始まる前から終わっていた、二人の季節(原案:砂波 結事)
始まる前から終わっていた二人の季節は、涙を流すことすら許されずに過ぎ。
やがて何気なく、日常に溶けていく。
初めて彼女を見た時に思った。
こんな可愛いらしい人を幸せにする事が出来たら、どれだけいいだろうかと。
そんな彼女を今、僕は無感動に抱きしめている。
感情の底に横たわる、哀惜の念を仄かに感じながら。
「一人の夜がこわいの」と、彼女は言った。
昼が眠り、夕闇がゆっくりと西の空の輪郭を削って夜が訪れると、彼女は何かを思い出した様に、時折、底知れぬ孤独に投げ込まれる事があった。
すると深夜に電話が掛かってくる。
僕はその度に心を揺らし、悔恨の様なものを味わいながらも、「直ぐに行くよ」と答え、車で彼女のマンションに向かう。
彼女が本当に求めているのは、僕ではない。
その事は、嫌になる位に分かっていた。
何も気付かない振りをして、彼女の傍にいる事が出来たらどれだけいいだろう。
近くの駐車場に車を預け、足早に彼女の部屋の前まで赴き、扉をゆっくりと開ける。扉には、いつも鍵は掛かっていない。
そして明りの灯らない、静けさが息を殺している様なフローリングの廊下を進み、リビングに至る薄っぺらい扉を開く。
そこで僕は、真っ暗な部屋の隅で蹲まっている彼女を見つける。
今夜もそうだった。
やがて視界に僕を認めた彼女は、潤んだ瞳で僕を見ると、
「田中……くん。きて……くれたんだ」と言う。
すると目に溜まった涙は、窓硝子に打ちつけられ滴り落ちる雨の様に……。痩せた、暗闇の中でも青白く光るその顔に、筋となって流れる。
僕は頷き、床に片膝をついて彼女と視線を合わせる。
目を合わせると、二人の間の親密な空気が濃くなる。
「ねぇ、抱きしめて」
その一言に胸を痛めながらも、「うん」と言って、彼女を抱きしめた。
彼女は僕に縋りつく。
「一人にしないで……ずっと傍にいて」
抱擁の中で、熱い安心の吐息を漏らしながら彼女は言うと、小さな頭を僕の喉の辺りに押し付けてくる。
だけど僕は彼女の頭を抱えたまま、何も答える事が出来ない。
そうして一人沈黙を保つ。
間違ってしまった恋の行方を、苦々しく思いながら。
♯ ♯ ♯ ♯ ♯
広川真鈴は、僕の友人の恋人だった。
陽光 麗らかな、ある晴れた日の午後。大学のキャンパスで奴は、他学部で奴と同じサークルに所属している彼女を僕に紹介した。
「よぉ田中、こいつ俺の彼女。真鈴っていうんだ」
「こんにちは」
彼女を一目見た時。
僕は彼女から、視線を外す事が出来なかった。
「こ……こんにちは」
生涯で初めて、いや、恐らくただ一度。
一目で恋に落ちるという経験をした。
だが奴は彼女の事を「未来の妻」と僕に紹介した。
だから僕は内心の動揺を悟られない様に、「そうか」と静かに答えた。
「悲しませる様な事をするなよ」と。
言葉通り、奴は大学を卒業して保険会社の営業の職に就くと、その数年後に彼女と婚約した。同棲して挙式の為にお金も貯めている様で、大学の友人が主催した飲み会に顔を出す二人は幸せそうで、眩いばかりに輝いていた。
しかし、式の一か月前……奴は突如として姿を消した。
二人で貯めたお金を持ち、婚約者だけを残して。
大学時代にギャンブルにはまり、巨額の借金を抱えていたと知ったのは、後になってからだ。その事が切っ掛けとなり、彼女は心に深い傷を負ってしまった。
「広川さん、婚約相手に捨てられたらしいよ」
「うっわ、悲惨」
彼女を励ます名目で開かれた、大学の友人同士の飲み会。関係ない奴がそこに混じり、小さな声でそう呟いた時、僕は今まで上げた事のない種類の声を上げた。
「おい……お前誰だよ。なんでここにいるんだよ? うせろよ!」
自分自身に驚いた。
この様な憤怒が、激情が、凡庸な自分から湧き上がる事に。
だがそんな僕を、隣の席に座った彼女がゆっくりと制した。
「田中くん……いいの」
「え……?」
「いいの、本当の……ことだから」
彼女は皆の前では、気丈に振舞い、儚い笑顔すら咲かせていた。また正常な社会生活を送っているようで、職場にも休まず出勤しているらしい。
でも僕は、悲しいのに笑ってみせる彼女を見ると辛くなった。
自分が悔しかった。彼女の幸福に何も貢献できない自分が。
そんな彼女からある日、深夜に電話がかかってきた。
しかし彼女は電話口では何も言わなかった。
「………………」
「広川……さん?」
震えた、掠れた息がだけが、受話器から聞こえてくる。
やがて電話は切れた。
僕は居ても立っても居られなくなり、今も尚、奴と同棲していたマンションに住む彼女の元を訪れる。
だが呼び鈴を押しても反応がない。思わず扉に手をかけると施錠はされておらず、玄関口から伸びる廊下には、暗闇が至る所から這い出して来ていた。
ある禍々しい予感に、背中から汗が滲み出て、玉となって流れた。
そのまま暗い廊下を進むと、彼女は糸を失った人形の様に、部屋の片隅で脱力していた。
そして弱々しく面を上げ、「田中……くん」と僕の名を呼んだ。
僕は安堵の息を吐くと無理やり笑顔を作り、彼女に歩み寄る。
すると部屋の空気は戸惑う様に震え……やがて縋り付く様な息を吐いた。
「一人に……しないで」
その瞬間――。
酔う様に立ちこめる彼女の濃密な気配の前に、雪解け時の泉の様にあらゆる感情が一度に湧きあがり、僕は表情を失った。
初めて彼女と出会った時の、燃え上がる様な切ない思いが甦る。
それと共に叶わぬ恋と気付き、思わず拳を握った悔しさも。
『こんな可愛いらしい人を幸せにする事が出来たら、どれだけいいだろうか』
気付くと僕は、前後の見境を忘れて彼女を強く抱きしめていた。
「大丈夫、大丈夫だから」
と、何事かを喚いて、
「僕が、僕が傍にいるから」
と、細くしなやかな彼女の体を……。
結論から言えば、僕はその時、彼女を抱きしめるべきではなかった。
彼女を、悲しみと二人きりにすべきだった。
そこで彼女は嘆き、苦しみ、悶え、孤独の底に叩きつけられる事で初めて、現実を受け止める事が出来る。
新しく生き直すことが……。
しかし、僕は彼女を抱きしめてしまった。人肌の温もりを与え、一時的な安寧の中で、その作業を中断させてしまった。
僕が弱いから。
本当に彼女の事を考えず、ただ彼女に触れたいと願ってしまったから……。
その結果、僕は彼女の現実を奇妙に歪めてしまった。
僕はその晩以降、彼女と共にある事で、彼女の孤独を癒した。
そればかりでなく、彼女を支え、助けた。
それが僕にとっては限りない幸福だった。
彼女に頼られ、求められ、その温もりに触れる事が。
また休日には、二人で何処かに出掛けた。
外で待ち合わせ、レストランで食事を取り、恋人の様に手を繋ぐ事も。
その事で、彼女は健やかに笑う様になった。春を迎えた少女の様に。
そして彼女は、嘗ての現実を、悲しみを一時的に忘れた。
池に張る薄氷の様に、それは新たな日常に覆われてしまった。
だがその薄氷は時々割れる、亀裂が入る。
彼女が一人の夜にそこを覗きこむと、彼女は何か悪霊めいたものに囁かれ、嘗ての日々を、悲しみを思い出す。
彼女の中には、死にきれぬ奴への想いが残った。
そして僕を呼ぶ。一人にしないでと。
その瞳に僕を映し、奴を見ながら……。
彼女は一見すると、穏やかで幸せそうで、満たされている様にも見えた。
だがその実、彼女はいつまでも奴の幻影を見ていた。
その事に、ある日僕は気付いてしまった。
彼女が僕の腕の中で眠ってしまった時、ベッドに移そうとすると彼女は囁いた。奴の名前を。涙交じりに、だがとても満たされた様に。
「戻って……来てくれたんだね」と。
行き詰まりだった。どれだけ僕が彼女を愛しても、それは決して彼女の心に届く事はない。
このままじゃ、何も変わらない。
じりじりと焦げ付く様な、焦燥感だけは胸にあった。
しかし僕は彼女に求められれば、深夜でも出掛けて行き、彼女を抱きしめ続けた。どうしても、彼女との日々を捨て去る事が僕には出来なかった。
いっそ何もかも忘れる位に、彼女を抱けたらいいのに。
でも僕はそれをしなかった。それだけは……どうしても出来なかった。
♯ ♯ ♯ ♯ ♯
そんなある日、会社帰りの町中で、僕は大学時代の友人に出会った。
彼は、何かを嫌悪する表情で、吐き捨てる様に言った。
「田中……お前、同情のつもりかよ?」と。
「同情?」僕は尋ね返す。
彼はそれには応えず、呆れた様な顔をして踵を返し、僕の視界から消えた。
それから僕は、重苦しい空気で満たされた地下鉄の車内で、暗く面を映す窓ガラスを見ながら彼の言葉を反芻した。
僕が彼女に抱いている感情は果して、同情なのだろうか。
自分自身の心の動きというものが、分からなくなり始めていた。
怯える感じを振り払う様に、頭を左右に振る。
いや、そんなことはない。
僕は彼女と出会った時から、彼女に――。
『一人に……しないで』
するとあの時、彼女が僕に縋りついてきた日の光景が脳裏に浮かび上がり、僕は僕の現実と対峙する事になる。
激しい動悸を覚えると共に、視界が揺れ動き、つり革を掴む手に力が入らなくなる。
やがて現実が僕をすっぽりと覆うと、彼女への印象が一度に歪み、乱れ始めた。その反面、思考は奇妙な冷静さを保ち、ある事実を僕に告げる。
僕は彼女を、幸せに出来ればいいと願っていた。
だけど今、こうして自分の中の想いを取り出してみると……。
そこには……。
始ってもいない一つの恋が、実る事さえ、陽が当たる事さえなく、ただ枯れていった事を僕は知った。
その夜、僕は連絡もなしに彼女のマンションを訪れた。
彼女は少し驚きながらも、喜んで僕を迎え入れた。
幸福そうに微笑みながら、その瞳に奴の姿を映して。
「田中君、突然どうしたの? ちょっとビックリしちゃった」
「広川……聞いてくれ」
僕は玄関口に佇み、俯いた顔を上げて、彼女に告げた。
恐れに体を震わせ、得体のしれない悲しみと怒りに体を強張らせながら。
「僕は……奴じゃないんだ」
すると彼女の時間は止まり、瞳から光が消えた。彼女を彩っていた感情が、虚無の中へと吸い込まれていく様に表情を無くす。
だが次の瞬間には、彼女は彼女を必死で取り戻した――。
「え? あ、当たり前だよ。田中君は、田中君で、そんなの……言うまでも……」
――つもりだった。
しかし言いながらも彼女は知らず、涙を流していた。
「あれ? ちょっと待ってね。やだな。料理の支度してたから、それで……」
「広川……僕はあの日、君を一目見た時に――」
僕は一つの決意を抱き、一歩を踏み出す。
だが彼女は、僕の言葉など耳に入っていないかの様に、
「もうヤダ、恥ずかしい。ちょっとゴメンね」
涙をぬぐうと、何でもない日常を再び始めようと必死で取り繕い、笑顔を向けた。それでも構わず、僕は続ける。
「でも君は、今でも奴の事を考えてる。僕じゃないんだ、君が求めてるのは――」
「あっ、そうだ! 今日は田中君の好きなワインを開けようよ。明太子があるからサワークリームと混ぜて、バケットを買ってきて、ね、そうしよ! 今、お財布取って来るからそこで――」
だが彼女は僕の言葉から尚も必死に逃げた。決して目を合わせ様とはせず、視線をどこか玄関の片隅に向けたまま話を自己完結させると、そのまま財布を取る為に踵を返す。
「待ってくれ広川! 僕は、僕は奴じゃ――」
「いやっ!!」
彼女の肩を掴もうとすると、彼女は突如として声を張り上げた。そして朦朧とした目で、体を病的にゆらゆらと揺らしながら、僕を見上げると……。
「一人に、一人にしないでよ! 約束……約束したじゃない」
湿った叫び声を上げ、僕に抱きついた。
「一人に……しないでよ」
そんな彼女を胸に収めながら、僕は悲しい感慨の中で考えた。
僕はどこへ行こうとしていたのだろうか、と。気付くことを恐れ、彼女の無くしたものを取りに行くのだと、自分の無力すら、見ない振りをして……。
『よぉ田中、こいつ俺の彼女。真鈴っていうんだ』
『こんにちは』
彼女を初めて見た時。
僕は彼女を幸せに出来たら、どれだけいいだろうかと思った。
それは殆ど、淡い灯火の様な希望だった。
叶わぬ夢だと、直後に思い知らされた。
そして今、奴は彼女の世界から消え、取り残された彼女と、僕だけがここにいる。僕と彼女の二人。夢見た光景。ありえなかった世界。
それなのに僕は、ただ僕の幸せだけを考え、彼女を幸せにするどころか、不幸に……。
もしあの日に戻る事が出来たら、僕は彼女を抱きしめずにいられただろうか。
「いつも一緒にいられる訳じゃないけど……少なくとも、話なら聞いてあげるよ」
そう微笑んで彼女の隣に座り、自分を保てただろうか。
無理だ。
彼女が彼女であって、僕が僕である限り。
それは頭で思い描けるだけであって、全く現実的ではなかった。
僕は例え、何度その過去を繰り返そうとも彼女を抱きしめるだろう。
そんなことを、彼女の啜り泣く声だけが聞こえる玄関で、僕はぼんやりと、頭上に灯る明りを見て考えた。
彼女を好きになった事が、そもそもの間違いだったのか。
いや、それは殆ど宿命だった。
ならばやはり……。
その瞬間、刺すような痛みを伴って、ある考えが閃光の様に僕の頭を過った。
それは奇妙な確信だった。真実は怯える感慨と共に、心臓から送り出された血液に乗って体内を巡る。
今、こうして僕と彼女の関係性が歪んでしまった事――。
それは僕たちがまだ、本当の意味で何事をも始めていないからに、他ならなかった。
崩れていく幻影の中で、何かを必死になって紡ごうとしていた。彼女は彼女の中で、そして僕もまた、ある怯えの中で、その彼女の心を利用して。
「は、はは、ははははは」
自嘲が零れ、どうして僕はそんな事に気付かなかったのだろうと、心が寒くなった。彼女に僕の想いを告げる事すらせず……臆病で。
焼ける様な熱い涙が、瞼の内に溢れて来る
だが僕は、決して涙は流さなかった。
「ねぇ、広川」
僕の呼びかけに彼女は言葉を返さず、ただ黙って顔を上げた。
彼女の頬にそっと手を添え、僕はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「一目見た時から、ずっと……君の事が好きでした」
すると彼女の目は見開かれ、「え……?」と言葉を漏らし、驚愕に打ち震えた様になる。
僕は困った様に眉根を寄せ、彼女に曖昧に微笑んだ。
分かっていたんだと思う。
そう告げた時の彼女の反応も……。
その時の彼女の瞳の色が、鈍く濁ったものになる事も。
「出来るなら……僕が君を幸せにしたかった。でも、上手く出来なくてゴメン」
「た……なか……く――」
「だから終わりにしよう。始まってもいない事だけど……僕は奴じゃない。そして僕は君のそんな心を知りながら、利用してたんだ。君の事が好きだったから。君に……触れていたかったから」
彼女の見慣れた瞳を覗き込むと、そこには今、間違いなく僕が映っていた。次第に水の膜が張られるとそれが光を反射し、きらきらと輝く。
綺麗だなと、僕はそう思った。場違いにそう思った。
「さようなら、広川。多分……僕は、君を愛したかったんだと思う」
彼女の手から力が抜け、彼女の体温が僕から失われる。
僕は踵を返すと、彼女を一人残し、玄関から外の通路に出た。
そして扉が閉まったのを確認すると、その場で徐々に足音が小さくなる様に足踏みをした。
そっと耳を澄ませる。
すると――。
「う……う、うあ、うあぁぁぁぁぁあぁぁぁ!」
マンションの薄い扉越しに、彼女の号泣する声が響いた。
僕はその叫び声にも似た彼女の泣き声を、後ろ背に聞きながら、よかったなと思った。純粋に。本当によかったなと。
彼女は孤独を受け入れ、ようやく声を上げて泣く事が出来た。その力が彼女に満ちていた事を知り、僕との日々も決して無駄ではなかったのかもしれないと思い、嬉しくなる。
時間は掛かるかもしれないが……。
彼女は奴がいない現実を受け入れ、やがて再び生き始める事が出来るだろう。
そう確信した。
そして彼女は彼女の新しい世界で、奴でも、ましてや僕でもない愛しい誰かを見つけ、恋に落ち、やがて――。
「くっ……」
胸中に安堵が広がると共に、こめかみが痛み、嗚咽が零れそうになった。僕は震えた手で口を覆い、もう片方の手を強く握り締める事で、その感慨をやり過ごすと……。
足音を忍ばせて、一人、その場を去った。
始まる前から終わっていた二人の季節は、涙を流すことすら許されずに過ぎていく。そしてまた、やがて何気なく日常の中で溶け……。
僕たちはそうやって、日々を生きていく。
原案:砂波 結事
https://m.youtube.com/watch?v=bNVWR0MBzOQ
上記は、原案となった音楽が投稿されたyoutubeへのリンクとなります。(*著作権者の了解を得ています)
環境によっては再生ボタンを押さずに音楽が再生される事があるので、ご注意下さい。