午前 9時26分
枕の下でスマホが鳴動している。
今日は……土曜のはずだ。ってことは、目覚ましじゃない。寝ている間は職場、親族、あとは親しい友人からの着信しか受けない設定にしてある。
朝早くにコレが鳴るってことは……やはり職場なんだろうな。
手を伸ばして液晶に指を滑らせ、耳に押し当てる。どうせ昨日の議案の件だろう。各部署の意見も全くまとまらないまま、ご丁寧に再検討の課題までつけられて差し戻しになったからな。
「……はい」
「あ、おはよー」
やや間延びした女性の声が、耳元で響く。記憶の中の声紋データベースを走査、一致件数が一件。
何ヶ月振りだろう。半年は経っていないはずだけど。
「なに?」
「いま、駅前着いたよ」
「……はい? 誰が?」
「私が。駅前にいるの。だから来て」
思わず、深い溜息が漏れた。
スピーカーの向こうから雑踏のざわめきと、彼女のクスクス笑う声が伝わってくる。
「なぁ、昨日さ、仕事遅かったんだよ」
「それはお疲れさま。何分で来れる?」
「相変わらず人の話聞かないな…… シャワー浴びていい?」
「ダメ。すぐ来て」
「寝癖、凄いんだけど」
「んー 流行の無造作ヘア?」
「そんなレベルじゃないって。オレの髪質、知ってるくせに」
「はぁ、仕方ないな。三十分あげるよ」
なにが「仕方ない」だよ。オレの至福の休日をどうしてくれるんだ……
と胸中で毒づいてみるけど、我ながら説得力に欠ける。久し振りに耳にする彼女の声のせいで意識はすっかり覚醒して、むしろ浮足立っていることを自覚。
ちょっと、いや、かなり悔しい。
シャワーの温度を高い目に設定して、頭から浴びる。ついでに歯ブラシも咥えて、シャカシャカ。ヒゲは……アイツだし、このままでいいだろ。手早く体を洗ってバスルームを出ると、タオルで頭をガシガシ拭きながらクローゼットを漁る。
とりあえず、着古して色褪せたジーンズの上に白いシャツを羽織った。
ハンガーに掛かったスーツが目に入る。
そうだ、コレを渡してやろう。
目当ての物を探り当てると、財布、携帯と一緒にジーンズのポケットにねじ込んだ。
時計に目をやると、三十分を既に五分ほどオーバーしている。髪は……まぁ、いいか。季節も暖かくなってきたし、すぐに乾くだろう。
とりあえず手櫛で後ろに流して、玄関のドアを開く。
バイクに跨ってキーを捻り、エンジンをスタート。川沿いの桜並木はすっかり花弁を落として、葉桜が初夏の風に瑞々しい。
ヘルメットの下で深く息を吸い込むと、出会った頃のアイツの凛とした姿が脳裏に浮かんだ。