キス
水香は星を眺めていた。
屋上のコンクリートはひんやりとしていて、座り込むとちょっとお尻が冷くなる。
風は暖かさを含んではいても、夜はまだ寒さが勝っている。それでも、水香の屋上にいる時間は日ましに長くなっていた。
寒いときは、自分の部屋から毛布をひきずり、くるまって空を見上げる。
雲が出ていても、月が明るくて星が見えなくても、水香は屋上に出る。
ここは家族と独りの狭間だった。
足元には家族がいて、空には人はいない。その狭間にいる。
「少し、寂しいなぁ」
つい呟いて、水香は毛布に顔をつっこんだ。
こんこんっと後ろで音がした。振り向くと、悟がひょっこり顔をだしていた。
「兄ちゃん」
「飲まないか?」
その手には熱燗が用意されていて、思わず水香は笑ってしまった。
「いいよ。今日は海と飲まないのか?」
「実はすこし飲んできた」
大きな悟の体があらわれ、水香の隣に腰掛けた。
「ほら、あたたまるぞ」
お猪口を手渡し、そこに熱い日本酒をついだ。寒くて、湯気がいろこく空に舞い上がる。
「ありがとう。ほら、あたたまるぞ」
口調をまねながら、水香は毛布の半分を悟にかけた。
「悪いな」
一枚の毛布にくるまり、二人はお猪口で乾杯した。
水香はようやく心も体もあたたかくなるのを感じて、ほっとため息をついた。
つい嬉しくなって、頭を悟にすりよせる。
「昔からお兄ちゃんが欲しかったんだ。でも、弟や妹はできても、お兄ちゃんは無理だとあきらめてた」
「そりゃあ、そうだな。俺も母親が年くっているのを見て、もう妹や弟は持てないなって思っていたよ」
「二人とも願いがかなったな」
水香は嬉しそうに笑って、腕にからみついてきた。
悟の鼓動がすこし早くなった。
なさけない、これぐらいで、と心の中で呟く。
「海とはいつもどんな話をするんだ?」
「浜野さんのこととか、昔話とかかな」
水香についての話の方が多いが、そのことについては省いた。
「あれはびっくりしたぞ。知っていたのか?」
「うん」
「やっぱりそういうことは、男同士で相談するものなんだ」
「水香にはそういう悩みはないのか?」
悟はちょっと話をふってみると、水香は軽い調子で否定した。
「ないない。お店でからまれるのが関の山だ」
「そうか」
ほっとした。
「兄ちゃんは?」
「おっ、俺?」
「うん」
話をふったら、ふりかえされるのは当然のことなのに、悟は目一杯あわてた。
言うべきか。言うべきじゃないのか。
頭の中でめいっぱい二つの考えが回転していると、水香が先を制して話し始めた。
「沈黙するっていうことは、いるんだ」
「まっ、まぁ……」
水香は目を輝かせてにじりよってきた。
「なぁ、その人は美人?」
「……そうだな」
「性格は?」
「いい子だよ」
「今度、連れてこいよ」
「いや、それは」
「もしかして、片思いなのか」
悟は苦笑いをしながら、うなずいた。この二人の様子はどう見たって、明らかな片思いの関係だろう。
事情を知っている月が、笑っているように二人を見つめていた。
「そうか、気づいてくれるといいな」
「そうだな」
心から、そう思う。
それから何日かは、海も交えて屋上で飲んだ。
話はたいがい玲についてであったり、悟や海の昔話だった。水香は恥ずかしがって、昔のことについて多くは語らない。母親の手伝いばかりで特に話すことはないというのが、水香の言い分だった。
本当にそうなのだろう。
悟が見るかぎり、水香の生活はいつも変わることはない。家の手伝いか勉強か弟妹の面倒で、一日が過ぎゆく。水香はそれで十分に幸せそうだった。
狭い世界かも知れないが、苦労もあるし、笑いもあるし、やりがいもある。暇な学生生活をおくる他の高校生よりも、充実しているようにさえ見える。
しかし、それももう終わろうとしている。
最近の水香はそれを知ってか、ふと寂しげな表情を浮かべるようになり、兄弟に妙に優しかった。
華歩や加羅が手伝いの邪魔をしていても、笑ってそれを許している。
真希の世話もよくみているし、愚痴もいわない。
「言いたいことは言えばいいのに」
水香の姿を見て、海はぽつりとそう呟いた。
少し寂しいと言えば、きっともっとみんなが構ってくれるし、その中で甘えたいだけ甘えることができる。そうしてはじめて、家を飛び出す決心がつくだろうにと、悟は思わずにはいられなかった。
そして、海も悟も素直に、水香と騒ぎつくすことはできなかった。
なぜかそうした非日常的な行動は、水香が出ていくことに現実感を与えるような気がするのだった。
そうしている間に三月も半ばを過ぎ、悟は社会人になる前に騒ごうという仲間達からのお誘いを受け、家を出ている時間の方が長くなっていた。
代わりに玲がよく遊びに来る。
自分の家よりも気に入ったという彼女の言葉通り、眠る時間と学校の時間をのぞけば、ここにいる時間の方が長い。子供たちの遊び相手になってくれるため、水香の居場所はますますなくなっていた。
悟がいなくなり、海が玲にとられ、水香は一人でいることが多くなった。
それでいいと、水香は思う。
こうして自然に、一人ずつ離れていくものだと思う。
先ずは、自分が。
そして、海、華歩、果菜と。
悟もいつかは旅立つ。
家族はもう、もとに戻らない。
「はぁ……」
「何だ、橋本。溜息なんかついて」
所属していたテニスサークルの最後の飲み会で、悟はずっと溜息のつきどおしだった。
「尾崎、気にしないでくれ。恋の悩みだ」
「そういう話はぜひとも聞きたいな」
「尾崎君、よしなよ。橋本君、けっこう真剣なんだから」
悟の前の席に、女の子が座った。ウェーブのかかった短い髪を揺らし、少し派手な赤の服を着た彼女は、尾崎の頭をぽんっと叩いた。
彼女は一度、悟に告白をしたことがある。しかし、恋愛に関してまったくの子供だった悟と、それを知った彼女は結局ただの仲の良い「友達」をずっと続け、悩みを一番よく知る間柄になっていた。
「菜実ちゃん」
「ほらほら。もうあまり会えなくないのに、そんな辛気くさい顔をしないで」
悟の頬を軽くはたいて笑う。悟もつられてすこし笑った。
「そうだよ、橋本。何はともあれ飲め、ほらほら。……ところで、その彼女って」
悟は苦笑した。尾崎は昔から他人の世話が好きで、それは変わることがなかった。
少々おせっかいな所もあるが、人の良さがそれをカバーしていて、笑って許すことができる。
「好きな人が、もうすぐ引っ越しちゃうんだ」
「そうかぁ。もうすぐ就職だしな。いろいろな別れがあるさ」
「いや……まだ告白していないんだけど」
「なんだお前、体はでかいけど、相変わらず気は小さいな」
菜実はからからと高い声で笑い、悟は肩をすくめた。
「考えていいことはあっても、悩んでいいことなんかありゃせん。いったい、なに悩んでんだ?」
「血はつながっていなくても、相手が妹だというところかな」
事情を知らない尾崎はがたっと体勢を崩す。菜実はうんっとうなずいた。
「禁断の恋やな。どんな子?」
「これがもお、すっごい美人」
答えたのは菜実だった。
「菜実ちゃんショックや」
「そうなの、橋本君が単なる面食いだったなんて。まだ愛しているのに」
泣くまねをして、菜実は尾崎の肩に手をおく。冗談なのは分かっているが、本音もちらほら見えかくれしていて、悟は困った。
「俺もショックや。菜実ちゃん好きだったのに」
尾崎がそういうと、菜実はさっさと手を離し、
「私、軽い人ダメなの」
と答える。尾崎はぼやかずにはいられなかった。
「あっさり言うなぁ」
悟は笑った。
もっとしばらく、こうしてじゃれあっていたいなぁと、ウイスキーを一気に飲み干した悟は、ほろ酔いかげんの頭の中でそう思った。
それがもうすぐ無くなるんだ、と思うと、ふと寂しくなった。
その時、水香の姿が頭の中をよぎった。
水香の寂しそうな表情の意味が、悟はいまやっと分かってやれるような気がしていた。
菜実が飲み干した悟のグラスを取り、ウィスキーと水をつぎ足す。
「橋本君、これからもずっと会おうね」
「うん」
「私にとっては未だに橋本君が一番だから」
悟は沈黙の後に、うなずいた。
「俺も菜実ちゃんが一番だから、これからも……」
「はいはい、あんたはどいてなさい」
悟に対する態度とは対照的に、菜実の言葉には一欠片の容赦もこもっていない。菜実は概してこういったさばさばしたところがあり、悟はそんな彼女が気に入っていた。
「つれないなぁ」
そう言って尾崎はため息をつき、悟と菜実は顔をあわせ、笑った。
それと時間を同じにして、家の屋上では水香と玲が向かい合い、腰を落としていた。
あたりはだいぶ暖かくなり、ときおり吹く風はもう春のにおいを十分にさせていて、屋上に座る二人はくんくんとその空気を吸い込みながら、一面まっくろな空を眺めていた。
水香はずっと静かで、二人の間の空気は姉妹のようにわだかまりが感じられなかった。
こんなに自然でいられるのは、水香にとって不思議なことだった。
家族と同様だからなのか、それとも玲の持っている気質のせいなのか……とにかく、玲の存在は、水香にとって負担ではなくなっていた。
しずかな時間が流れたのち、玲は少しだけ遠慮がちに水香に質問した。
「水香さん。悟さんのこと好きですか?」
「……え?」
玲の一番聞きたかった質問は、水香を一番驚かせた。
「そう見えるんだけど、違うんですか?」
「違うよ、そんなの。あいつのこと好きなわけない。兄としてだけだよ」
「私は海君のことが好きなんです」
「……」
「でも、いつも不安なんです。海君が私のことを好きなのか」
「好きだよ、あいつは。もっとも通常人のそれとはちょっと違うだろうけど」
二人は、ふふふ、と笑った。
「そう思います。でも、本人から言ってもらえないのって、やっぱり恐いんです」
「うん」
「それに、悟さんは水香さんのこと好きみたい」
水香の目がまん丸に開いて、玲を見る。玲の真面目なまなざしと出会い、二人はしばらく見つめあった。
「そんな、別に、妹としてだよ」
玲は横に首を振る。
水香は言葉につまり、黙ってしまった。
胸がどきどきしてちょっと苦しくて、水香は空を見上げた。玲も空を見上げた。いつもよりちょっと多くの星が見える。
まっくろな空のしたに、同じように二人は座り込んでいる。それは一人で座っているよりはずっとあたたかな光景だった。
「星、きれいですね」
「うん」
「あまり空って、見上げたことがなかったんだけど、ここでもけっこう見えるんですね」
それ以上、玲も水香も口を開かなかった。
大きな天体ドームの中心で二人は寄り添いあい、空を見上げつづけた。
悟は勇気を振り絞って、水香をデートに誘うことにした。
水香はお酒が好きなので、大学4年の間に知ったいい店を二人で全部まわってみようと、悟は考えた。
「いい考えだが、どうもデートっぽくないなぁ」
と言うのが、海の意見。
「悟さんらしくていい。話もはずむし、いいんじゃない」
これが玲の意見。
水香の答えは、ちょっと困ったような表情の後の、
「うん、いく」
だった。
なぜ困ったような表情をしたのかを海に聞いてみてはじめて、悟の気持ちはすでに水香に伝わっていることを聞かされ、びっくりした。
それじゃあ困るのもしかたないなぁ、と一人ごちる悟の表情はすこし寂しそうだった。
水香はまだ悟を兄としてしか意識していないことを、さすがの悟も認識せざるおえない。
「まあでも、デートできるだからいいじゃないか」
海は慰めてくれるが、悟はより多くなる溜息をとめることができなかった。
愛することは難しい。
二人はけっきょくいたっていつも通りの姿で、家を出た。やはりデートという雰囲気よりは、仲のよい兄妹のお出かけという感じになった。
悟は苦笑したが、それでも今日は精いっぱい楽しんでやるつもりだった。
あまり外に出ることのない水香も楽しみなようで、ただ一つのおしゃれであるバックルが背に光っていた。
最初の店は、腹ごしらえ。悟の大学御用達である安さと味自慢の飲み屋で、いつも人混みで賑わっていた。
明るい店内に、響く人の声。
水香は珍しそうにきょろきょろと辺りを見渡しながら、二人席に腰を下ろした。
悟がいつものように注文をすますと、すぐにビールとおつまみは机に運ばれ、二人はお互いのコップを満たした。
「改めて、大学合格おめでとう」
「悟も、就職おめでとう」
二人が笑って乾杯すると、ガラスのコップは静かな高い音を出した。一気にあおってビールを喉に通すと、炭酸の小さな刺激がした。
悟は大学にはいるまでは、それほど酒が好きではなかった。ある晩、友達の家に招かれて鍋を囲み、最初に飲み干したビールがうまいと思ったのが始めだった。こごえるような道を歩き、すかした腹に流れ込んだ苦い液体は、なぜかふしぎに心地よかった。
「水香のお酒の飲み始めは?」
「オレは、飲み屋の娘だからな。店の手伝いをするようになってから、晩酌につきあわされた」
「うまいと思ったのは?」
「よく憶えていない。気づいたら、酒を選ぶようになっていた」
ビールの入ったコップを水香は両手でおおい、じっと見つめた。もう一度、半分だけ飲み干して、嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、悟は誘って良かった、と思った。
水香の笑顔が見えるのが、今はとても嬉しかった。
妹なのにいとしい。
いつでも一緒にいたい。
言葉などなくても。
店員が次々と料理の載った皿をもってくると、二人はたわいもない会話を交わしながら、楽しく料理に手をつけていった。
鶏の唐揚げ、大盛りの野菜、巨大コロッケ、魚の煮付け、焼き鳥、モツ煮。
「家の方がおいしいけど、こういう雰囲気もいいな」
水香はざわめく店内を見渡す。学生や社会人が、隣を気にせずに話し合っている。そう言った雑音はむしろ温かさを伴っていて、水香も悟もいつもより多く笑っていた。
腹一杯になり満足した二人が会計に向かうと、入り口のところで大学仲間とばったり会ってしまった。その中には、菜実や尾崎もいた。
「橋本やんか。どうしたの女連れて」
水香の表情が変わるのを見て、悟は失敗したと思った。水香が警戒している。
そんなことも知らず、尾崎は水香を見ると勢いよく声をかけてきた。
「すごい美人や! どこで見つけてきたん、紹介しろよ!」
「尾崎くん、やめなよ」
事情をいち早く理解したのは、やっぱり菜実だった。悟の顔を見て、すぐに水香の気持ちを察してくれたらしい。
「何や、菜実。知ってんのか」
「橋本君の妹さん。せっかくの二人なんだから、じゃましちゃ悪いって」
「なんだ、妹ならいいやんか」
尾崎はもう前の話を忘れているらしい。大事な話も軽く受け忘れてしまう男であることに、悟は今更ながら気づき慌ててしまった。
「妹さん、一緒に飲もうや。おごるから」
尾崎がさらに近寄ってくると、水香の表情がきつくなった。
水香は店でも客が執拗にからみだすと、容赦なく平手をかますのを、悟は思いだした。
やばい、そう思った瞬間、店内にぱんっと頬を叩く音がした。
一瞬店内が静かになり、出入口に視線が集中する。
尾崎の頬を叩いたのは菜実だった。
「いい加減にしろ。ほら、来なさい」
「いってぇなぁ、何すんや」
「いいから」
菜実は振り返り、ご免ね、と悟に目で謝った。
悟は、有り難う、と苦笑いで答えると、水香の肩に手をおいた。
「ご免な」
水香はびっくりしたように悟の顔を見上げ、顔を横に振った。
「お前が悪いわけじゃない、謝るな。……オレこそ悪い。もっといい顔をすべきなのに、出来なかった」
「気にしないでいいって。次の店に行くか」
水香はうなずいた。
再びざわめきを取り戻した店内を出て、二人は次の店に向かった。
菜実に叩かれた頬をおしぼりで冷やし、尾崎はひとり納得いかないようだった。
「あんな美人、滅多に見かけんのに」
「うまくいくかなぁ」
尾崎の言葉を風のように流し、菜実はグラスを片手に二人のことを思った。
「なんでや、兄妹なんだろ」
「血はつながってないの」
尾崎は首を傾げ、しばらくしてようやく二人の事情を思い出した。
「そうか、そうだった! あの子がそうか」
「気づくのが遅いって」
「すっかり忘れとったわ」
「女ばっかり追わずに、もっと友達も大事にしなさいよ」
「大事にしとるつもりやけど、上手くいかへんなぁ」
振り返り尾崎を見て、これがなければいい奴なのに、と菜実はため息をついた。
悟が次に連れていったのは、ジャズ・バーだった。
黒と茶に統一された落ちついた店内に、静かにピアノを主体としたジャズが流れている。まばらな人の会話もここでは小さな声で行われていた。
水香はこういったところはまったく初めてで、ただひたすら緊張していた。悟を笑わせたのは、水香がメニューを開いたとき。
「まったくわからん」
という素直な感想を聞いて、悟は吹き出してしまった。
顔を真っ赤にしてすねる水香をなだめ、スクリュードライバーとジントニックを頼んだ。出てきた透明な炭酸と、オレンジジュースのような液体を眺め、水香はおそるおそる飲んだ。
「ジュースみたいだ」
「その通り。ジュースにお酒を混ぜたようなものだからね」
ウィスキーとブランデーをロックで頼み、二人は静かに酒の味を楽しんだ。
ロックに使われている氷はひとつの結晶のようにすんでいて、グラスを回すときれいな高い音がする。酒をひとくち口に含み、舌でまわし、飲み込む。
酒に強い水香もようやくほんのり頬を淡紅にし、大事そうにひとくちを含んでいた。
「さっきの女の人、すこし声を聞いたことがある。いつも電話をかけてくれる桜井っていう人じゃないか?」
「よく解るな」
「あの人のこと好き?」
突然の言葉に、悟は声をつまらせた。
その様子を見て、水香は自分でも解らない胸の痛みを憶えた。刺すように、苦しい。
「いや、友達だよ」
「別に隠さなくてもいいのに」
「そうじゃなくて、なんていっていいのか」
水香の誤解を解きたい悟はめいっぱい言葉を探したが、どう説明していいか解らなかった。彼女に告白されたのは事実だし、つき合っていると思われても仕方のないような間でもある。
それを誤解なく水香に理解してもらう自信が、悟にはなかった。
「また今度、ゆっくり説明するよ」
「そうか、ご免。へんなことを聞いたみたいだ」
視線を落とした水香を見て、悟はよけい慌てずにはいられなかった。
「その、何ていっていいのか……仲のいい友達なんだ。親友の女の子。好きなわけじゃない」
「じゃあ、好きな女の子って誰?」
その時の悟の顔を見て、水香は玲の言葉を思い出した。
「それに、悟さんは水香さんのこと好きみたい」
悟の困ったような真剣な表情を見て、水香は言葉をつまらせ顔を赤くした。悟の気持ちを確かめたわけではないのに、水香は心臓がはげしく拍動するのを感じた。
「きっ、聞かなかったことにしてくれ」
水香が顔を伏せる。
「……ああ」
困っていたはずの悟の方が苦笑いをせざるおえなかった。水香の方がすっかり慌ててしまっているのだから。
下を向いて緊張している水香の頭をなでてやった悟は、
「電車がなくなる前に、もう一軒いこう」
そう優しく声をかけた。
こくん、と水香はうなずいた。
そんな水香の姿を見て、前途多難だなぁ、と悟は一人ため息をついた。
最後の店は各種の地酒をおいているところで、話にくくなった二人はずいぶんと飲んでしまった。
悟も水香も、帰り道の足どりはすこしおぼつかなくなり、お互いに支えあいながら駅へ向かっていた。
「こんなに飲んだのは久しぶりだ」
「オレも」
「いい気持ちだけど、ちゃんと帰れるかどうか心配になってきた」
「電車の中で寝なかったら大丈夫だろ」
言葉だけははっきりしている水香も、悟の腕をつかむ手を離したらそのまま座り込んでしまいそうだった。
「大丈夫か?」
「何とか。みっともないな」
「気にするな。兄妹だろうが」
悟の言葉を聞いてようやく水香は笑ってくれた。いつものように腕に抱きついて、頬をあててきた。
やっぱりこれが関の山かも知れないなぁ、と悟は心の中でつぶやいた。それでもかまわないと思う。むしろ今は、この関係がなくなることの方が恐くもあった。二人で意識して何もいえなくなるのは、今よりも辛いことなのだから。
水香の笑顔を見続けること以上はのぞむまい、と悟は心に決めた。
「おっと」
水香がよろめくと悟もつられて体勢をくずし、歩道にたむろっていた人たちのひとりにぶつかった。
「ごめんなさい」
悟が軽く一礼した相手は、自分たち同様にかなり酔った二十歳前後の男たちだった。二人ほど頭をリーゼントで固め、ひとりは角刈りにしていた。一目見て、あまり関わりにあわない方がいいことをさとり、悟は足早に通り過ぎようと思った。それを察したように、肩をつかまえてきた。
「ぶつかっておいて、ごめん、だけはないんじゃないか」
悟のぶつかった、角刈り男がそう言ってきた。
水香が引っ張るのが解る。
「逃げようと思うなよ」
リーゼントの男が笑いながら言った。
「これからそのかわいい女の子とうまくやろうっていうんだろ? そのお金をちょっとくれよ」
角刈り男が言うと、残りの二人が笑った。
悟の心が冷えていくのが解る。恐いわけじゃない。ただ、何となく悲しかった。
この三人は、そんなことを言って楽しいだろうか。むしろ辛くないだろうか。あきらめて、人を傷つけるような自分はそういう男だと思いこみ、根元的な解決からは逃げるのは辛くないだろうか。
そんなことを考える悟は、根っからのお人好しだと、水香なら言うだろう。
水香は別の気持ちを抱いていた。
平手がとび、角刈りの男の頬にきれいに決まった。
「下卑たことを言うな。こいつはオレの兄貴だ。金ぐらい自分でかせぎやがれ」
水香の顔はいつもの真剣な表情に変わっていた。角刈りの男の顔は驚きのあと、殴られたことに対する怒りにゆがんでいった。
「このヤロウぉ」
水香ににじりよってきた男を、悟は手で制した。
「謝るから、俺達のことは放っておいてくれ」
「お前もきにいらねぇ!」
男は急に膝蹴りを悟の腹にきめた。思わず腹をおさえる悟に、さらに拳がきまる。
「悟っ!」
「喧嘩なんて久しぶりだ」
打たれたところをさすりながら、悟はそうつぶやいた。
「何だ、やるつもりか?」
「妹のためなら、何だってやってやる」
悟の腰の入った一発はまともに男の顔に決まった。酔っているものどうし、よける動作がにぶくなっているのでパンチがよく決まる。
男は三回りは大きい悟の一発を受けて、後ろに倒れこみ起きあがらなくなった。
「こいつ」
残りの二人が悟に向かって殴りかかってきた。
酔っているもの同士の殴り合いなど、なかなか決まるものでなく、殴り殴られ三人とも傷を作りながらもなかなか決定打を打つことができなかった。
水香も参戦して一人の気をそらした矢先に、悟の渾身の一発が決まりもう一人も倒れた。水香を殴ろうとしていた男を後ろから、ひっつかまえて一発殴ると、この男もとうとう気を失った。
肩で息をする悟の手を引っ張り、「行こう」と水香がいう。うなずくと二人は走りはじめ、狭い路地を抜けて人気のないところへと向かった。
十二時を過ぎ人気のなくなった公園で、悟はベンチに座っていた。水香はハンカチを水で濡らし、そっと悟の顔の傷にあてた。
暗くてよく見えないが、青ずんでいてすこし腫れている。明日には、もっとはっきりするだろう。自分のしでかしたことに、水香は泣きたいような気持ちになっていた。
「ご免、悟。オレが手を出さなければよかった」
一つしかない外灯の光では、水香の顔ははっきりとは見えない。小さな黒い輪郭と、時折きらめく瞳がかろうじて見えるぐらいだった。
「気にしなくていいって。水香が殴らなくても、俺が殴っていた」
嘘だ。悟が自分から殴らないことは、水香も知っていた。水香はますます胸が痛くなるのを感じて、顔を伏せた。
風はなく、何の音もしない。
ブランコと鉄棒と砂山と、木々の間に家がかいま見える。
「喧嘩に巻き込まれるし終電を逃すし、最後は散々だったけど、楽しめたか?」
「優しいことばかり言うなよ」
水香を見ると、肩がふるえていた。泣いているのか。
「悔しいな……お前ばかり、オレの涙を見ている」
「水香」
水香は悟の胸に抱きつき、声を殺して泣き出した。
ようやく素直に、悟の前で泣くことができた。前から寂しくて、悲しくて泣きたいような気持ちだったのに、何もいえなかった。水香は今まで兄弟の長で、頼られる存在だったのだから、弱いところを見せるわけにはいかなかった。
父はだいたい他人だし、母は弱い。物心ついてから初めて泣いたのは、家が火事になり悟に抱きついたときが初めてだった。
「お前と二人だと、何か自分が変だよ。いつもの自分でいられなくなる」
水香は、悟の服をつかむ手をぎゅっと握りしめた。
抱きしめたい、悟は強く心の中で叫んだ。抱きしめてしまっては、兄妹でいられなくなる。悟の体がふるえた。
「悟?」
異変に気づき、水香は顔を上げた。そして、悟の目を見て、動けなくなった。
悟は何もできなかった。三人の男を倒す力も、今は指一本動かすことはできない。
耐えている。
水香の気持ちを考えて、悟は必死に自分を殺した。
しびれるような体で、水香はその気持ちを理解した。
胸においた手が、鼓動を伝える。
水香の顔が少し近寄った。
駄目だ、と悟は強く反発したが、体は動かない。
見おろす悟のすぐ近くに、見上げる水香の顔がある。
濡れる瞳と、唇が見える。
さらに水香の顔が近づく。
あとすこし、ほんの少し近づけば、唇が触れる。
二人は視線をはずすことができなかった。
もし水香の瞳が閉じたなら、悟は自分を制することはできない。
ふたりの鼻が触れ合う。
悟の目には、水香しか映らない。
水香の瞳から大粒の涙がこぼれ、そして閉じられた。
悟は顔を近づけた。
足音が聞こえ、水香は猫のように悟から離れた。
ほんの少しふれた感触を唇に残して。
足音はしだいに大きくなり、帰宅途中の会社員らしき男は公園の中を通り、何事もなく過ぎていった。
悟の体から一切の力が抜けていった。
緊張がすべてとけた。
水香は後ろを向いている。
後悔しているのかも知れない。
お互いにどう声をかけていいのか解らず、ただ、
「帰ろう」
という悟の声で二人は歩き始めた。
声もなく、会話もなく、長い長い帰路を二人は歩いて帰った。