3:王立学院
数週間経った。
朝、日が昇る前に起き、道の掃除を行う。
掃除が終われば近所の公園で水を汲み、物置小屋まで運ぶ。
桶に溜めた水は、飲み水としてだけではなく、身体を拭くことにも使う。
身体を拭くのに使う布は、掃除用具入れにあった雑巾だ。
新品の雑巾がいくつかあったので、重宝した。
屋敷に暮らしていたころは、風呂があまり好きではなかった。
でも、入れなくなるとその有難さがわかった。
公衆浴場もあるが、残念なことに有料だ。
レインにはお金がない。
ちなみに、用足しは公園のお手洗いを借りている。
こちらは無料である。
公園で水を汲み、小屋に戻ったら朝食を食べる。
食事は固いパンが1個だけ。
パンはいつの間にか物置の外の地面に落ちている。
雨の日は早く回収しないと、ドロドロにふやけていて最悪だ。
朝食の後はなるべく人目に付かないように、小屋の中で隠れて過ごす。
一度、日中に道をぶらぶらしていたら、使用人の男に怒られた。
薄汚れた服の子供が屋敷の前をうろついていると外聞が悪いらしい。
そんなわけで、その日もレインは小屋の中で大人しくしていた。
身を丸めて、じっとしている。
すると屋敷から馬車が出る音が聞こえた。
誰かどこかに出かけるのだろうか、と考え、レインはあることを思い出した。
確か今日は王立学院の入学式の日だ。
ということは、さっきの馬車にはブラードが乗っていたのだろう。
レインも、本来なら学院に通えるはずだった。
その日を心待ちにしていた。
しかし、もう関係ないことだ。
そう自分に言い聞かせ、目を閉じた。
少しすると、誰かが近づいてくる足音が聞こえてきた。
「おい、出てこい」
ガンガンと小屋の扉を叩きながら、使用人の男が呼びかけてきた。
レインは怒られると嫌なので、素早く外に出る。
「これを着て王立学院へ行け」
面倒くさそうな顔をした使用人の男の手には、王立学院の制服が持たれていた。
「ぼくも学院にいけるんですか?」
レインは思わぬ行幸に、まさかという面持ちで問いかけた。
スキル鑑定の日以降、学院に通うことは完全に諦めていたのだ。
通えるなら通いたいと思う。
しかし、なぜ今更。
理由がわからない。
「ん?……あぁ、ご当主様は、1年も前に、すでに卒業までの授業料を収めてしまっていたんだよ」
つまり、既にお金を払ってしまったから、それを無駄にするのが勿体なくて学院に通わせてくれるのだろうか。
「ご当主様は、授業料を返却するように求めたが、守銭奴の学院理事共はそれに応じなかった。それならばと、お前の分の授業料をブラード坊ちゃんの授業料に当てるよう交渉を行った。が、それも無駄だったらしい」
やれやれ、と語る使用人の男。
「はあ」
王立学院は、名では『王立』と謳っているものの、何十年も前から王政とは独立した機関として運営されている。
そして、近年はその運営の方針が金に執着し過ぎているのではないか、と問題視されることが多い。
使用人の男は、それを揶揄して『守銭奴』などと言ったのだが、子供のレインには上手く伝わっていないようだった。
男は、レインの様子を気にも留めずに言葉を続けた。
「恐らく、ご当主様は無駄に金を払っただけじゃ悔しいから、無能のお前を学院に通わせて、理事共を困らせてやろうって魂胆だろう。学院側も、まさか本当にスキル無しの無能を学院に送り込んでくるとは思うまい。まったく、良い性格をしてらっしゃる」
くつくつと楽し気に笑う使用人の男。
レインは、男の言葉を半分も理解できなかった。
だが、なんにせよ、学院に通えるというのはレインにとって予期せぬ行幸だ。
さっそく渡された制服へと着替え、学院へと向かった。
◇
王立学院とは、貴族の子女が通う由緒正しき学び舎だ。
新入生の受け入れは3年毎に行い、同世代くらいの子供たちが入学する。
生徒の受け入れが3年毎である表向きの理由は、貴族の子女の人数がそこまで多くないからだとされている。
レインはきょろきょろと周りを見渡しながら、受付へと進んだ。
受付にいたのは、優しそうな雰囲気の女性だった。
とても綺麗な人だ。
恐る恐る声をかけるレイン。
「あ、あの、おはようございます」
「はい、おはようございます」
受付の女はにこやかに対応しつつも、レインのことを観察した。
黒髪で黒目の大人しそうな少年だ。
なぜか親と一緒ではなく1人。
そのことを不思議に思ったが、とにかく仕事をすることにした。
「お名前はなんていうのかな?」
「レインです」
「レイン君ね、ちょっと待ってね」
女はレインに名を聞くと名簿から名前を探した。
すぐに見つかった。
「レイン・ラザフォード君ね?」
他にレインという名の新入生はいないから間違いないだろうと思った。
だが、
「いいえ、ちがいます」
レインに違うと否定されてしまった。
どういうことだろうか。
受付の女は小首を傾げた。
「君のお名前は、レイン君よね?」
「はい、そうです」
「レイン・ラザフォード君ではないの?」
レインはこの質問にどう答えるべきか迷った。
確かに自分はレインだが、屋敷から追い出された日に『ラザフォード』の名を名乗るなと言われている。
だから、自分はレインではあるが、レイン・ラザフォードではない。
だが、どういう説明をすればいいのかわからない。
レインは少し考えてから、ゆっくりと話し始めた。
「……えーと、前まではそうでしたが、おとう……、あの、ファズアードさまにラザファードと名のるなと言って捨てられたから、いまはただのレインです」
「……っ!?」
女はレインの言葉に息をのんだ。
そして、
「ちょっと待っててね、すぐ戻るから」
レインにそう告げると、近くにいた学院の者にその場を任せ、副理事長のもとへと確認に向かった。
◇
「レイン・ラザフォードだぁ? ……あぁ、前に授業料を返せと騒ぎ立てたラザフォード家か。ちっ、本当に例の『無能』を入学させてきたのか、面倒だな」
受付の女は副理事長の言葉に目を白黒させて驚いた。
まさか、そんな反応が返ってくるとは思ってなかったのだ。
ちなみに、この女は、所謂、日雇い労働者だ。
今日だけ受付に雇われただけで、学院の関係者ではない。
「ほら、これが正しい名簿だ」
女は渡された名簿に目を向けた。
ほぼさっきまで使っていた名簿と同じだ。
違う点は一つ。
レインの名から、ラザフォードという部分が消されていた。
「さっさと持ち場に戻れ」
女はレインの扱いを遺憾に思った。
だが、何かを言い返す前に、部屋から追い出されてしまった。
◇
受付の女が仕方なく戻ってくると、レインは隅の方で大人しく待っていた。
「待たせちゃってごめんね」
女は気を取り直すように、せめて出来るだけ明るい声でレインに声をかけた。
「ううん、だいじょうです」
「名前の確認が出来たから、教室にいって入学式の時間まで待っていてね」
「はい、わかりました」
「教室はあっちの方へ歩いていけば案内の人がいるから、まずはそこへ向かってね」
女は出来れば自分でそのまま案内したいと思ったが、仕事を放り出すわけにもいかない。
「はい」
頷いくレイン。
「がんばってね!」
女は、この不憫な子供に何もしてあげられないことに、己の不甲斐なさを感じた。
だから、せめてもと思い、精一杯の気持ちをこめて応援の言葉を贈った。
「はい、ありがとうございます!」
レインは久々に優しいことを言ってもらえたことに嬉しくなって、元気よく返事をした。