戦記30.死の帳
旧都中心部。
小雨に無数の波紋咲く、広大な人工湖。
灰色の空の下、その中央に聳えるは美しい白亜の城――
「ここから先は一人で行きます。二人は潜伏しつつ〝監視〟を」
「ようするに終わるまで誰も出すなってことね。了解」
「橋を破壊したほうが確実だろうに」
片っ端から街のクマ人形を撃滅し、敵戦力の大幅な削ぎ落としに成功した黎明の円卓の三人。彼女たちは長大な橋の入口に辿り着くと、そこで二手に別れた。
「望むべくは可能な限り無傷での奪還です」
「ふん、過大な配慮に旧都市民も歓喜し咽び泣くだろう。それが一人で鬱憤を晴らすための口実であると知られなければだがな」
「はいはい、意地悪言ってないで行くよー。あれでもF-Ⅰは本音と建前を上手く使い分けてるつもりなんだからさ」
「………………」
ジギタリスの腕を引っ張るプリンセチア。直後、二人の姿はたちまち物陰に溶けるように消える。
「やれやれ、物分かりが良すぎるというのも困り者ですね」
そんな妹たちの様子を見送り息を一つ吐いたあとでティシャーナは白妙の橋上を進んだ。
決して急がずそのまま悠然とした足取りで往くことしばし。罠の類いがないことを確信した彼女は、ぽつりと蔑みの言葉を漏らした。
「愚かで助かります」
敵が戦闘を望み逃げないのであれば急ぐ理由はなかった。一直線に伸びた橋の先、疾うに相手もこちらには気付いている。
やがて橋の終わり、正門前に辿り着いたティシャーナを待ち受けていたのは荒くれ者の集団。剣に斧に槍。各々に掲げた武器を勢いよく振り回し、監獄島から連れて来られた罪人たちは歓喜に沸く。
「おいおい、女だっ!」
「それも一人だぜー!」
「ほんとにあれを殺っちまうだけで金貰えんのか?」
「馬鹿、金だけじゃねぇよ。地位も名誉も思うがままだって言ってただろ」
「そりゃ俺たちでも貴族になれるってことか!?」
「マジかよっ!」
「どけ糞共! あれは俺の獲物だ!!」
「ふざけんな、抜け駆けすんじゃねー!!」
早々に指示を待つことなくだった。粗暴で人相の悪い男たちは我先にと正門前から駆け出すと、歩みを止め橋上に佇んでいた標的に向かって殺到していく。
一人、二人、三人、四人、五人。続々と押し寄せ、ならず者たちは明確な殺意を剥き出しに手にした武器を振り上げる。
「………………」
だが、そんな状況であってもティシャーナは身じろぎ一つしなかった。
狂乱の最中、雪崩れのように迫り来る圧倒的な手数と物量。
対して標的はまったくの無防備。
――バタ。
――バタバタッ。
それでも一刺しだろうと囚人たちの攻撃がティシャーナに及ぶことはなかった。
「はっ?」
「お、おい……」
持ち主たちの手から抜け落ち、周囲に散らばる武器。
例外なくティシャーナの手前まで迫った瞬間だった。なぜか囚人たちは皆一様に膝から崩れ落ち、その場に倒れ込んだ。
「何コケてやがる、このウスノロ!」
一人の囚人が目の前で倒れた囚人を怒りに任せ足蹴にする。しかし、まるでといって反応がない。不審に思い今度は力一杯に蹴り上げると、うつ伏せだった足元の身体が仰向けに転がる。
「ひっ」
次の瞬間、生気の消えた青白い顔に蹴り上げた囚人は思わず腰を抜かした。
何をされたのかはわからない。しかし散大した瞳孔からも倒れた囚人がすでに事切れているのは明らかだった。
「……し、死んでる!? おい、全員死んじまってるぞ!!」
一人が叫ぶと囚人たちはたちまち血相を変え、その場から後ずさりをはじめた。
「魔術だ! きっと魔術に違いねぇ!!」
「ヤベェ、あの女只者じゃねぇぞ!」
「ふざけんな、こんなの訊いてねぇーぞ!」
「お、俺は降りる……!」
「俺もだ! もう褒美なんていらねぇよっ!!」
その危険性を目の当たりにした囚人たちは踵を返し、今度は閉じた正門に目がけて殺到していく。
だが、もう彼らの逃げ場などどこにもなかった。
「どけよ! 早く門を、開ぎゃッ――!?」
最初にその餌食になったのはいの一番に逃げて来た囚人だった。正門によりかかっていた一際身体の大きな男が二の腕を振り上げ、その顔面を捉え鷲掴みにする。
「てめぇら、何勝手に先走った挙句、何勝手に逃げ出してんだぁ? ああっ?」
片手で散々に振り回された挙句、囚人は遅れて逃げ帰って来た仲間たちの前で無残な最期を遂げた。
硬い大理石の上に凄まじい勢いで叩き伏せられる身体。バンッと、水が詰まった革袋が破裂したかのような音。直後、一つの肉塊と化したそれは橋上に赤黒い染みを作った。
「臆病者の腰抜けは俺様が直々に処刑してやる。小悪党共、よく聞け。てめぇらに許された道は二つ。戦って死ぬか、それとも逃げて死ぬかだ」
血飛沫と共に囚人たちの絶望の悲鳴が上がる中、ティシャーナは意に介さずその男を静かに観察していた。
筋骨隆々の上半身。
長い金髪に虎耳の生えた頭部。
間違いない。最重要の標的の一人。それも一番に接敵したかった相手である。
幸先良し。自分に流れの利があることを感じながらティシャーナは再び正門に向かって悠然と歩き出す。
――バタ。
――バタバタ、バタバタバタッ。
そうして一人、また一人。
逃げ遅れ腰を抜かした者。命乞いをしてひれ伏す者。一か八か襲いかかってくる者。
例外はなかった。近付くだけで次々に命は摘み取られ、囚人たちは即座に物言わぬ骸と化していく。
「ひいぃ、なんなんだよこれぇ!?」
「嫌だ嫌だ嫌だっ!」
「まだ死にたくねぇー!!」
背後から迫る〝死の帳〟を目撃した囚人たちはさらなるパニックに陥った。そのまま正門側に逃げ帰った者は敵前逃亡とみなされ八つ裂きにされ、どうすることもできず橋上に留まった者は成す術なく昏倒していく。
「ちっ、腑抜け共が」
「………………」
そうして瞬く間に五十人弱いた囚人全員の命が潰えるとだった。
獣人族の男――レオリドスは最後に手にかけた遺体を外の湖まで投げ捨てると、呆れたように深く息を吐いた。
「誤解のないように言っておくが俺様は反対したんだぜ。雑魚をいくらかき集めようが意味ねぇってな」
「そうですか。確かに意味はありませんでしたね」
「同意してくれて嬉しいぜ。ま、そんなことよりも女。お前と遭遇するのはこれが初めてじゃないよな? その化け物染みた気配、ここまで近付けば嫌でもわかるぜ。マカチェリーの竜に乗ってた俺様たちにステーキナイフ投げたの、あれお前だろ」
「さあ、どうだったでしょうか」
「しらばっくれるなよ」
「潰し損なった蚊のことまでいちいち記憶に留めてはいられないもので」
「ヘッ、端っから眼中にねぇってか」
「はい。申しわけありませんが、少なくとも私から見れば貴方も取るに足らない雑魚ですから」
「……そうかよ。なら、見てろ。これから俺様という存在を嫌というほどお前の記憶に刻み込んでやる」
静かな怒りを含んだその宣言と共にだった。次の瞬間レオリドスの身体が膨れ上がり、瞬く間に変貌がはじまった。
金の鬣と瞳。
そして猫科の獣として変形した顎からは大きな牙が。
全身は硬い体毛で覆われ、巨大化した四肢の先端からは太く鋭い爪が伸びていく。
――ヴオ”オ”オ”オ”オオオオオオォッーーーー!!
獣王変化――己が天賦技能を惜しみなく解放するとレオリドスは凄まじい咆哮を上げた。
塔の天辺すら抜け、灰色の空にまで轟き渡る戦いの合図。
王国を影で支える黎明の円卓の序列一位。対するは、救国を影で操る終焉の解放者の一番槍。直後、両者は激突した。