忘れられるジャン・ポール
『忘れられるジャン・ポール』
……二十年ぶりになるのか……。
JR中央線の国立駅に降り立って、西部是政は谷保天満宮へまっすぐ延びる大通りを眺めやった。昔を思い出そうとしたが、さしたる感慨はよみがえって来なかった。
……感激の少ない青春だったということだな、ふっ……。
車を修理に出したのを機に、彼はマイカーから電車通勤に切り替えた。修理工場の代車でいつものように八王子の自宅から一時間も走れば済むことで、必要に迫られての電車通勤ではない。車から電車にしたくらいで人の生活がどれほど変わるものでもないが、惰性のように過ぎてきた毎日に変化を期待したのは確かだった。見限ったように行かなくなってしまった商店街の一軒々々を時間をかけて歩いてみたかったし、足しげく通った旭通りや富士見通りの飲み屋の幾軒かも訪ねておきたかった。街はどうなったろう。彼の気紛れは青春追慕の感傷だ。定年は一年後、いよいよこの町ともおさらばだ。
西部は歩道を歩き、広域避難所になっている一ツ橋大学に差し掛かった。
……ん? ハトが逃げない。人の足音が五メートルにも近づけばバサバサバサーッといつせいに飛び立ったもんだがなァ……。
辺りは緑を多く残す文教地区で、住民の多くは高学歴で教育熱心だ。ハトの群れに石を投げこんだり、いきなり群れに駆け込んで蹴散らしたりする悪たれ坊主どもがいない。子供が聞き分けよくなったのなら、教育の成果にちがいない。西部の足が十五センチ脇を通っても、ハトは首を前後に振って平然と歩いている。
……ハトは大胆になったというより無防備になったのだな。二十年という時は動物の習性まで変えてしまうのか。人間への教育がハトから危機意識を奪ったのか? 事故死するハトがふえるのかな?
西部は十羽ほどの小さい群れを足踏みして脅してみた。
──バンッ!
──バサバサッ。
ハトがやっと飛び立った。……これでいい。これでなきゃいけない……。
悪たれ坊主だけでなくハトを襲う猫がいなくなった。この町にだって猫がいないことはないだろうが姿を見せない。在来の野良猫は「衛生上の問題」とやらで保健所が捕獲して処分してしまった。今ではキャットフードのCMに出てくるペルシアやシャムの親戚筋だけがぬくぬくと飼われているのだろう。エサは求めるものでなく与えられるものになった。猫はもはやハトを捕食しない。西部は自宅の近所で、ひも付きの首輪をして飼主と散歩をする猫に出合って驚いたことがある。姿のよい黒猫が〈飼主を従えて〉優雅に歩いていた。それが不思議に似合っていたから、どこかおかしいのだ。
野良犬といえば雑種と相場が決まっていたが、その雑種を見かけない。猫と同じで犬も輸入モノが全盛だが大型犬の流行はもう下火のようだ。警備会社に頼めば番犬など要らない。あれだけ流行ったシベリアンハスキーも不妊手術を強制され、子孫を残せずに一代限りのさびしい生涯を次々に終えている。今、この町の犬もせいぜい中型犬、それも賢いとされるレトリバーが主流だ。西部は生き物に流行りすたれがあるのが面白くない。可愛がられたかと思えば次の流行がやってきて、すぐに見向きされなくなる。哀れではないか。犬猫の自己顕示慾が低下したのかどうかは解らないが、一匹々々に昔ほどの存在感はないようだ。
西部が子供の頃『名犬ラッシー』がテレビ放映された。全国的にコリー種の人気が高まった。それでも、ブームには至らなかった。コリーを飼えるほど余裕のある家などなかったからだ。西部少年は飼主のジェフ君が「ラッシー」ではなく「ラスィー」と呼ぶのが好きだった。「ラスィー」はジェフ君の吹替えをやった北条みちるさんの特権で、普通の人がまねてもサマにならない。近所の女子高のお姉さんがさっそく雑種に「ラッシー」と名前をつけて盛んに「ラスィー」と呼んでいたが、雑種で「ラスィー」は無理だった。コリーはスター並みのあこがれの的だった。
それから、あちこちで飼われるようになったのが、ポメラニアンの兄貴分ほどの大きさで全身まっ白のスピッツだ。洋犬といえばシェパードとこれだった。スピッツは番犬を兼かねた愛玩犬のハシリだった。キャンキャンキャンとカンの強い、何ともうるさい犬だった。
時が移って、今、この町を行く人たちが連れて歩くのは、チワワ、ダックスフント、マルチーズ、ヨークシャー・テリア。みんな外国種の小型室内犬だ。ひと蹴りでオダブツになる生きたオモチャたちは、訴えるべき不満がないのか滅多に吠えない。元気のいいのがたまに吠えても、体の小さい彼らの声は甲高い。キャンキャインと悲鳴のような鳴き声は耳に突き刺さる。犬嫌いの西部にはこの声がカンにさわる。
西部は犬に恨みがあった。犬を恨む彼には動物保護法なんぞクソ食らえだ。小学三年のときに柴犬に咬まれた彼も、そんな法律ができたこと自体おかしいと思っている。あのとき飼主は言ったのだ。「ウチの犬はおとなしいから大丈夫だよ」と。それが頭をなでようと伸ばした手をいきなり咬まれ、パニックの中で腕を振り払って逃げ出すと、今度は足を咬まれた。彼はそれ以来、従順さの陰にひそむ犬の本性を恐れ、うわべだけの従順さを疑おうとしない飼主の方も信用しなくなった。西部の恨みは『白鯨』のエイハブ船長のように自分を襲った動物個体へ偏執狂的に攻撃をしかけるといった迫力のあるものではなく、 犬という種族全体にぼんやりと拡散した嫌悪感になっていたから、犬と飼主をケムたがるだけのことだった。
鳥山ちとせは毎朝プードルを連れて駅前通りをやって来た。若々しいと言うと言葉が過ぎるが、どう見ても六十八才には見えなかった。犬はプードルらしく毛を独特な形に刈り込まれて、白い体にはまっ赤なベストを着せられていた。そういうものだとして見れば珍しくもない光景だ。ちとせの服装も普段着にしてはシャレているものの、この町でことさら人目をひくものではない。それでも彼女とプードルの組合せはどことなく他の犬連れとちがって西部には好印象を与えた。
今の流行はトイ・プードルといって毛糸の固まりのような小さいプードルだ。彼は老女のスタンダード・プードルを流行遅れかとも思ったが、流行遅れなところを気に入ったのかも知れない。彼女の品のいい顔だちから想像して彼は考えを改めた。
……わたしは流行を追っているのではありません。この犬はわたしに相応しい本物で、わたしはこの歩道を散歩するのに相応しい人間なのです……
ツンとすましたあの顔はきっとそうした哲学をもっているに違いない。文教地区の誇りというわけか。長い歩道には十九世紀パリのガス灯を模した街路灯が並び、その一本にさりげなく取付けられた大時計はローマ数字の文字盤だったりする。シャンゼリゼ風のカフェテラスもこの駅前なら似合だろう。国立はヨーロッパの香りを微かに漂わせる街ではある。
飼主のちとせはいつも背筋をピンと伸ばし、前方だけを見て歩いた。彼女は、ブランドバッグをこれ見よがしに持ちながら無関心を装う女のように、連れているプードルを見なかった。犬が自慢なのは知れている。彼女の視線はすれ違う人々に注がれている。犬の苦手な西部は、犬は彼女のファッションの一部だと理解した。
西部と彼らの間にはまだ五メートルほどの距離があったが、犬は明らかに西部をにらんで吠えたてた。クァンクァン! 彼は自分の印象を裏切られたようで彼はムッとした。面白くない。犬好きによれば、犬は自分が好かれているかどうかを瞬時に嗅ぎ分けるそうだから、プードルは西部の犬嫌いに気づいたのだ。……生意気なッ……。
翌朝、西部はある行動に出た。
……なめるなよ。オモチャの犬コロがこの僕を脅そうってかァ……
彼はすれ違いざまにプードルのすぐ脇をバンッと足を踏み鳴らしてにらみ返した。ハトを飛び立たせたあの足踏みである。プードルはビクッと腰を引き、飼主に身を寄せるようにして口惜しそうに吠えた。彼はそれを視界の隅に見届けると、振り返らず先を歩いていった。飼主とは目を合わせなかった。
彼はプードルが思いのほか怯えたのが愉快だった。プードルに勝てたと思った。翌る日も、その翌る日も彼は犬の脇で足踏みをやった。バンッ! バンッ!
二、三日すると、犬は彼の姿を見ても吠えなくなったばかりか足踏みに怯えて眼を逸らすようになった。
犬には散歩が欠かせない。プードルは主人の左側を歩くように訓練されているようで、西部の足踏みを恐れながらも飼主の右側にはまわることはなかった。彼が足を上げると犬は怯えた。吠えてはいけない人に吠えてしまったことを後悔しているようで、最初に吠えかかったときの元気をすつかりなくしている。プードルはすでに哀しい眼をしていた。西部はこの毎朝の儀式を愉快がった。しかし、これが少年時代に犬に咬まれたときのウップン晴らしだとしたら、いささか気になる陰湿さだ。
駅前通りが散歩コースらしい。いつまで続くだろう。西部はすれ違いざまに足を踏み鳴らしては犬を脅した。バンッ! プードルの目は涙をこぼしそうだ。彼は陰湿なたのしみを続けた。
そんなある日、彼は後ろから声を掛けられた。
「ちょっと、あなたッ」
彼はすれ違った飼主の声を無視して先へ歩いた。
「ちょっと、そこの人ッ、あなたよッ」
老女は小走りで西部の前に廻りこんで、立ちはだかった。
「あなた、なんでウチのジャン・ポールに意地悪するのッ」
彼女は唇を震わせた。
……うぷっ。この間抜けづらがジャン・ポールだと? ふぅん、オスなのか。犬がメスばかりのわきゃあないが、トリミングされたプードルって全部メスだと思ってたなァ。こりゃお笑いだ。そういえば、ブルドッグも全部オスで、ブル公のメスってのもイメージしにくいな。なるほど、これは僕の偏見だ。無知だ。無知は無関心の結果だ。人間の印象なんて当てにならんもんだ。西部は自分に呆れて苦笑した。
「何がおかしいのッ」
「何のことですか?」
彼はとぼけた。
「あなた、うちの子の脇でバンって足踏みするでしょ。とても怖がるのよ」
「怖がらせてるつもりはないよ。僕は水虫なんだ。駅から歩いて来て、ちょうどこの辺りで痒くてたまらなくなるんだ。靴を脱いでボリボリもやれないから、仕方なく足踏みするけれど……」
「見なさいよッ、ほら。これ、ハゲでしょ? ハゲてるでしょッ、ハゲよッ」
老女は他に原因などあるものかとばかりに犬を抱えあげ、同じ視点から西部に犬の被害を確認させた。二人は道ばたで寄り添って並ぶ恰好になった。犬は後頭部に円いハゲをこしらえていた。ハゲは何かの結果にちがいないだろうが、原因を彼の足踏みと決めつけてつめ寄る彼女に腹が立った。いや、ハゲ、ハゲと連呼されたのにムカッときた。西部はカツラの愛用者だった。
喜ばしい気持ちでカツラをつけられるのなんてカツラの仕上がった最初のほんの数日だ。それが本物でないことは複雑な気持ちで彼自身が認めている。カツラをつけたその日から彼の心に、見破られはしないか、見破られているのではないか、という怯えをたっぷり含んだ疑念が棲みついた。カツラを被っている限り、そのわだかまりは消えることがない。西部も周囲を欺かずには生きられない自分を情けなく思い、自身の運命を呪って来たのだ。小心者がカツラを頭にのせると、その数十倍、いや何倍などと言えぬほど心は重くなる。心臓によくない。たとえ自分のことを言われているのではないと承知していても、ハゲの一言が他人の口から洩れると心が傷ついてしまう。髪の毛のある者、ハゲをさらす者、ハゲをカツラで隠す者。同じ言葉でも受け止め方がちがう。赤の他人は目でものを言ってくる。「……あんた、カツラだね……」そうした視線に会うと西部は身のすくむ思いだ。彼が早くからマイカー通勤にしていたのも一つにはそうした事情があったろう、本人は無意識だったにしても。
……犬の円形脱毛なんて聞いたことないな。人間のだって原因は特定できていないんだ。ストレス説? この間抜けづらにそんなデリカシーがあるもんか。まさか、ひょっとして、この老女は僕のカツラを見破って当てこすってるのか? 西部の心に黒い焦りが急にひろがった。彼は老女に負けまいと声を荒げた。
「僕のせいだってのかッ。そんなの足踏みとハゲの因果関係を立証してから言えッ。人間様をつかまえておかしな言い掛かりをつけるなッ」
「んまッ。事実無根だといいたいわけねッ。いいわ、訴えてやるからッ。おぼえてらっしゃいッ」
「好きにすりゃいいさ」
西部は捨てぜりふを吐く一方で、老女とけんか別れしてしまうのもなぜか惜しい気がし
た。年齢に似合わない肉惑的な彼女の裸体が彼の頭をよぎっていった。西部が電車通勤に漠然と期待した非日常かも知れなかった。
犬には散歩が欠かせない。老女は西部の姿が近づくと、しゃがんで愛犬をかばうように抱きかかえて彼をやり過ごすようになった。それでも西部は足を踏み続けた。犬を脅せなくなったとたんに水虫が完治してはおかしい。おかげで朝の儀式はバカバカしくなったが、中途で止めるわけにもいかないのだった。
それにしても西部はうかつだった。犬に関心のない彼は犬に関する法律にもすつかり浦島太郎になっていた。動物愛護法は施行された当初と較べてはるかに厳しくなっている。それもこれも年寄りがべらぼうに増えたせいだ。アニマルセラピーの世話になる老人が大半を占めるようになると、動物たちは人間並みに大事にされた。セラピー用の犬猫を飼えば自治体から補助金が出たし、保険証の被扶養者欄の下にはペット欄がつけ加わった。ペットは血縁のない家族なのだった。法的保護の対象であるセラピー用の動物をいじめたとなれば、判決は厳しいものになる。自己防衛を主張するには犬アレルギーであることを証明しなくてはならない。西部は犬アレルギーではなかった。
人間顔負けの葬儀がある。入院補償のついた保険がある。「ペットの福祉」という言葉は毎日のように見聞きする。急に飛び出した犬を跳ね、過失致死罪の不名誉な適用第一号になった運転手の記事を新聞で見たのは何年前だったろう。キブツソンカイ罪で済んだ時代など、この法律を快く思わない一部の老人たちの語りぐさでしかない。
徳川の昔、ある将軍が「生類憐れみの令」とやらを出して、江戸の庶民は大いに不自由を強いられたと聞く。しかし、現行の動物愛護法では、飼主は庶民のブンザイで犬公方なのだから、犬と相性のよくない者の不自由は「生類憐れみ……」の比ではない。西部に言わせればトンデモナイ悪法なのだが、多数決原理の民主主義はいつだって少数意見に冷淡だ。
動物虐待がますます重罪になっていくのは、しゃべれない動物に同情が集まってしまうからだ。裁判では必ず被害を受けた動物の側に動物心理学者がつく。ジャン・ポールの円形脱毛の原因も西部の足踏み以外にないと疫学的に「証明」されてしまうだろう、それも堂々と、悠々と。
……動物虐待は執行猶予がつかない。初犯でいきなり刑務所行きだ。あいつがハゲたの
は事実なんだからな。あゝ……。
西部は経験のない刑務所生活をインタネットで調べてみて、今さらのように驚いた。年寄りの養護施設と見まちがえた。受刑者たちが急速に高齢化したからだ。体力のない老人
は風邪をこじらせただけで死んでしまう。あまり死なれては管理責任を問われる刑務所当局も気が気ではないのだ。建物は空調設備が整い、独居房は今や快適な個室である。高血圧や糖尿病の収監者にはバランスのとれた三度々々の食事、健康向上のためのレクリエーション設備もフィットネスルームもある。西部の好きなピンポンもやりたいほうだい。まるで病院付の温泉旅館じゃないか。三ヵ月毎に人間ドック並みの入念な健康診断、入れ歯まで作ってもらえるなんて知らなかった。精神面のケアも充実している。六十五才以上なら犬猫も一匹まで同居が許されているし、再犯率の低下が目的だろうけれど、独身者は出所が近くなると女子刑務所との合コンに参加できる───。
……家よりよっぽどマシじゃないか。しかし、そうは言っても家族のある身で刑務所には行けないものなァ。定年を目の前に裁判など起こされてはたまらない。金も時間もそんな余分はない。西部は老女に何とか訴訟を取り下げてもらい、示談に持ち込む準備をしなくてはならない。
……あんなささいなウサ晴らしで残りの人生を棒に振れない。面白くないけれど、自分のまいた種だ……。
西部はとうとう彼女に頭を下げた。今までのことは全面的に自分が悪かった、深く反省しているので提訴だけは止めて欲しい。ついては改めて挨拶に伺いたいのでお宅への地理を教えて欲しい、そう泣きついた。屈辱だった。
彼自身は気づいていなかったが、心の底では、無条件全面降伏がやはり口惜しく、その屈辱をどうにかして挽回しようと、新しいストレスのはけ口を探していたのだ。彼の意識に上らない欲求は意外なところへ顔を出した。
西部老女に、妻にはない色気を感じていた。年齢は上でも女だった。きつい言葉とは裏腹に男を誘うような風情がなくもない。そして、西部は西部で自分のなかに、彼女を征服してみたいという標準的な男の性を潜ませていた。
西部の心配は粉微塵に吹ッ飛んでしまった。意外な展開だった。老女は破顔一笑して西部の謝意を、それも待ち望んででもいたかのように受入れた。なじるような言葉は一つも聞かれなかった。彼の全身から一気に力が抜けた。……今までの頭の禿げるような気苦労は何だったのだ……。
「いえね、貴方にはたかが犬一匹。でも飼主には家族ですのよ。かけがえのないものだと分ってくださればよろしいんですの。裁判? まァ、本気になさってらしたの? 売り言葉に買い言葉ですわ、おほほほ。昔は犬一匹でこんなことってありませんでしたものねえ……」
「とてもこわい顔をしておられたもので、てっきり……」
「いやですわァ、ほほほ」
「あの、お住まいは?」
「どうぞもうお気になさらないで」
西部は安堵した。緊張が解かれるよろこびを噛みしめた。心が軽くなると現金なことに、言い争っていたときは不快に思えた彼女の香水が好ましく匂ったし、ジャン・ポールも彼女に似合いの良犬だと思えて来るのだった。よほど裁判が恐かったのだ。
彼は今、彼女のことばに勇気づけられたような心地さえしている。
……このひととの出会いを最初からやり直せないもんだろうか……。
自分のしてきたことを考えれば図々しい気もしたが、彼はそう思った。
西部の関心はプードルからすつかり飼主に移っていた。駅前通りで彼女と出会うたびに声をかけてフォローにつとめた。気の小さい男は安心感を失うまいとちとせに接近しているのだが、彼にはそうした意識は毛頭ない。彼女のまんざらでもなさそうな受答えに、彼の想像はふくらんでいき、老女が次第に恋人のように映ってくるのだった。
翌日の朝───。西部はあろうことか、ジャン・ポールを抱き上げた。
───西部よ、犬嫌いのプライドはどうしたッ、おまえが自分から畜生に近づくとは───彼の心に葛藤がなかったわけではない。しかし、彼はそれをへつらいだとは思わなかった。問われれば「今までやらなかったことがしてみたかった」くらいに答えるだろうが、犬嫌いの思いきった行動は、彼の心境の変化だっただけでなく、その方向をも決定づけた。
プードルはもはや西部に嫌われていないと察してか、鼻先を押しつけて彼の顔をなめにかかった。彼は顔をそむけた。犬の口は生臭い上にバターのような匂いがした。
「すみません。何ぶん慣れてませんもんでね、あははは。あ、申し遅れました。僕、この先のタカサゴ精機の西部是政と言います」
「鳥山ちとせです。改めまして、お初にお目にかかります。今後ともどうぞ宜しく」
「あっ、こりゃ、どうも。こちらこそ」
「散歩の途中にお知り合いに会えるなんて素敵ですわ」
二人は笑い合った。意気投合? 西部が自分をフルネームで紹介したのは、老女の下の名を知りたかったからだろう。本人が意識していたかどうかは分らないが。
……第一印象なんて当てにならんもんだな。気転の利く素敵な人じゃないか……。
「西部さん、お急ぎなのじゃありません? 会社に遅れましてよ。行ってらっしゃい」
老女は笑顔で言って、お辞儀をした。西部は自分が新妻に見送られて出社する夫にでも
なったような愉しい錯覚があって相好をくずした。笑顔は彼女とやり直せる自信から生まれたようだ。
……飼い犬をほめられるのは犬嫌いが想像する以上にうれしいことなのだな。烏山という姓もちとせという名もウソではないだろう……。ちとせ、ちとせ───。彼は彼女を下の名で呼べる日を考えて胸をふくらませた。
退社時刻が近づいて、西部はそわそわと落ち着かなかった。よみがえってきたのはすっかり忘れていた若々しい感情だ。彼は終業のチャイムと同時に会社を飛び出して、花鳥堂菓子舗に向かった。
町のだれもが知る老舗のせんべいや羊羹は貫禄があって見栄えはしたが、西部にはどこか年寄りくさく感じられた。……これから何かが始まろうというときだし、それに値段が……。年齢のわりに派手な服装の彼女を思いだして、ベルギーワッフルを箱に詰めてもらった。中身はともかく、街一番の花鳥堂の紙袋を手にした西部の胸は、自分でもおかしいくらいに弾んだ。
西部は交番に寄った。のぼせた彼は手土産を買ってからちとせの家を探すという順序のおかしさに気づかなかった。彼は少年のように夢中だった。
「あの、大学の近所だと思いますが、トリヤマさんというお宅がありませんか?」
「烏山?」
若い警官は思い当たることがあったとみえ、軽く驚いたようだった。
「旦那さん、烏山さんとこへは何で?」
……大きなお世話だ。それに旦那さん呼ばわりは止めろよ、いい若いもんが。敬称のつもりか、気持ち悪い……
「ちょっと言葉が行き違って失礼を申し上げたので……。機嫌を悪くされても何なので、これからお詫びにいこうかと……」
警官は西部の紙袋にチラッと眼をやり、花鳥堂と知って安心したように壁の地図を指差した。
「烏山さんは二軒あるんですよ。もっと詳しく分かりませんか?」
「犬、プードルを飼っている奥さんですが……」
「プードルね。ならこっちの家。前の署長んちです」
「警察の方なんですか?」
「僕が拝命した年でしたから、五年前に亡くなりましたが。お屋敷に奥様お一人なのでよくパトロールに廻ります。ここがお宅です」
警官はメモ用紙に略図を描いてくれた。西部は形ばかりの礼を述べて交番を出た。心はもう略図の烏山家にある。自分の想像を現実が追いかけて来るようで何ともわくわくする気分だ。
……僕が泥棒だったらどうするんだ。警官が、老女の一人暮しだなんてペラペラやっていいのか? お詫びに行く人間なら何もしないと思ったんなら、ずいぶん軽率じゃないか……。
独り言を言いながら西部は大学の裏手にまわり、教えられた烏山家に着いた。立派な庭は手入れが行き届いていた。一瞬彼でも警察署長の年収と退職金を自分のと較べた自分をさもしいと思った。立派なお屋敷に物怖じしたのかも知れない。彼はインターホンを押した───。
「はい?」
くぐもってはいたが尻上がりの声はたしかに彼女のものだ。西部は咳払いした。
「あ、タカサゴ精機の西部です。お詫びに伺いました」
「あらッ、あなたッ。えっ? 本当にいらしたのッ? あの、ちょっとお待ちになって」
玄関扉が開いて彼女が顔を見せたと同時に、奥から廊下を駈けてきたジャン・ポールが西部に飛びついた。彼は顔をそむけながら笑顔を作った。ちとせは犬がジャレるまでになったのはなついた証拠だとよろこんで、彼の突然の訪問を拒まなかった。
「わざわざいらしてくださったの? いいって申し上げましたのに……。ここでは何ですから、ともかくお上がりになって」
「ではちょっとだけ」
彼は応接間に通された。見ず知らずと言っていい西部を家に上げるのは考えにくい。しかし、飼主の心理状態はある意味、ペットの心理が反映してのこともあるのだろう。西部は自分が受入れられていることの嬉しさに心を奪われていて、彼女の無防備さにまで気がまわらなかった。ジャン・ポールがクァンクァンと彼にまとわりついてうるさい。ネギ坊主のような尻尾を盛んに振っている。
「ジャン・ポールッ、静かになさいな」
老女がたしなめても、犬は部屋中をぐるぐる走り廻って彼にジャれかかった。
「おかしいわねえ、この子、どうしたのかしら?」
「些少ですが、先日来のお詫びのしるしに……」
「あらァよろしいんですのに、そんなお気づかいは……」
プードルはテーブルに置かれた西部の手土産に鼻をすりつけた。クァンクァンと吠えたてると向かい合ったちとせのスカートの中にもぐりこんだ。彼女は困惑顔で足首まである暖かそうなスカートから犬を引っぱりだした。犬は紙袋の匂いを嗅ぐと、もう一度彼女の股ぐら目がけて飛びこんだ。
「あらららァ? どしたのよ、ジャン・ポール? あなたお行儀が悪くないこと?」
西部はちとせの頬にさっと紅がはけたのを見逃さなかった。
「……失礼ですけど西部さん、何をお持ちくだすったんですの?」
「お口汚しに花鳥堂のワッフルを……。あ、冷えてたらチンしてください」
「ワッフルですか……」
彼女とほぼ同時に西部も犬の行動を理解した。犬はちとせのスカートの中で盛んにモゾモゾやっている。彼の顔つきはやゝ品が欠けていたかも知れない。ちとせは西部の表情を読んだ。彼女の顔は見透されたバツの悪さからさらに赤くなって、目を泳がせた。
「あ、あの……こ、これは……そういうんじゃなくって……」
「ええ、犬って可愛いものですよねえ……」
西部は一般的な、あいまいな相づちを打った。
「いえ、だから、あの、西部さん、でも、そ、そうではなくて……」
老女はしどろもどろだ。
「ちとせさん、恥ずかしいことじゃないですよ……」
西部は初めて彼女を名前で呼んだ。声に軽蔑の響きはなかったが、彼女は必死に取りつくろった。
「あ、あの、西部さん、お紅茶、そ、お紅茶召し上がりますでしょ?」
彼女は西部の答を待たずに立ち上り、スカートの裾に噛みついて離れないジャン・ポールを引きずったまま台所に消えていった。
紅茶が運ばれてくる間、西部はこの場をどうしたものかと考えた。
……早々に退散するのが賢いのかな。僕のせいじゃないけれど、彼女に恥ずかしい思いをさせたまま帰るってのも気が引ける……。
紅茶を運んで来たちとせの顔が落着きを取り戻しているのを見て西部はホッとした。
「…………?」
ちとせの唇がさつきより赤い。西部を待たせてちとせは、紅茶を淹れ、犬をつなぎ、口紅を濃く塗りなおして来たのだ。
「……………………」
無言のメッセージを受けとって、西部はじっとちとせの眼をのぞきこんだ。老女の目は少
女のように羞かしそうに微笑んでから閉じられた。二人は台所の隅でワッフルをかじっているであろうジャン・ポールのことを忘れた。
数日後───。ちとせはジャン・ポールといっしょにバスルームの湯気の中にいた。彼女は片方ずつ肱を高く上げて腋の下を剃り終えると、ジャン・ポールの頭を抱えて言った。
「もう生やしてあげてもいいんだけど、これだってどうして、なかなかお似合いよ、ジャン・ポール……」
ちとせの手が後頭部に剃刀を当てゝ円くなぞった。