62:雨の宵
レインはギルドへ来ていた。
試験でしばらく王都から離れるということを報告に来たのだ。
雨で濡れた髪を布で拭き、ギルドの中に入る。
ギルドの中にはほとんど人がいなかった。
受付にセシリアが1人座っているだけで、冒険者は1人もいない。
ナカルドたちは依頼か訓練中なのだろう。
「セシリアさん」
「お疲れさま、レイン君」
セシリアはいつものように笑顔だ。
「お疲れさまです。あの、これを……」
レインは挨拶もそこそこに、カウンターの上に2本の鍵を置いて、セシリアに差し出した。
家の2階の鍵と、1階の合鍵だ。
しばらく留守にするので、無くさないように預けておこうと思ったのだ。
一般的にも長期間不在にするときに鍵を誰かに預けることは、別に珍しいことではない。
だがレインが長期間不在にするのは初めてのことだ。
当然、急に鍵を突き返されたセシリアは驚いた。
「え、これって……、ど、どうしてっ!?」
鍵を返すと言うことは、2階から出ていくということだと思った。
なんで突然そんなことを。
今朝も3人で楽しく朝食を食べたのに。
これからもずっと一緒に暮らしていくはずなのに。
なのにどうして。
そんなふうに取り乱すセシリアに、レインは淡々と告げた。
「……しばらく留守にするので、鍵を預かってもらってもいいですか?」
「預かる、だけ?」
レインは、別にそのまま鍵を返してしまってもいいと思った。
どうせ2階には物がほとんどないのだ。
このままあの部屋から出ていっても、それほど困らない。
それに、オーファに彼氏ができたのなら、男である自分は距離を取る必要があるのかもしれない。
だとすれば、あの部屋には住まない方がいいだろう。
ならばこのまま鍵を返してしまうべきだ。
だがしかし、「部屋に残った要らないものは捨てておいてください」というのは、あまりにも無責任だろう。
となると、今はやはり鍵を預かってもらうだけだ。
レインは、言葉短く返した。
「……はい」
「どこに行くの?」
「……言えません」
「また、戻ってきてくれるのよね?」
「……………………はい」
レインは試験が終わったら家から出ていこうという気持ちになっていた。
セシリアやオーファにあの家から追い出される前に、自分から出ていきたいと思ったのだ。
家族に家から追い出されるのは辛い。
もう掃除用具入れには住みたくない。
落ちてるパンも食べたくない。
だから追い出される前に、自分から出ていく。
そうすれば自分の心は傷つかない。
そうしたいと思った。
試験から戻ってきて、荷物をまとめたら出ていく。
今までのお礼には、毎月の仕送りでもさせてもらおう。
もうすぐ卒業だし、稼げるようになればそれくらいできるだろう。
何十年もかければ、きっと今までのお礼は返せる。
すべて返し終えたら。
それで終わり。
なんの関係もなくなる。
レインの心は、どろどろとした暗い感情に支配されていた。
「いつ、戻ってきてくれるの?」
「…………わかりません」
いつ戻ってくるのかわからない。
その言葉を聞いたセシリアは怖くなった。
もし何十年も帰って来なかったらどうしよう、と。
他の修道院へ移っていった小さな修道女が、次に会ったときには年老いていたということは何度も経験のあることだ。
別にセシリアは、レインが年を取ることを恐れているわけではない。
例え年老いていても、どんな姿であっても、大好きでいられる。
だからそれはいい。
だが数十年後に再開したとき、レインが独身とは限らない。
そのことが怖い。
すでに家族がいたら、自分とは一緒にいてくれないかもしれない。
2階にも住んでくれないかもしれない。
そんなの嫌だ。
ずっと一緒にいたいのに。
そうなったら、キスもしてくれないだろう。
『スキル共有』できなければ、自分はこの先もずっと1人きりの人生だ。
そんなの嫌だ。
今のうちにキスだけでもしてほしい。
『スキル共有』さえしておけば、いつかきっとレインは戻ってきてくれる。
ちゃんと迎えにきてくれる。
ずっと一緒にいられる。
セシリアはそう考えた。
だから言った。
「ねえ、レイン君、キスして?」
突然の言葉に、レインはわずかに目を見開き、驚いた。
確かに少し前から『お口ぺろぺろの刑』とかいう、変なことをよくしたがっていた。
だがこんなに直接的な言い方は初めてだ。
今までの行動も、キスをしたいという意思表示だったのだろうか。
その可能性は高い。
だが、いったいなぜキスを――。
その答えには、すぐに察しが付いた。
「……セシリアさんは、僕が『スキル共有』を持っているからキスしたいのですか?」
これしか考えられない。
「ええ、そうよ」
ほら、やっぱり。
暗く濁った心で、レインは思った。
やっぱり『スキル共有』だけが目的なんだ。
つまり、キスをする相手は誰でもいいに違いない。
自分を特別視してくれているわけではない。
キスするだけで大量のスキルが手に入るのだから、キスをしたがって当然だろう。
その気持ちはよくわかる。
自分もかつて、オーファのスキルが欲しくて、キスをしたいと思ったことがある。
それと同じ。
スキルしか見ていない。
自分のことは見ていない。
誰でもいいんだ。
自分である必要はない。
自分は必要ない。
『スキル共有』だけが求められている。
レインは心が冷えていくのを感じだ。
さっき雨に濡れたせいで、少し寒い。
レインはここから逃げ出したいと思った。
昔、初めてギルドに来たときは、逃げようとしてセシリアに捕まった。
同じ失敗は繰り返さない。
セシリアの手が届かない位置まで、ゆっくりと後ずさる。
本当は、セシリアが望むなら『スキル共有』するべきだとも思った。
散々お世話になってきたのだから、それくらいして然るべきだろうと思ったのだ。
でも、今は嫌だった。
「……ごめんなさい。僕、急いでますから」
冷え切った声と表情。
そんなレインの態度に、ようやくセシリアは自分の失言に気付いた。
さっきの言葉では、まるで『スキル共有』だけが目的みたいだった、と。
違う、そうじゃない。
最初にレインとキスしたいと思ったのは、『スキル共有』の話を聞く前だ。
それに、秘かにレインを想い始めたのはもっとずっと前だ。
だから、『スキル共有』だけが目的なんかじゃ、決してない。
早く誤解を解かなければ。
「レイン君、私は別に『スキル共有』だけが――」
「いいんです、気にしてません。それでは」
レインはセシリアの言葉を遮り、足早に立ち去ろうとする。
「待って! ……出かけることを、オーファちゃんには言ったの?」
「……、いいえ。それでは失礼します」
レインはそれだけ言い残すと、今度こそギルドから出ていった。
セシリアはそれを止められなかった。
オーファには言ってないのに、自分にだけ言ってもらえた。
そのことに、わずかな優越感を覚えてしまう。
自重しなければとは思うものの。
浅ましく嬉しさを感じてしまう。
やはりレインは自分のことを一番に考えてくれている。
大好きだと思ってもらえている。
自分もレインのことが大好きだ。
だからレインを信じて、帰ってくるのを待っていよう。
そう思った。
◇
オーファは2階の部屋でレインの帰りを待っていた。
一応、勝手にレインの部屋に入るのは悪いとは思った。
だがなぜか鍵がかかっていなかったので、そのままでは不用心だと思い、中に入り留守番しているのだ。
ふとタンスの裏から本がはみ出しているのが見えた。
こんなところに入り込んでしまっては、本が見つからなくてレインが困るだろう。
そう思って本を手に取った。
『お姉さんと僕~淫欲の夜~』
どう見てもフェムタイ小説だ。
まあ、こういう本を持っているのは、男の子なら普通のことだろう。
よく知らないが、たぶんそうだ。
オーファは見なかったことにして、タンスの裏に戻そうとした。
レインにも知られたくないことはあるだろう。
そう思った。
だが本を戻しかけて、手が止まった。
レインがどんな性癖を持っているのか知りたい。
レインがどんな女性に欲情するのか知りたい。
レインがどんな行為に喜ぶのか知りたい。
レインのことなら、なんでも知りたい。
そんな思いに支配された。
この本に出てくる女性は、レインの好みの女性なのだろう。
つまりそれを真似すれば、レインが好いてくれるかもしれない。
この本を見たくて仕方がない。
今のオーファは、レインに嫌われてしまったのではないかと不安を感じている。
レインに好かれるという誘惑には抗えない。
ごめんと、心の中でレインに謝り、本を開いた。
書かれているのは、少年と女性の情事。
少年はレイン、女性は……、どう考えてもセシリアだろう。
オーファはそう思った。
思い出すのは、少し前、ベッドの上で裸で絡み合っていた2人の姿。
あの時は、セシリアがレインに強引に迫ったのだと思っていた。
でもあれは、もしかしたらレインが望んだことだったのだろうか。
オーファは、もしそうでも不思議じゃないと思った。
セシリアは昔からずっと綺麗で優しい、最高の女性だ。
昔からずっと、自慢の姉だった。
男なら誰でも好きになって当たり前だ。
レインも昔からセシリアのことが大好きだった。
見ていればわかる。
でも、それは家族としての好きだと思っていた。
違ったのだろうか。
レインが一番好きな女はセシリアなのだろうか。
2人は相思相愛?
じゃあ、自分はどうなるの?
レインが一緒にいてくれないなら、生きる意味なんてない。
コンコン――。
ノックの音が聞こえた。
レインだろうか。
そう思ったオーファは、慌てて本をベッドの下に放り込んで隠し、扉へと向かった。
だがノックの主は、オーファが期待した人物ではなかった。
「オーファちゃん、いるの?」
扉の向こうから聞こえる、セシリアの声。
「……お姉、ちゃん」
オーファは子供のころからセシリアのことが大好きだった。
もちろん、大人になってからも大好きだ。
でも、今だけは会いたくない。
そんなオーファの思いは通じず、セシリアは扉を開けて中に入ってきた。
そして、しばらく言葉を選ぶように考えた後、徐に告げた。
「オーファちゃん、レイン君ね、しばらく帰って来ないんだって」
端的に告げられた言葉。
「………………え? なん、で?」
「実は、さっきレイン君がギルドに来て、それで――」
セシリアは先ほどの出来事を説明した。
だが、オーファの耳には殆ど届かない。
別のことばかりが頭に浮かぶ。
レインが帰って来ない。
誤解を解くことができない。
ずっと嫌われたままになってしまう。
レインが去っていった。
セシリアだけに別れを告げて。
自分ではなく、セシリアだけに。
やはりレインは自分ではなくセシリアを――。
オーファは力なく、セシリアの横を通り抜け、扉の外に出た。
暗い空からぽつりぽつりと落ちる雨粒。
背後から、心配そうなセシリアの声が聞こえる。
「オーファちゃん……」
なにも答える気にならない。
オーファは扉を閉めゆっくり階段をおりた。
「レイ……」
そして1人、雨にふられ、頬を濡らした。
◆あとがき
オーファちゃん可哀想(・ω・`)




