感触を伝えてくる度に本能が刺激される。
すでに身体の一部はその気になってしまった。
血の巡りが早くなり、身体が熱い。
このまま本能に身を任せてしまいたくなる。
ダメだ。
理性を総動員して、本能を抑え込む。
エルトリアは王女様だ、そんなことを考えてはいけない。
情欲を向けることすら不敬。
自分とは身分が違う。
高貴な女性なのだ。
そんなふうに必死に欲望に抗うレインの脳裏に、ふと今日一日、何度も自分に言い聞かせた言葉が浮かんだ。
『エルは王女様じゃない、エルはただの女の子、普通の1人の女の子』
王女じゃない。
ただの女の子。
普通の女の子。
だったら我慢する必要なんてない。
手を出してしまっても問題ない。
だからこのまま、この可愛らしいお姫様を抑え込み、無理やり……。
ダメだ。
エルトリアが王女とか、普通の女の子とか、そんなことは関係ない。
エルトリアは自分を信用しているから、こうして同じ部屋に泊まって、同じベッドで寝てくれているのだ。
その信用を裏切ることなんてできない。
手を出しちゃダメだ。
耐えるレインの脳裏に、今度は乗車券売り場の男の言葉が浮かんだ。
『逃がしたら後悔すんぞ?』
逃がしたら後悔する。
その言葉が脳内で反響する。
オーファはもう、誰かのものになってしまった。
後悔してもしきれない。
エルトリアもいずれそうなるのだろうか。
誰かと結婚して、誰かのものになるのだろうか。
もしここで抱けば、エルトリアが自分のものになるのだろうか。
エルトリアは普通の女の子だ。
抱いてしまっても問題ない。
違う。
エルトリアは王女だ。
普通の女の子なんかじゃない。
自分とは違う高貴な女性だ。
そんな欲望を向けてはいけない。
変なことを考えるな。
満身創痍の理性に、オスの本能が猛然と吠える。
この高貴な女を犯せ。
また失って後悔するぞ。
王女といっても、普通の女だ。
躊躇うことはない。
自分だけの女にしろ。
犯せッ!
ダメだッ!
せめぎ合う本能と理性。
「ん……、レイ、くん♡」
甘く切ないエルトリアの声。
柔らかい感触、人肌の温もり。
いいから犯せと本能が唸る。
レインの中でなにかが切れた。
「エルトリアっ!」
名前を呼び捨て、シーツを跳ねのけ、覆い被さる。
両腕を抑えこみ、唇を奪おうとして、エルトリアと目が合った。
心なしか嬉しそうな表情。
抵抗のそぶりはまったくない。
そのままゆっくりと見つめ合う。
レインはエルトリアの危機感の無さに戸惑った。
きっと今から何をされるか理解していないのだろう。
だからこんなにも無邪気な表情でいられるのだ。
そんなふうに思った。
そして激しい罪悪感に襲われた。
こんなにも純真で無垢な女の子を相手に、自分はなんて酷いことを考えていたのだろうか。
無理やり抱いて自分の女にしようだなんて、どうかしている。
そもそも、そんなことで自分のものにできるはずがない。
「レイ君……」
エルトリアがうっとりとした表情で瞳を閉じた。
はっと我に返るレイン。
「あっ、エ、エルトリア様、ごめんなさい。僕、どうかしていたみたいですっ!」
そう言いながら慌てて手を離し、身体を退けた。
いろんな感情が綯交ぜになって、エルトリアの顔を見ることができない。
急いでシーツを被りなおし目を閉じる。
明日の朝も早いのだ。
早く眠らなければ。
そう自分に言い聞かせ、なんとか眠ることにだけに集中する。
その後はエルトリアがさっきほど身体を絡めてくることもなく、静かな夜だった。
この日、レインの心の片隅には、『エルトリアは王女だが、普通の女の子でもある』という認識が植えつけられたのだった。
◆あとがき
そんなわけで22話『吊り橋』あたりからレイン君の中にあった「エルトリア様は王女様であり普通の女の子ではない」という考えがちょっと変わりました。
ちなみに、今話でエルトリア様を組み敷いた(?)レイン君が急に冷静になったのは、いきなり上体を起こしたことで脳の血が下がったからです。
軽い貧血症状ですね(・ω・´)
そんなことで思春期男子の劣情が止まるのかどうかわかりませんが、他に止まる理由のつけようがないっていうorz
Q:エルトリア様の純真無垢さ(笑)に罪悪感が湧いたからでええんちゃうん?
A:純真無垢なお姫様とか余計に興奮するやろ(・ω・`)?←




