#19
ニューヨークの空港。太陽が高く昇る青空に旅客機が飛び立って行くのを、ルネは2階のラウンジから巨大なカーテンウォールに眺めていた。
「いざお別れとなると、やっぱり淋しくなるな……」
テーブルの向かい側に座りながらルネと同じ様に、飛び立つ飛行機を眺めていた蝉平が切なそうに、ぽつりと呟いた。見送りに来てくれたはいいものの、どこかでそれを後悔している様な彼を見て、ルネはクスッと笑ってしまった。
「何さ」蝉平は恥ずかしそうに苦笑いを浮かべた。
「いや何かさ、ナツの表情のレパートリーが凄く増えたなーって思って」
「そう?そんなに固い顔してたか?俺」
「うーん、固いと言うか単調だった。いつも仕事に追われてる筈なのに余裕があり過ぎて、優しい顔をしてるのが逆に怖いなって思う時もあったから……」
「あー……」
なるほどね、と蝉平も頷いた。
「そんなナツが好きだったんだけどね。隠し切れてないアブない雰囲気がさ」
「そうか?」
蝉平は込み上げてくる懐かしさと寂しさを微笑みの裏に隠した。
「でもやっぱり今の方が良いよ。今はハートフルに忙しそう。だから前みたいな余裕はないのに、すごく楽しそう」
「ああ間違いない。……ふふふ、『ハートフルに忙しそう』って面白い表現だな。的確だけど」
そう言ったきり、蝉平は手元に視線を落とし俯いてしまった。ルネも今まで我慢できていた寂しさがここに来て溢れ出し、ガラス張りの外の景色に青い眼を釘付けると、丁度また別の旅客機が離陸する所であった。もう間もなくでルネ自身も機上の人となってパリに飛び立つ。昔好きだった人を残して……。
蝉平は静かに座りながら、何か言葉を探している。
「ねえナツ」
ルネは最後の最後まで気を遣ってくれている彼に申し訳なくなって、青い大空を飛び立ってゆく旅客機を目で追いながら思わず呼び掛けた。端正な横顔が蝉平の脳裏に聖母像を思い起こさせる。
「また行ってもいいかな?ナツのお店……」
「いいとも。もちろん」
先ほどの旅客機が空の彼方に見えなくなった頃。「さあ、私もそろそろ行かなきゃ」とルネが身支度を整えたのを見計らって蝉平が静かに立ち上がり、ルネの傍に寄り添う様にしてから手を差し出した。
「……フフ、ありがと」
その手を取り、ルネも軽やかな動作で席を立つ。それからほんの少しだけ二人で見つめ合ってお互いの瞳の色を見、そしてお互いの瞳に映る自分達の瞳の色を想像した。
一瞬の出来事だったが、ダークブラウンとネイビーブルーの虹彩が心の窓となって開かれ、そこに暖かな風が行き来する。二人は何も言葉にはしなかったが、それで充分な気がした。
「ルネ」
柔らかな表情で蝉平が思い人の名を呼んだ。
ルネはわずかに首を傾げて応える。
「元気でね」
およそ言葉には直せぬ想いの数々をその一言に託した蝉平に、ルネは微笑み返した。
◆
「そろそろモネさんが飛行機に乗る時間だよな……」
マンハッタン北部にあるスラム街「ダウンタウン・ブロー」の紛争地帯の様に殺伐とした街の中をゆったり低速で走るベンツGクラスの助手席で、窓枠に肘を乗せたジニーが雲の流れる青空を見上げながら、ふと思い出して言った。
「ああ、そーね。今頃はもう飛び立ってることさね。ナツが咽び泣きながら空に向かって手を振ってんじゃない?」
高いコンクリート塀に沿って車を走らせている運転手のジェナも特にそこまで興味もないと言った様子で返す。
そのやり取りを、後部座席のモーリスはぼんやりと車窓の外に広がる荒んだ景色を眺めながら聞き流していた。足元にはベルギー製ライフルのSCARを立て掛けている。
このエリアは『トンプソン・タイプライト』――通称タイプ・トンプと呼ばれる、ダウンタウン・ブローの中でも特に荒んだ一帯だ。
街のコンクリート塀にはサイケデリックなストリート・アートが施されている。七色にデフォルメされた2匹の猫が怒りの形相でお互いの腹を食い破り、中から臓物を引き摺り出して殺し合う様を描いたもの。同胞の死体を啄みながら血の涙を流すカラスのアート。涎をだらだらと垂らしながら青い目をぐりんと上に向けて天を仰ぎながら両腕を前に突き出し、だらりと手首をぶら下げながら不気味な笑みを浮かべる修道女の絵……因みにこのイカれたシスターの絵は二日酔いの時のジニーに似てる。
コンクリート塀は横に長々と伸びており、この脳神経を壊しにかかる様なアートもまたまだ続いてゆく。
モーリスはもう嫌になって、反対側の窓に視線を移したが、街の至る所にはやはり……と言うよりいつも通りの光景なのだろう。末期の薬物中道者と思われる人々が4人、徘徊していた。
焦点の定まらぬ虚ろな瞳をキョトキョトさせながら、立ったまま体をブルブルと痙攣させている者。
腰の骨が無くなったかの様にグニャリと体を二つ折りにしてへたり込み、腕を後ろにダラリと伸ばし、掌を天に向け何も無い宙を撫でる様に、小指から人差し指まで一定のリズムで波打たせる様な動きをしている者。
タイプ・トンプを象徴するかの様なボロボロに傷んだ灰色のコンクリート地面を大口を開けてザラザラと舐め回している者もいる。
あと1人は同じ場所をグルグルと回りながら血走った白目を剥き、自分の人差し指の付け根から第2関節までの間を奥歯噛みで齧り、肉が剥き出しになって血の吹き出す傷口から骨が見えていた。
どこに目をやっても地獄の様な光景だ。アメリカ最大の都市と同じ州の中とは思えぬ荒廃ぶりにもはや現実味すら無い有様であった。
「――おっさん、ねぇってば!!」
張り上げたジェナの声にモーリスはビクッとしながら「ひゃ!」と情けない声を上げて我に返った。
「ごめんごめん。どうした?」
「ルネさんのこと想像して感傷に浸ってたっしょ。ダメだよ〜?あれはナツの女なんだから」
ジェナはバックミラー越しに言葉で舐める様に言った。
「えっ、いやその、そんな……ルネさんのことは考えてないよ??」
モーリスはキョドリ散らかした。実際に彼はルネのことを考えていたわけではなかったが、彼女の容姿端麗さやあの上品な言葉遣いと所作を思い出して少しだけ胸が高鳴ってしまったのだった。
「――で、どうしたんだジェナ。何か言ってたろ」
モーリスに聞き返されたのとほぼ同時にジェナは手元からスニッカーズを取り出し、その細長いパッケージの端にあるギザギザしたノッチ部分を鋭い犬歯で食い千切ると窓を開けて、「ペッ!」と吐き捨てた。
「ん。これから会う人なんだけどさ」
「ザオさん……だっけ?」
「そ、ザオ姉。初対面ではちょっと気をつけてやって欲しい事がある」
ジェナはひとまずそこまで言ってから再び犬歯を使って今度はスニッカーズの本体であるチョコレートバーを食い千切る。ウルフカットの髪型も相まってまさに野獣の様ではあるが、この狼女がジニーの暴走にいつも歯止めを掛け、ジニーと相性が悪い相手との通訳の役割も担って必要以上の衝突を回避している。獰猛そうな見た目に似合わず知的な彼女の存在にモーリスは安心感を得ていたし、それはジニーも同じだと思う。
しかし、今日は何だか少しだけ様子が違った。ジニーは珍しく口数少なく不機嫌そうに窓の外の遠くを眺め、ジェナもどこか緊張している様に見える。スニッカーズを貪り食うのはそれを隠そうとしている様にも思えた。
「ジェナ……何を気をつければいいんだ?」
例によってビビりモードのスイッチが入ったモーリスが青ざめながら訊ねた。彼も彼で、このただならぬ雰囲気に、まだ何も起こっていないにも関わらず気が遠くなっていく卒倒感を薄っすらと感じていた。
「いやまあ、大したこたねぇよ。ただ何て言うか……第一印象が大事な奴なんだよ、マジで」
「それはどういう……」
そんなにヤバい奴なのか?とモーリスの表情が緊張と恐怖に飲まれ、大理石でできた彫像の様に白ざめ硬直してゆく。あまりに白くなりすぎて血管の色が薄っすらと浮き出てくるのがマーブル模様みたいに見えて、更に大理石感が引き立てられた。
ジェナはそれを見逃さずに「ああ悪い悪い。回りくどかったよな」とフォローする。
「簡潔に3つ言うよおっさん。まず1個目に、『ザオ姉から名前を呼ばれるまで目を合わせない事』。おっさんの名前はもう伝えてある。必ず向こうから名前を呼んで来るから、呼ばれたら返事をして、それからゆっくりと奴の目を見ろ。必ず、ゆっくりとだぞ」
「うん……」
何かこえーよ、とモーリスは心の中で呟きながら泣きそうになっていた。
「で、2個目な。『向こうが名乗るまで、ザオ姉を名前で呼ばない事』。ザオ姉は自分が名乗った覚えの無い奴から名前を呼ばれるのをマジで嫌がる」
「オーケー。わかった……」
モーリスの声はとうとう震えていた。ビビり過ぎだろ、とバックミラー越しに彼の怯えっぷりをチラ見したジニーが舌打ちしながら言った。
「よし、最後だ。3個目、『ザオ姉とお互いに手の届く間合いにいる時と、それからザオ姉にじっと見られている時、おっさんは急な動作をしない事』これは絶対だ。ザオ姉の様子っつーか雰囲気?オーラ?……をつぶさに感じ取って、奴がおっさんという存在に慣れるまでスローモーションで動け。何度も言うけどこれは絶対だよ?」
今の3つのルールを説明したジェナの様子から相当やばそうな奴だというのが窺える。モーリスの脳裏にさっきコンクリート塀に見た共喰いカラスと発狂シスターのストリートアートが交互に蘇り、恐怖心を一層掻き立てた。
「あのさジェナ」
気を紛らわせようとして咄嗟に、縋るようにウルフカットの後ろ姿に向かって声を掛ける。
「おん?」
「今日は何でまたそんな人と会うの?俺、今日がいよいよ自分の命日になりそうな気がしてきたよ」
やはり怯えているのが全身から滲み出ているモーリスであった。何しろ今日これから会うことになるザオについては『昔からの付き合い』としか教えてもらっていなかったのだから無理もない。『ザオ姉』と呼ばれていることから女性であろうと知ったのも今の今だ。
「いやまあ、別に」ジェナは溜め息をつく。
「元から時たま会うことにしてんだよ。業界内じゃあ大先輩だし」
「えっと、そうすると何なんだ。マフィア?それとも売人?」
「んー……まあ、それは本人から説明があると思うぜ。ただ、今おっさんが言ったのはどっちもハズレだな」
ますます深まる謎と不安にモーリスが言葉を失っていると、不機嫌そうに窓枠に腕を乗せてもたれかかったままのジニーがさらりと言ってのけた。
「スナイパーだよ。フリーの殺し屋だぜ。あいつは生まれてからそれしかやって来てねぇ」
「ジニー、そこんとこもザオ姉に話してもらいな」
ジェナに嗜められたのに反発してジニーは座席の陰からぬっ、と身を乗り出し、蒼い眼光でモーリスを捉えた。
「たぶん地球上で競わせても5本の指に入る殺しの腕だぜ?1発で脳幹撃ち抜かれた奴はもちろん、致命傷を負わされても絶妙に急所を外されて長いこと苦しんで死んだ奴もいる。あいつは――」
「よしな」
ジェナにぴしゃりと制止されたジニーはまた舌打ちをして相棒の狼女をひと睨みしてから、どすん!と助手席のシートに体重を落とし込んで座り直した。
「……もしもスローで動かなかったらどうなるんだ?」
モーリスは真っ白な顔色に目を見開いている。大理石の彫像そのものである。
「あー、まあ私らもいるし命までは取られないと思うけど……保証はしてやれねえからさ。だからマジで気をつけろな」
ジェナの言葉の裏にはやはりどこか緊迫した感があったが、それに「はん!」と鼻で笑ってのけたのはジニーであった。
「どーってこたねぇよモーリス。ふざけた真似しやがったら『その前』に両肩に風穴開けてやる。面と向かってんならあたしの方が強え」
威勢よく言い放ったジニーに対し、ハンドルを握るジェナは「ううーん」と首を傾げる。
「どうだろうねぇ。ザオ姉はハンドガンも暗器も達者だし、何なら素手でやり合ったとしても相当危ない相手なんじゃない?」
「あ!?」
それを聞いたジニーはギリリ、と歯軋りに苛立ち込めた。
「ジェナはさぁ……あいつにビビり過ぎなんだよ。本当にさぁ……あんなひょろっとしたババア、どーってこたないのにさぁ……」
「はいはい、そーかもね。ジニーも充分華奢だけどその割には力強いもんね!いい勝負かもしんないね!はいはい!」
ジェナがそう言い捨てると、ジニーはガバッ!と座席から身を乗り出し、ジェナに掴み掛かるフリをしたが相棒の狼女はその手に乗らず、ジニーの眉間を右手の指の腹でパチンとはたき落とした。
慣れた手つきで撃墜され、『ドガッ!』という派手な音と共にその華奢な体をシートに叩きつけられ、強制的に座り直させられたジニーは額を手で押さえながら恨めしそうにジェナをじっとりと見た後、不貞腐れて再び窓の外に顔を背けた。
それからは誰も何も喋らずに妙にゆったりとした……それでいて重々しい空気のドライブが暫くの間、このスラム街のストリートに続いた。
◆
やがてGクラスはタイプ・トンプの中心部に近いエリアにあるアイスクリームショップの小さな駐車場に停まった。丸いコーンアイスを模ったネオンの看板は昼間にもギラギラと点灯しており、『アブドゥル・アイスクリーム』という店名もまた煌々と輝いていた。
「よしおっさん。ここでザオ姉とおっさんの初顔合わせだ」
ジェナがサイドブレーキを掛けながらバックミラーから後部座席をチラリと見ながら言った。
モーリスはもう、すっかり血の気が引いた色になって固まっていた。「うん……」と蚊の鳴くような声を漏らした気がした。
「何でここで待ち合わせんだよホントによお……」ジニーが再び歯軋りをしながらワナワナと震えた。どうやらこのアイスクリームショップが気に食わないらしい。
「勘弁してやんな。ザオ姉にとっては思い出の場所なんだからさ」
「嫌がらせだろ、あんのババア……」
爆発寸前のジニーの震えによってGクラスの車体がガタガタと揺れている様な錯覚を覚えつつ、モーリスはなす術なく後部座席で大理石像に擬態していた。
「相変わらず後ろじゃビビり散らかしてるしよお……」
ジニーがバックミラー越しにモーリスを見る。冷たい蒼い瞳には憤怒の炎が轟々と燃えている。しかしモーリスはこの時ばかりはその緊張感が意識を繋ぎ止めてくれる気がした。
「ほらほら、おっさんに八つ当たりしない」
ジェナはそう言って制止した後、外の通りの方から駐車場に近づいて来る人影に気づいた。
「お出ましだぜ……。おっさん一旦顔を下げろ」
的確であろうジェナの指示にモーリスは素早く従う。こういう細かい所で、上官の言う事を速やかに実行していた軍隊での経験が活かされる。
「ガンくれてやれよ!バカリス!!」
というジニーの煽りは無視して、モーリスはジッと感覚を研ぎ澄ましていた。




