#17
ルネがジニー達と乾杯した音が店内に響いて、反応したモーリスがピョコンと上体を起こした。
「おっさん、おはよ」
グラスを傾けながらジェナがモーリスを一瞥した。
「おいモーリス、見ろ見ろ。10年後のあたしだ」
一緒にテーブルを囲むジニーが指差す先を見ると隣に物凄い美人が座っていて、目礼して来た。もう、その僅かな挙動と佇まいがこの上なく上品であった。
「うぉっ!?え、あの、どちら様で?」
「ナツの彼女のモネさんだって」
「ふふ。ルネです。それに彼とはただの昔馴染みよ」
「またまたぁ〜」
この言い方のやらしさ!酔ったジニーのタチの悪さったらない。一味の下っ端としてあまりに申し訳なくなったモーリスは覚醒早々にバツの悪い思いをしたのであった。
「ほ、ほらジニー。失礼だよ。すみませんモネさ……はっ!あっ……ルネさん」
がっしりした体格でキョドるモーリスを見てルネとジェナから同時に吹き笑いが出た。
「ははは!間違えて覚えてんじゃねーよおっさん!あんたが一番失礼だよ!!」
「隣にモネさんがいて良かったなぁお前モーリス!手ぇ届く間合いだったらぶん殴ってやってるぜ!」
巻き舌でそう囃し立てるジニーに背を丸めるモーリス。本人達にとっては最早ルーティンとなっているこのやり取りであったが、それを知る由もないルネは酷く哀れに思って人知れず心を痛めた。
「おいおい、あんまりモーリスをいじめないでやってよ」
厨房からトレンチを抱えて出てきた蝉平は、ミルフィーユを乗せた皿を人数分、テーブルの上に乗せた。ミルフィーユの傍には剥いたフルーツがカラフルに盛り付けられていて、食べるのが勿体ないくらいだ。しかし、
「あっ、凄ぇ!うまそ!!」
叫びながら口に流し込み丸呑みにして見せたジニーが無常を体現した気がした。
「それはサービスだよ。ワインの追加は?」
「奢りならボトルで2本ずつ。ボトルで!」
洒落たスイーツよりも酒を呑ませろと言わんばかりにジニーは動乱している。
「それはお代を頂くよ」
と、蝉平は静かに笑って厨房へ戻って行った。
「世話好きなのね……。相変わらず」
麦わら色の長髪が、白く長い首筋に沿ってサラリと流れている。蝉平の背を見送る彼女の蒼い眼が懐かしそうであった。女性特有の強さと儚さが溶け込む様な瞳にモーリスはドキリとした。
「昔っからあんな感じなんすか?」
ジェナがミルフィーユをフォークで刻みながらルネを見た。
「ええ。でももう少しピリピリしてたかも知れない……昔はね」
「へえ!ナツが?」
ジニーが興味津々にしている。
「ええ。ちょっとだけよ。彼は何て言うか……ビジネスマンだったから」
「ああ、ジャルベールさん気ぃ使わなくても平気っすよ。うちらももう長い付き合いなんで」
ジェナが言った。
「そう?」
微笑み返すルネの口元を彩るローズピンクのルージュが映えていた。
◆
時計の針が11時を回った頃。
追加の酒を全て平らげ、すっかり意識が人の世を超越しハイになったジニー達は上機嫌で、
「じゃっ!ルネさん、また〜」
と雄叫びを上げながら店を出て行った。
「……嵐の様だったろ」
蝉平がやって来て、テーブルの上を片付け始めた。
「ええ。でも楽しい子達ね」
「まあね」
手際良く片付けを済ませた蝉平は、今度は厨房からワインボトルを一本、磨き上げたグラスと一緒に持って来て、ルネの向かい側に座った。
「あまりゆっくり出来てなかったろ?……いいかな」
蝉平がボトルを軽く掲げて遠慮がちに尋ねた。
「もちろん」
ルネが微笑むと、今日一番の極上ワインがグラスに注がれた。
改めて再会を祝して、グラスを重ね合わせた。
心地良い高い音が静かに鳴って、二人はお互いに見つめ合いながらまずは一口味わって、それから言葉を探した。
「ルネ」
ぎこちなく蝉平が呼びかけた。彼のダークブラウンの瞳は感情を内へと押しやっている気がして、暗闇に淀んでいる様に見えた。
「うん、何?」
ルネはそれでも心が通じ合うのを信じたくて、蒼い瞳で闇を照らそうと真っ直ぐに眼を合わせた。
「いや……。よく来てくれたな」
何か言いかけて途中でやめてしまった蝉平に少しだけがっかりする心をしまい込む。
「どうって事ないわ。さっきも言った通り、ビジネスのついでにあなたの顔も見ておこうかなってだけよ」
「そっか。お子さんは元気?」
「ええ」
「いくつになった?」
「もうすぐ4歳」
「君の子なら賢いだろうな」
「まだまだ甘え盛りよ。こっちへ来る時だってグズって大変だったんだから」
「ん?連れてきたのかい?」
「あー違う違う。フランスに待たせてきた。『お仕事してくるね』って話をした時に……ね」
「はは、そうか」
「あなたの方はどうなの?」
「俺か?ご覧の通りだよ。小さな店を営んで、破天荒な奴らと知り合って、退屈の無い日々を送ってる」
「そう、良かったじゃない」
「う〜ん、どうかな」
苦笑いする蝉平が何だか可笑しかった。
「あら、ダメなの?」
「ダメって言うわけじゃないんだけどさ。あんなドンチャンな奴らだから……。こないだは店を壊されかけた」
「ええ!?何それ」
ルネは驚いて、思わず笑ってしまった。店内に流れる音楽が影を潜める。
いつの間にか時計の針は進んでいた。それは今日が昨日となって過ぎ去り、明日が今日として開かれたのを表していた。
瞬間的な静寂がその場を満たして、二人の間に心地良い空気が流れた。
「ああ、天使が通ったね……」
ふと蝉平がそんな事を言った。不意の沈黙を例えたフランスのことわざである。
まだ覚えてたんだ。
ルネは密かに胸を弾ませた。
「なあルネ」
「ん?」
「すまなかった」
蝉平がグラスに目を伏せたまま、思い出したように言った。
「別に。私は初めから何とも思ってないわ」
「分かってる。でも……」
蝉平は、自分の過去がワインの紅に投影されるのを視た気がして、自分を責めた。
「怖い思いをさせてしまった」
「あら、私はエキサイティングで楽しかったたけど?あの時のナツはすっごく鋭かったし。これでも私は貴方に痺れてたんだから」
ふふ、と蝉平が照れ隠しの笑いを溢した。
しかしグラスに広がる赤い水面は容赦なく彼の時を引き戻す。
(10年前か……)
◆
10年前。
かつて日本のとある組の傘下で会社を経営していた時にルネと出会った。東京の高級ホテルで開催されたビジネス関連の祝賀会に参加した時だ。当時、組で幹部扱いされていた蝉平は、拳銃を忍ばせたボディガードに護られていた。
(まったく気色悪いもんだ)
国内外の財界の重鎮や外交関係者も出席するパーティにボディガード達も配慮して、目立たぬ様にある程度散り散りになって遠巻きに護衛していたものの、それが腹の底から湧き上がってくる本心であった。
「Hi、ナツ!」
ウエイターからワインを受け取った丁度その時、かねてより付き合いのあった中年のイギリス人に声を掛けられた。彼もまた世界的な企業の役員で、蝉平のバックブランドの件も知っていたし彼の手掛ける非合法的なビジネスにも多少、噛んでいた。
「ああ、お久しぶりです。聞きましたよ。また一つ成功を収めたられたそうで」
おめでとうございます、と軽い祝辞を述べつつ、こいつがマーレイという名前だったのをやっと思い出した。
そのマーレイは、ハッハッハッ!と気持ち良さそうに、
「いやいや私だけの力じゃァない。ついてきてくれた部下達と、最後まで信じてくれた社長の決断があってこそだ」
「その間に貴方の働きがあっての恩恵ですよ。社長はもう、貴方を手放せませんね」
「ハッハッ、よせよせ〜!」
謙遜したつもりなのだろうが、その面は明らかに『だろぉ?』と言っていた。絵に描いたようなドヤ顔が可笑しくて笑ってしまったのだが、愛想笑いとしてマーレイをさらに上機嫌にした。
「ああ、そうだナツ。君に紹介したい人がいるんだ」
マーレイがそう言った時に、初めて彼の後ろで控えていた白人の女性に気づいた。
「こちらはルネ。私の友人で少し前に事業を始めてね。もうすでに軌道に乗り始めてる。君にも会って欲しいと思っていたんだ」
「ルネ・ジャルベールです。初めまして、蝉平さん……」
綺麗にお辞儀する姿に育ちの良さと物怖じしない賢さが見て取れた。
「はじめましてジャルベールさん。失礼ですがご出身は?」
「パリです」
「ああ、素敵な場所ですね。何度か行った事がありますが、今でも懐かしいです」
「あら嬉しい。是非またいらして下さい」
二人の様子を見てニヤけていたマーレイは遠くに別の仲間を見つけて、
「ちょっと向こうにも声掛けてくるわ。二人で語らっててくれ」
と言ってパーティの人混みに紛れていった。
「場所を移りましょうか」
蝉平は近くにあったソファにフランスの若き女史をエスコートした。
「東京に来るのは初めてですか?」
腰を下ろして一息ついてから、蝉平は適当に話を振った。
「ええ、初めて。まだ街の様子もよく見れてないわ」
「そうですか。ご滞在はいつまで?」
「1週間くらいは羽を伸ばすつもり。昨日の朝には着いたんだけど、もう疲れちゃって」
「ああ、そうなんですか」
「……ところで蝉平さん、完璧なイギリス英語だけど、留学でもされてたのかしら」
「いえ。大学時代の恩師がイギリス人でして、その方に英語を教わったものですから」
「へえ、そうなの?それにしたって流暢ね」
「恐縮です。でもジャルベールさんの英語も綺麗だと思いますよ」
「そんな事ないわ。よくフランス訛りが強いって笑われるもの」
「そうでしょうか。私からすればそれはそれでお洒落な気がして羨ましいですが」
思った通りを言葉にする蝉平にルネは無邪気に笑い、
「蝉平さんって面白いのね。お話ししてて楽しいわ」
膝の上で頬杖をつきながら蝉平を見つめた。青い眼光には芯の強さが顕れていて、透き通った白い肌の顔によく映えていた。
「それは良かった」
蝉平がワインを一口流し込んだ。絹の様な舌触りと厳かな味に内心うっとりしながら、マーレイがルネを紹介してきた時の言葉を思い出していた。
『私の友人』ということは、彼女は蝉平の正体を知らされていないのだ。それは同時に蝉平としても、知られぬ様に努めなければならない事を意味する。
(やりにくいなぁ……)
こういう時はいつもそう思う。蝉平達にとって人付き合いとは、何にしても『使い分け』が重要なのだ。これがなかなか煩わしい。煩わしいが、マーレイがわざわざ紹介して来たと言うことは、行儀良くしておけば得もあるのだろう。
「ジャルベールさん」
「ルネでいいわ」
「失礼。ルネさん、明日は空いてますか?」
「ええ」
「そうですか。もし良かったら、東京を案内させてくれませんか?」
蝉平は女性的な親切さを意識しながらルネに微笑みかけた。
「あら、本当?それじゃあお願いしようかしら」
ルネはその微笑みに、いつかルーヴル美術館で見た名画『洗礼者聖ヨハネ』を思い出し、その誘いに乗った。




