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「添島さん」

 めずらしく在室している部長が彼女を呼びつけて何か頼み事をしている。彼女は上司から書類を手渡されると、カツカツとこちらへ歩いて来た。出口に近い黒谷君と私の後ろを通り、ドアを開ける。廊下からびゅっと冷たい風が流入する。もう十一月だ。彼女は薄いブラウス一枚にスカートで、目に見えて寒そうに思えた。

「添島さん」

 私は彼女を呼び止め、背凭れにかけておいたカーディガンを、振り向いた彼女にずいと差し出した。

「寒いからどうぞ」

 そう言うと彼女は化け物でも観るような目つきで私をじっと見た後、「ありがと。ちょっと借りる」と言ってそれをひっかけて出て行った。


「松下さん、ありがと」

 添島さんはその場でカーディガンを脱ぎ、私に手渡した。その顔には、珍しく温度のある笑みが浮かんでいて驚く。 「あ、うん」と受け取り、そのまま背凭れに掛けた。

「あんな事されたかもしれないのに、楓ちゃん、優しいんだね」

 また横から、黒谷君が話し掛けてきた。

「添島さんが犯人って決まった訳じゃないし、寒そうだったから」

 黒谷君は「ふーん」と言いながらディスプレイに向かう。彼の大きな瞳に、ディスプレイの光りは黄緑色を反射していた。


 翌日は曇天で気温が一段と低くなり、冬に近づいている事を肌で感じられる日だった。昼休み、食堂へ向かうので私はカーディガンを羽織る。ふんわりと香る、添島さんの香水。彼女が素直にカーディガンを借りた事にも喫驚したけれど、笑顔で返却した事にも虚をつかれた事を思い出し、いくらか笑みが零れた。

 私はポケットに小銭と食券を入れ、黒谷君の後ろを追って居室を出た。

 廊下に片足を踏み出したせつな、軽い金属が散らばる音が響く。それは自分の足元からで、私はふと足と止めて振り返る。

「うそ......」

 小銭が数枚、散らばっている。

「何?」

 黒谷君がこちらへ戻ってきた。「お金、落としたの?」

 私は自分のカーディガンのポケットに手を突っ込んだ。どこかに引っかかったままだったのか、最後の一枚の百円玉が床に落ち、カランと音を鳴らしたあと、独楽のように周回し、その動きを止める。食券はニットの網目に入り込んでポケットにとどまっていた。

 呆然と立ち尽くす私の横で、小銭を拾い始めようとする黒谷君に気付き「あぁ、いいよ、やるから」と言って拾った。拾いながら脂汗が浮いて来た。

「どうしたの、手から落ちたの?」

 私はポケットに手を入れ、本来何も出てこないはずの部分から、指先を出して見せた。黒谷君はそこに視線を移し、唖然としている。

「切れちゃったの?」

 もう片方のポケットをまじまじと見た。切り口が一直線だ。逆さになった頭に血が上って行く。

「切られた、っぽいよね、この切り口」

 黒谷君が頭を付き合わせるようにして覗き込む。「ほんとだ」

 私は小銭を持つ手にぎゅっと力を込めて「誰だろう、こんな事するの」と震える声で彼の顔を見上げた。

「ねぇ、昨日その上着、あいつに......」

 私だってそれを考えていた。昨日彼女に、添島さんに貸したカーディガンだ。そのまま私は着る事なく、背凭れにかけておいた。だから今までポケットに穴が開けられている事に気が付かなかった。

 背中に冷たい氷を入れられたように、ぞくり、と鳥肌が立つ。

「どうしてこんな事、されるんだろう」

「俺からあいつに言っておこうか?」

 私は彼の目を見て懸命に手を振った。「だめだめ」

「そんな事したらもっと悪化するに決まってる。添島さん、が犯人だとしたら、私と黒谷君が仲良くするのが気に入らないんだと思うんだ。だから、黒谷君が私を庇ったら逆効果、でしょ。それに、まだ添島さんがやったって、決まった訳じゃないから、その......」

 まくしたてる勢いで離し始めたくせに尻窄みになる私の言葉を聞いて、彼は小さく数回頷いて「分かった」と低い声で言って頷く。黒谷君を責めているわけではないのに、彼は自分がしでかした事のように小さくなっている。

「とりあえず、そのカーディガン、見た目的には変じゃないと思うから、そのまま着て昼飯、行こうか」

 うん、と声に出して頷き、居室を出た。

 黒谷君と連れ立って食堂の席に着いた私を待っていたのは、添島さんの冷徹な視線だった。


「でもさ、誰にだってできたと思わない? この、カーディガンの切断」

 食堂からの帰り道、黒谷君は私の顔を覗き込み、「どういう事?」と訊く。

「昨日彼女からカーディガンを返して貰ってから、私がカーディガンを着るまでの間に、誰か一人しか居室にいない時って、あるでしょ。残業最後の人とか、朝一で来る人とか」

 あぁ、と彼は斜め上を見上げ、頭を巡らせている。

「朝一で来るのはいつも奈々美だよ。昨日の残業は俺だったけどね。となると、俺も容疑者だね」

 困ったように笑う彼を見て、やっぱり添島さんの仕業なのだと確信した。

「やっぱり彼女なのかな。こうして黒谷君と話してる事さえも、きっと彼女は気に入らないんだろうな」

 食堂からの帰り、彼女は売店に寄ってから戻るので、この場は見られていないだろう。

 ふーっと、黒谷君は長い溜息を吐いた。

「俺、もう疲れてきたよ、奈々美と付き合っていくの。あぁいう性格だからさ。俺には何の害も無いけど、俺の周りに迷惑かけちゃうからさ」

 困ったようにさらさらの髪を掻く。憂いを持った瞳もまた素敵だな、なんて場違いな事を考えてしまう。

「あのさ、私は別に迷惑とかそういうの大丈夫だから。負けてらんないっつーかなんつーか、ね」

 私も自信なさげな顔で、しかし笑って彼を見る。彼はちらりと後ろを向き、私の肩にふんわりと手を置いた。

「何か困った事があったら俺に相談してよ。奈々美の事だったら何とかできるから」

 彼が後を振り向いた事が気になり、私も後ろを振り返ると、離れた所にビニール袋を提げた添島さんがこちらに視線を向けながら歩いていた。

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