戦記40.弱さ
一定のリズムで反響する靴の音。
その足取りに一切の乱れはない。
だが反面、ティシャーナの内心は大きく揺れていた。
(傷付いている。誰よりも、何よりも、この私が……)
青白い狭い通路を進む。頭の中は先ほどのことで一杯だった。
エミカが差し出した手をにべもなく拒絶した自分。あれほど余裕がなかったのは動揺していたからに他ならない。核心を突いた発言に面食らい、あの場を逃げるように後にした。
誰であろうと自分の弱さを見せてはいけない。
誰であろうと自分の弱さを知られてはいけない。
暗部に身を置く者にとってあってはならないことだ。
だが、今さら不首尾を嘆いても仕方がない。
どちらにせよ過ぎたこと。
忘れろ。
次のために切り替えるべきだ。
自らに強く、言い聞かす。
――救われない。
しかし先ほどのエミカの言葉が、未だティシャーナの耳を離れず木霊していた。
「くっ……」
唐突に、視野が揺れる。
思わず膝を突きそうになったところをなんとか壁に寄りかかり耐える。
血液をワインに変えた。この現状を引き起こした、あの聞き慣れない名の男――ユウジの言動を思い出す。
生まれて初めて今、自分は酩酊という感覚を味わっている。あの男の発言が真実ならば心臓を含め、幾つもの器官が深刻なダメージを負ったことだろう。ならば今の自分は生来の特性によって生かされているようなもの。この状態が続くことは望ましくない。今は少しでも傷口から酒の成分を抜く必要があった。
赤く染まった腹部に両手を添え、力を込めて圧す。
直後、じゃばじゃばと滝のように流れ落ちる赤黒い液体。
激痛と引き替えに些か眩暈が治まったのを感じたティシャーナは、乱れた呼吸と共に再び出口に向かって歩き出した。
「はぁ、はぁ……」
なんという体たらく。
ティシャーナにとってここまでの負傷を受けた経験は少なく、それを振り返るにはファンダイン家の子として失格の烙印を捺されていた幼少期時代まで遡る必要があった。
過去に味わった地獄の日々。脳裏を過ぎる記憶に蝕まれながら、この結果について考える。
油断があったことは認めざるを得ないだろう。そもそも不要な傷を負ってしまったこと。それが敵側の能力の条件を満たし致命的な負傷まで繋がった。どのような尺度から見ても不覚と断じる他ない。
達成条件は厳しくはあったが今回ですべてを終わらせるつもりでいた。
だが戦果は乏しく、問題は先送りとなった。
ならば想定どおり次こそが本戦となるだろう。
もう僅かな綻びも生じさせない。
ただ敵を粉砕し、殲滅する。
そのために自分は完璧でなければならない。
そのために自分は完全でなければならない。
だからこそ敵を殺す前に、まずは殺さなければ。
何よりも弱い、自分を。
「………………」
エミカの声はもう聞こえない。木霊は消え、代わりにずきずきとした痛みが今さらになって頭の奥から響いてくる。
鈍痛に耐え、やがて通路の終わりに辿り着いたティシャーナは出口に続く階段を上る。
外に出ると日は完全に暮れ、雨はほとんど降り止んでいた。
風が運んでくる僅かな雨粒。庭園の外気をゆっくりと肺に取り込み、呼吸で全身の循環を促していく。
見上げれば星々は分厚い雲に隠れ、ただ真っ暗な闇が頭上に広がっていた。花壇に設置された心許ない光石の明かりだけがか細く周囲を照らしている。
「………………」
隠し扉のある石像の傍ではゴルディロックスの遺体を抱えるアロン・ローズファリドの姿があったが、ティシャーナは一瞥するのみだった。それ以外の反応をまったく示さず無言で傍らを通り過ぎていく。
しかし直後、突如として怒号が夜を裂いた。
「――言えっ! 目的はなんだ!!」
背後からの殺気。
反射的に止まる歩み。
「地位や名誉、或いは己の保身のためか!?」
「………………」
見え透いた挑発だった。
答える義務も相手にする必要もない。
それでも、何かに当たり散らし鬱憤を晴らしたい。苛立つ気持ちがティシャーナを留まらさせた。
「目的など無論のこと……。この王国、並びに世界の安寧のため、私は――」
「平和のためなら殺戮も許されるのか!?」
「無法者たちの暴虐を許せば世界はたちまち均衡を失います。そして、その先に待っているのは地獄にも等しい混沌です。どちらがより良き世界かは考えるまでもないことでしょう」
「より良き世界だと……? 見ろっ、俺の手の中で死んでいるこの子の姿を! 結局どっちも同じだ! 殺し殺される無残な世界だっ!!」
「ならば……、あなたは――あなたたちは、どのような世界ならば満足なのですか? 善も悪も共栄できる世界など御伽噺にすら存在しないというのに」
「それでも、俺は嫌なんだっ! だってよ……こんなのっ、あんまりにも救われねぇ!!」
「っ……」
救われない。
救われない。
救われない。
再び、ティシャーナの耳元であの言葉が蘇る。
ぐわんぐわんと揺れる視界。
酩酊。
気分が、頗る悪い。
もううんざりだった。
問答を続ける気も失せ、足を踏み出す。
重心の定まらない身体。
乱れる歩行。
その背に向け矢を射るようにだった。
最後に一段と大きな声が響く。
「俺の名はアロン・ローズファリド! 俺が満足する世界は、どんな人間にもいつか救いが訪れる世界だ!!」
反応なく、さらに離れていく距離。それでも構わずだった。小さな亡骸を抱えたままアロンは決意を口にする。
「だから今日、俺はこの子の死に誓う! どれだけ没落しようと監獄に繋がれようと、俺は俺の望む世界を諦めねぇ! 絶対に諦めねぇぞっ!!」
「………………」
やはりティシャーナから言葉はなかった。
しかし無言で去り行く中、彼女の頭には鮮烈なイメージが齎されていた。
もしローズファリド家が王室との政争に勝利していたのなら、いずれこの者が王国の統治を司る存在へ――
傑物としての胆力、上に立つ者の素養。アロンの言葉には多くの人間を動かし得る強い熱意と想いが感じられた。
(確かに、可能性はあった……)
だが、ローズファリド家は敗れ、没落した。
そのような未来にはもう成り得ない。
理想と現実は違う。
それを一番理解している者であるはずなのに……なのに、この男もエミカも、自らの心のまま正しい道を行こうとする。
(なぜか?)
答えは、自由であるから。
その一点に尽きる。
自由だからこそ好きな世界を望める。
対し、自分はどうだと思案する。
己の心とは一切関係がない。
思いと判断は切り離されている。
たとえそれがどれだけ耐え難いことであろうと、必要とあらば妹らを死地に赴くよう命じなければならない。
(ああ、そうか……。だから、私は……)
無駄な問答に付き合うほど、どうして自分がこうまで意地になったのか。考えを整理したところでティシャーナは本質と呼ぶべき原因に至った。
詰まるところ、自分は羨ましくて仕方ないのだ。
ただただ、エミカたちのような――存在が。
「………………」
原因を知ろうともティシャーナにはどうすることもできなかった。
羨望からは何も生じない。それどころか光が強ければ強いほど、自分のような者は闇深く沈んでいくのみ。
エミカの手を取らなかった理由も、無意識でそれを承知していたからに他ならない。
自分を助けようとする者の想いすら拒み、跳ね除け、逃げ出す。
この様相を表すにはほんの一言で事足りた。
(救われない――)
アロンの眼光が射貫く中、すべてを悟ったティシャーナはもう何も思うことなくその場を後にした。
次話、今章の最終話となります。











