戦記31.昏倒
(――あ? なんだこりゃ)
目の前にあるのは、雨で濡れた大理石の床。
突如として起こった奇妙な現象にレオリドスは疑問を抱く他なかった。
(地面が、起き上がって来やがる)
異常な地層の隆起。
大地震。天変地異の前触れか。
否、そんなわけがない。
(あの女どこ行きやがった。俺様が襲いかかった瞬間に消え――いや、これはもしかすっと、そういうことかよ)
冷静に否定した直後、レオリドスは己が状況を遅れてやってきた痛みと共に把握した。
(生まれて初めてだぜ。これが〝昏倒〟ってやつか)
鍛え上げられた腹直筋で覆われた屈強な腹部への一撃。
拳か、はたまた蹴りか。
このダメージがどのような手段によって齎されたのかすら定かではない。攻撃を知覚できた記憶はなく、すべては刹那にも等しい間に始まり、そして終えられたことに疑いの余地はなかった。
(囚人共を殺った邪術ともまた別口。俺様が喰らったのは心底シンプルな打の一撃。やべぇな。こいつは強えーなんて言葉じゃ片付けられねぇ)
首領であるパープルさえも含めて、今まで戦った強敵・難敵・宿敵のどれとも違う。
知覚することも許さぬ速さ。
その上でただの打の一撃が必殺級の破壊力を伴う。
神話や御伽噺の世界でもこんな怪物は存在しないだろう。
対して高が一匹の獣である虎獅子。到底、敵うはずもない。両者の絶望的なまでの力の差は開幕の一撃をもって早々に示されてしまった。
もはやこれ以上の戦いに意味などない。たとえ僅かに意識が残ろうと、このまま地に伏していくのが道理。
数瞬前に攻撃を終えたティシャーナもその無力化を確信し、すでにその思考は閉ざされた城門をどう越えるかに移っていた。
(……あ? おい、女。てめぇ、何よそ見してやがる)
だが、しかしだった。
逆境の中でこそ獣に宿る闘争心は奮い立つ。
(まだだ)
まさにその巨体が倒れる寸前、勢いよく突き出される前腕。
(まだ、終わりじゃねぇ――)
昏倒を回避した直後、そのまま文字通り完全な四足獣と化したレオリドス。大理石の床を粉砕するほどの力をもって彼は四つ足で地を蹴り上げた。
「――&%#△ッ”!!」
意味を成さない叫びと共に、顎を剥き出しに繰り出される突進。その凄まじい勢いと気迫は再び接敵したティシャーナに幾らかの驚きを与えた。
「見くびっていました。思ったよりも頑丈なのですね」
しかし怪物を驚嘆させ、ダメージを与えるに至るにはすべてが不足していた。
「ならば少しだけ本気を出しましょう」
突進は軽々とティシャーナの細い片腕によって止められていた。鬣を鷲掴みにされたままレオリドスは微動だにできず。次の刹那、メイド服の裾から神速とも呼べる前蹴りが放たれ獣の巨体は一瞬で遥か後方に吹き飛んだ。
――ボフッ”!!
――ドガ”ァッッ”!!
耳を劈く衝撃と激突の爆音。
ほぼそれらが同時に鳴り響いたあと一拍遅れで城の正門がガラガラと崩れていった。
「門を越える手間が省けました」
二つの障害を同時に排除したティシャーナは悠々と城内へと踏み入る。
崩壊し散乱する瓦礫。その中を直進し、力なく仰向けに倒れたレオリドスを奥のほうで見つけると彼女は冷淡に告げた。
「実は初めから生け捕りにするには一番都合が良いと思っていました。情報通りただの力自慢であれば、私にとって一味の中で貴方以上にわかりやすい弱者はいませんので」
「…………」
すでに変身も解かれレオリドスは普通の獣人に戻っていた。無事な場所がないほど全身の骨は打ち砕かれ、体内の臓器の幾つかは破裂に至りダメージは深刻そのもの。もはや途切れかけた意識の中、怪物の言葉に耳を傾ける他なかった。
「しばらく大人しく寝ていて下さい。貴方にはあとで色々と伺いたいことが……できるかもしれませんので」
「ッ……」
このバートペシュ城にすべての敵がいなかった場合。
或いは万一においてここで敵の何人かを取り逃がしてしまった場合。
情報を得るための保険は多いに越したことはない。
虚ろながらレオリドスもその思惑をすぐに理解したが、今の彼にはもうどうすることもできなかった。
「その傷です。無理に動けば死にますのでくれぐれも安静に。では、後ほど」
最後に忠告を残すとティシャーナはなんの感慨もなくその場から離れていった。
悠々とした足取りは依然変わらず。しかしすでに彼女の視線は遥か上方、次に目指すべき場所を向いていた。