#18
祝賀会の次の日。蝉平夏はルネに東京をエスコートした後、巨大なアクアリウムが神秘的な海の世界へと誘うレストラン『アルテミス』でのディナーに招待した。
ブラックチップシャークやウミガメを筆頭にカラフルな熱帯魚が遊泳するのを眺めながら、二人は食事を楽しんでいた。
「素敵なお店ね。料理も美味しいし。ありがとう蝉平さん」
少女の様に弾んでいるルネに微笑んでから、蝉平は洗練されたデザインの水槽の中で悠々と泳ぐサメをしばらく目で追いつつ、
「喜んでもらえて良かった。最初は夜景が綺麗な場所でもと思ったんですが、こっちの方も落ち着いていていいかなと思いまして。それに私もビルは見飽きました」
と流暢なイギリス英語で返した。
「あら。もしかして蝉平さん、東京がお嫌いなの?」
ルネがワインを口元に持って行こうとするのを途中で止めた。
蝉平は「ふふ」と静かに笑って、
「面白い場所だとは思うけど……。でもまあ、長くいると息苦しいですね」
ため息混じりに一瞬だけ目を伏せた。
ルネはこの時にはまだ蝉平の本当の素性を知らなかったのだが、ふと見せたその表情から彼の今まで見て来たものがよほど壮絶なものであったのだろうと察しがついて、
「そうなの?」とあまり触れないようした。
「ええ。だからいつかは……」
蝉平は少しばかり感慨に浸ってから、夢を語り始めた。
「いつかは田舎の山の中でレストランでもやりたいと思ってます。本当にそこを知ってる人しか来れない……気心の知れた仲間しか来ないような、そんな店をやりたいなと。その仲間たちにも私の店を情報交換の場にしてもらって、そこからまた人の輪が広がっていく場所にできれば」
淡々と、それでいて無邪気に楽しそうに話す蝉平に、ルネは愛嬌を感じた。年上であるはずの彼が、放っておけない少年の様に見えてしまった。
「ねえ蝉平さん」
まだ将来の夢に思いを馳せていた蝉平との間に沈黙が流れた後、ルネはそっと声を掛けた。
「天使が通ったね。今」
そう言ってちらりと視線を宙に泳がすルネに蝉平は、
「えっ、天使ですか?」
と乗ってみせた。
「ええ。こんな風にいきなり静かになることをフランスではそう言い表すの」
「へぇ……それは知りませんでした」
ヤクザの幹部である自分の沈黙に天使が寄り添うとは皮肉なものだ、と内心で嘲笑った。
◆
「ねぇナツ」
「ん?ああ、すまんすまん」
蝉平は我に返った。あの時から10年後の現在、『Lily's Kitchen』のテーブルでワインボトルを立てて向かい合っているルネが寂しそうにしていた。
「ひとりで何を思い出してたの?」
ルネが首を傾げた。
「最初に会った日の事と、『アルテミス』で天使が通った日の事さ」
「ああ、そうだアルテミス!あのお店、まだあるのかしら」
「さあね。でもあそこのアクアリウムで泳ぐブラックチップは見応えがあったなぁ」
「ブラックチップ……もしかしてあのサメのこと?」
「そう。ヒレの先に黒い模様があったろ?だからブラックチップシャークって言うんだ」
「そうなんだ」
「もしかして模様に気づいてなかった?」
「私はウミガメの方が好きだったから」
「そっか」
「……ねぇナツ。あなたはもう東京には帰らないの?」
不意に聞かれてギクリとしたが、
「そうだねぇ。もうニューヨークに根付いちゃったからな」
と誤魔化した。
「そう……。もう一度アルテミスに連れてって欲しかったな」
ルネがそう言うと、蝉平が詫びる様な眼差しを彼女に向けた。
「気に入ってくれてたんだね。今度は息子さんを連れて行ってあげたらいい」
「うん。もう少し大きくなったらね。きっと喜ぶと思う」
「その時は息子さんがサメ派かウミガメ派か、どっちだっか教えてくれ」
冗談めかした蝉平にルネは「何それ!?」と声を上げて笑った。
「相変わらず面白いね、ナツって」
「好きなんだよ。おちゃらけるのが」
「知ってるよ!」
とツッコミを入れると、蝉平は満足そうに頷いた。
時計の針は進んでいく。
「ルネ、あのさ……」
その時計の針が進むのを音で聴いていた蝉平がゆっくりと瞬きした。
「何?ナツ」
「今日は……ていうかもう昨日だけど、本当に来てくれて良かった。今どうしてるのかなって、気になってたんだ」
ふん、とルネは鼻を鳴らした。
「私はその100倍の心配をしてたわ。あなたの方からは何にも連絡してくれないし」
「いやいや、面目無い」
決まりが悪そうに俯いた蝉平に、ルネは思い切って言った。
「……ねえナツ。わたしと一者にパリに行かない?」
ルネはテーブルの上で重ねられていた蝉平の手をそっと包み込むように握った。
「ルネ……」
「分かってる」
相手が何か言い掛けるのを、ルネは遮って続けた。
「ナツが私とは違う世界の人だってことは分かってる。今もそうだってことも。でも今の私には貴方をそこから連れ出せるわ」
「それは堅気の発想だ」
蝉平が一刀両断した。
「この世界でそんな取引は通用しない。いいかルネ、よく聞くんだ。こっち側にいる人間は一度関わってきた奴を絶対に手放したりしない。いくら金を積んでも、例え優秀な弁護士を雇っても、警察や軍隊が護衛についたとしても、取り込まれるのは君の方だ」
久々に見た余りにも冷たい蝉平の眼差しにルネは心臓を射抜かれる感覚に陥って、思わず手を離した。
「確かに今の君は大きな力を持ってる。でもそれが仇になるように仕向けて、利用するのが裏社会のやり方さ。力のある奴は守るものも大きいからね。それをチラつかせるだけで、大体が拍子抜けするほど意のままに動く。それを知っていて平気でやるのがこの世界なんだ」
息を呑んで固まってしまったルネに、蝉平は念を押す。
「あの時君に怖い思いをさせたのだって、その因果さ。君はいつも気遣って、怖くなかったと言ってくれるけど、あの時俺達が生き延びたのはまさに天使の気まぐれだよ。悪魔かもしれないけどね」
取り憑かれた様に話す蝉平の声はフラットに落ち着いている。この男はいつ死ぬか分からないことに慣れているのだ。
ルネは背筋が凍ると同時に、垣間見た暴力の世界の光景を思い出した。
あれはフランスへの帰国を次の日に控えた夜。初来日の最後の思い出にと、蝉平の車に乗ってもう一度『アルテミス』に向かっていた時だった。
「訳が分からなかったろ?突然黒塗りの車に囲まれて、幅寄せされて、あろう事か発砲までされて。防弾仕様の車ではあったけどあの時は社長がたまたま近くにいてボディガードを回してくれたから助かった。今でこそあんな風に命を狙われる事は無くなったけど、それこそが暴力の傘の下にいる証拠の様なものだ。この世界に一度足を踏み入れて、誰かと関わってしまえばどこへ行ってもそうなんだ」
蝉平はそう締め括って、ワインを一口流し込んだ。
すっかり黙り込んだルネに、蝉平は正直なところホッとした。
これでマフィアと対峙する気も失くなっただろう。そもそも小さな子供のいる彼女がそんな事をするべきではないのだ。まして自分なんかの為に……。
「そっか」
と一言だけ、天使が通り過ぎてからルネはそう言った。




