海の彼女
「水香、さみしくない?」
終わりを告げた店内で、弥生は娘にたずねてみた。二人で並んで皿を洗うのも、もうすぐ終わる。そして、妹の果菜や華歩が、その手伝いをつぐことになっていた。
「少し。でも、妹達が産まれてから、『オレが先に出ていかなくちゃな』って思ってたから」
「別に無理をする必要はないのよ」
「無理はしてないよ」
水香は、えへへ、と笑う。
「お父さんに、お金のことで気を使うこともないのよ」
「お金は使ってあげた方が喜ぶのも知ってる。でも、早く自立したいんだ」
「親離れしている娘、子離れできない親。何もそんなところまで私に似なくても」
ため息をつきながら、弥生は拭きおわった食器を片づけていく。
「やっぱり、お母さんもそうだったんだ」
「私の場合は、さっさと結婚しちゃったけどね」
「そっか。オレはあてがないな」
水香は自分のことを「オレ」という。きつい感じの顔立ちと、行動の男っぽさから、それはあまり不自然さを与えない。それでも、水香は十分に美人にはいる容姿をしていた。
着飾って、化粧でもすれば相当はえるだろうに、水香は一切そういったことに興味を示さなかった。
弥生は皿を拭く娘の顔をじっと見つめ、ふいに手を伸ばして、娘の柔らかい頬をむにゅっとつかんだ。
「私に似て美人なんだから、その気になれば早いわよ。きっと」
「その気になんないよ。まるで男みたいだもん」
「そう言ってられるのは、いまのうちよ」
「そうかな」
「そうよ」
弥生は、ふふっ、と笑った。何かも知っているような弥生の顔を見て、水香は少し考え込んだ。
自分の知らない自分に、変わることなんてできるのだろうか。水香には不思議だった。
片付けが終わると、水香は屋上に出た。
今日はうっすらと雲のただよう空だが、星は明るくまたたいていた。
コンクリートの床をたんっと踏み、両手をうーんっと伸ばす。小さな体をいっぱいに広げ、大きく息を吸い込み、そして吐き出す。
「今日も一日、ご苦労さま」
自分自身に呟く。
床にとんっと腰をおろし、水香は星を見つめた。
「星と話ができると、もっと面白んいだけどなぁ」
それでも毎日こうして、しばらくぼぉっと水香は星を眺める。今日あったことをゆっくりと思い出し、星に「有り難う」と呟いてからようやく、階下に降りてお風呂に飛び込み、寝床に滑り込む。
新しい家ができてから、雨の日以外はずっと続けている習慣だった。
今までは、星が「頑張ったね」って言ってくれているような気がして、あたたかい気持ちに包まれていたのに、最近は何となく寂しかった。
家を出ても、星は変わらないのに、何となくもう二度と会えなくなるような寂寞感がある。
何故なんだろう。
水香は、最近おおくなったため息をついて、さっさとお風呂にはいることにした。
悟が水香に告白すべきかどうか悩んでいる間に、海はいともあっさりと彼女を連れてきた。
その時の家族の衝撃と言ったらなかった。友達一人いるかどうか疑わしい海が、いきなり「彼女」をつれてきたのだから、家族はしばらく目を白黒させてしまった。
「こんにちは。初めまして、浜野玲です」
冬服のブレザーに身をつつみ、きれいな長い髪をした女の子は、悟の予想をこえてとても明るい。
「あっ……悟です。はじめまして」
「きゃあっ! やっぱり! 話には聞いていたんですけど、本当に大きい!」
「あっ、まぁ、そうですか」
小さな女の子の迫力に、思わず悟は後ずさった。
「大きくて、優しいお兄さんがいる、って海くんから聞いていたんです」
まずいっと言わんばかりに、海はすぐさま玲の口をふさいだ。
「海、そういうことは、ぜひとも本人に言ってくれ」
「言えるか」
海は顔を真っ赤にしていた。こんなに慌てる海を、悟はあまり見たことがなかった。
予想とは違っていたが、いい組み合わせなのかも知れない。
居間に座った海と玲を囲み、家族が集まった。
精神年齢が合うのか、他の兄弟達ともすぐに馴染んでいた。
特に果菜と華歩と気が合うようで、海はずっと黙ってその様子を見ていた。
「いいですね、兄弟が多いって」
玲は、生後1年になろうとしている真希を抱いた。
「ひとりっ子?」
お茶を出しながら弥生がたずねた。
「そうなんです。せめてもう一人欲しいなぁって」
「ねぇねぇ、玲さん。海兄のどこが気に入ったの?」
「華歩っ!」
海が怒る。玲はかまわず話し始めた。
「こんないい男、そうはいない」
どうどうと言い放って、胸まで反らす。自慢げな様子に、海は恥ずかしそうに顔をかくした。
玲の言葉にふかく共感する悟は、うんうんとうなずいた。
「お勧め品だと、俺も思うよ」
「さぁとぉるぅ」
「まあまあ。ところで、二人の出会いは」
「私がクラスの不良にからまれたんです。帰り道に」
話をとめようとする海を、兄弟一致ではがいじめにする横で、玲はゆっくりと悟に話しかけた。
「川縁で4人に囲まれて、『気に入らない』っていって殴られて……持っていた鞄を川に落とされて。その時に偶然、海くんがあらわれたんです。みんな海くんを知っていて、動けなくなって」
「海が助けてくれたと」
「いえ、間を通り過ぎて、そのまま川に降りていったんです」
「……」
「足元水に濡らして、鞄をとってくれて……気まずくなった不良も逃げてしまいました」
「海、優しいじゃん」
「ふごふごっ!」
口を押さえられている海に、反撃する余裕などなかった。
「川にあがってきたら、鞄をあけて教科書を乾かし始めちゃんうです。何もいわずに。近寄りがたい人だったから、私もどうしていいか分からずに立っていたんです。そうしたら、そのまま帰ってしまって」
悟は笑った。学校ではきっとこんな調子で、一言も口を開いていない海の様子が目に浮かんだ。
「それ以来気になって、つきまとい始めて、海くんがはじめて口を開いたのが『うるさい』だから嫌になっちゃう」
家族で笑った。海は観念したようで、静かになった。
「それで」
「次に口を開いてくれたのは、家族のことを聞いたときで、それまでに一週間かかりました」
「それからだね」
「はい」
海が両手をあげた。
「浜野には負ける」
「ごめん、許してくれる?」
急に弱気になる玲。
海はお茶を飲みながら、ゆっくりとうなずいて許した。
海の知らない一面を見ているような気がして、悟は微笑んだ。
「もぉ、兄ちゃんやけるぅ!」
「華歩。お前が大きくなったら、仕返ししてやる」
「その時は、私が守ってあげるからねぇ、華歩ちゃん」
手を取り合う玲と華歩。海はあきらめたように頭上を仰ぎ、悟と弥生はクスクスと笑った。
ふと悟は、水香がまだ一度も口を開いていないことに気づいた。
「水香、どうした。元気がないな」
「えっ、いや、大丈夫……それより浜野さん、夕食たべていきなよ」
「いいんですか?」
「この人数じゃ、一人増えようとあまり関係ないからな」
玲はあたりを見渡して、兄弟の数をかぞえる。
九人。
「本当によろしいですか?」
「どうぞ、どうぞ」
弥生の言葉を聞いて、玲は「それじゃあ、お世話になります」と決心した。
言うが早いか、華歩達に手を引かれ、玲は店の方に連れて行かれた。
今日は休店日で、店にお客はいない。みんな一列にカウンターに並ぶ。
弥生と水香が料理を作り始め、それまでの間は、みんなで備えつきのカラオケセットで歌うことにした。
「1番、橋本華歩。小泉今日子の『優しい雨』を歌います!」
こう言ったとき一番物怖じしないのは、やっぱり華歩だった。家族のムードメイカーをかってでているのか、それとも単なる派手好きなのかは定かではない。
「華歩姉、がんばれぇ」
「かっこいいぞ、華歩ちゃん!」
この曲を毎日のように練習していた成果を存分に発揮し、華歩は2番までしっかり振り付けを加えて歌いきってくれた。
盛大な拍手に、華歩は笑顔と優雅な一礼でこたえ、マイクを玲に手渡した。
しばらく戸惑った玲だが、のりはけっして悪い女の子ではない。
「2番、浜野玲。『津軽海峡冬景色』いかせてもらいます」
「おぉっ!」
意外な選曲に、どよめきが広がる。
玲は握りこぶしをつくり、眉間にしわをよせて歌いだした。
さらに、こぶしをおもいっきり転がされ、海の口はあきっぱなしだった。
悟はくすくす笑い、華歩と果菜が手拍子をうつ。
拍手とともに歌い終わり、以下、果菜の今井美樹『 Piece of my wish 』、加羅の『時の扉』、悟がなぜか『365歩のマーチ』で、海は『イエスタディ』を英語で歌うと、ようやく食事ができあがった。
「水香さんも何か歌って欲しい!」
次々と食事ののった皿を出す水香は、玲の言葉にちょっとうろたえた。
「水香姉、歌え!」
「たまには歌えば?」
華歩と海の言葉。
「俺も聞いてみたい」
の悟の言葉で決心したように、カラオケの前にたった。
「ちょっと恥ずかしいけど、『会いたい』を歌おう」
みんなの拍手と声援が飛ぶ。カラオケがかかるまでのしばらくの沈黙のあと、水香が歌いだすと、あたりが静かになった。
食事をする手がとまり、海は口に含んだご飯を噛むのを忘れた。
水香の澄んだ、ちょっと高い声が店に広がる。
耳に、体に、声が通り抜けていく。
水香がこんなきれいな声をしていたのを、悟は初めて知った。
この曲はもともと本当にあった話を歌にしたもので、思いと技術との両方がそろわなければ、決して聞かせる歌にはならない。それを水香は別の形で、きれいに歌いきっていた。
静かに、
ただ気持ちを伝えるように。
ふいに、水香の声が途切れた。
どうしたのかと水香を見ると、困ったような顔をして誰かを見ていた。
その視線の先を見るとそこには、涙をこぼす玲がいた。
「あっ……ご免なさい。すっごい感動しちゃって」
自分のそでで涙をぬぐう。
海はすこし困ったように、でも優しく玲の頭をなでると、玲も笑顔をつくった。
「涙もろくて、やんなっちゃう。でも水香さん、うまいっ! もっと歌って!」
「俺ももっと聞きたい。知らなかったぞ、こんなに上手いなんて」
悟の言葉に、水香はすこし顔を赤くして、手を振った。
「だめだよ、性に合わない」
もったいないなぁと誰かが呟いたが、結局は食事が再開された。
いっぱい話し、いっぱい笑い、いっぱい食べる。
世帯主である一郎が帰ってきたのは、食事も終わりに近づいてきた頃だった。
「帰ったぞぉ」
「あっ、お父さん。お帰りなさい」
妻の弥生は笑顔で迎え、子供達はまず叫んだ。
「この人、海兄ぃの彼女!」
玲が苦笑いしながら、頭を下げる。
「お邪魔しています」
「えっ、本当か?」
一郎は信じられず、目をしばたいた。
「浜野玲といいます。初めまして」
「あっ、橋本一郎です……初めまして」
あわてて会釈し、海を見た。
海はいつもの顔で、一郎を見つめていた。
「海」
「なんだ」
「父さんは嬉しい」
海はその言葉に、耳まで真っ赤にした。
「親子そろって同じことを言いやがる」
ふくれてあらぬ方を向く海を見て、一郎は笑った。
一郎の提言で梅の咲く神社を散歩することになった。
外の大気はもうすでに春のあたたかさを含み、風はさわやかに流れわたっていた。
神社につくと子供達はかけまわり、親達は静かに梅を見上げる。梅の花は風にふかれて散りゆき、赤い螺旋のもようを作りだし、頭や服におりたった。
神燈に浮かびあがる鳥居をひとつひとつ抜けていき、神水の冷たい水で手を洗う。そして、本堂の前につくと思い思いに賽銭を投げ込み、拍をうって手をあわせた。
まだ幼い火斗には十分に理解できず、不思議そうにみんなを見渡していた。
「みんな、なにしてるの?」
「神様にお願い事」
弥生の答えは単刀直入だった。火斗は理解したようで、うんと頷く。
「ぼくも、おもちゃ、たのも」
火斗の無邪気な言葉に、玲がくすくす笑う。火斗と視線の位置を合わせるように、座り込んだ。
「人間にはどうすることもできないことを、お願いするの。例えば健康とか、幸せとか、安全とか」
「??」
4才の火斗にはまだ難しいらしく、大きな頭を傾け悩んでしまった。
「まだよくわかんないか。えーっと」
悩む玲に、海が助け船を出した。
「おもちゃ買ってくれるように、で構わないよ、火斗」
火斗はうなずいて、手を合わせて祈りだした。
「そんなのでいいの?」
「火斗の歳の世界だったら、おもちゃを買うことが『どうすることもできないこと』だからいいのさ。だんだん世界は大きくなる」
海はたんたんと告げる。
玲はしばらく海を見つめ、納得したようにうなずいた。
お願い事を祈り終わった悟は、ふと横を見た。水香は両手をあわせたままじっと、中に奉ってある鏡を見つめている。
放心しているように目に動きがない。
悟は肘でとんっと水香をこづいた。
「どうした?」
「あっ、うん。何を祈ったらいいのか解らなくなって……」
水香の心の中はいろんなものが混ざっていた。
それが混ざりすぎていて、いまは何を祈ったらいいのか水香自身、よくつかむことができなかった。頭を振って、何はともあれ家族の安全をお願いした。
水香の願い。
悟の願い。
火斗の願い。
玲の願い。
海の願い。
鏡はしずかに耳を傾ける。
天には星が、地には土。
きれいな大きな梅にいだかれ、家族と女の子は笑いながら歩く。
「もうすぐ桜が咲きそうだね」
華歩が嬉しそうに言う。
「川べりの桜、今年もきれいよ」
弥生はたもとに真希を抱く。一郎はついた梅の花びらをとってやっていた。
少し離れた後ろで、海と玲はよりそって歩いていた。
「浜野は何をお願いしたんだ」
「私は感謝しただけ」
「何に?」
「みんなに会えたことに」
玲は自信を持ってこたえ、海が恥ずかしそうにしていた。
家に帰る途中、駅の近くでアクセサリーを広げる露店があった。
ふと悟が足をとめ、何かを選んでいるかと思うと、髪を結わえるためのバレッタを買った。ほんの少し模様のはいった、金属板のものだった。
「水香、プレゼント」
横に立っていた、水香に手渡す。
「えっ」
水香は両手でその金属片を受け取り、なぜか顔を赤くした。
「あっ、有り難う」
それだけ言って、水香は固まってしまった。
どうしたのかと悟が首をかしげていると、海が耳打ちしてきた。
「水香姉はこういうの疎いんだ。つけてやりな」
悟はびっくりした。
大学生になろうとしている水香が、バレッタひとつ知らないとは思ってもみなかった。そういえば、水香の部屋に化粧品をみたことはないし、着飾った姿も見たことがなかった。
いや、両親の小さな結婚式の時に、母親の服を着たことがある。似合っていたのに、性に合わない、といって二度と着ることはなかったのだが。
バレッタを手に持ち固まる水香を見て、悟はすこし笑った。
水香の両手からバレッタを受け取り、後ろにまわって髪の毛を集める。
「……」
動かない水香の髪に、バレッタをとりつける。
「似合うよ」
水香は照れて、でも、取り外さなかった。
いい雰囲気になり、悟は心の中で「よしよし」と思っていたが、それはあまかった。華歩が割り込んできた。
「水香にばっかりずるいっ! 私にも買ってよ!」
「えっ?」
「華歩っ、駄目だって。悟兄さんは『水香姉のために』買ってあげたんだから」
「うっ……」
賢しい果菜はすべてを見きっている。果菜は華歩の手をつかんでとめに入ったが、それでおさまる華歩ではなかった。
「水香姉に買ってあげたんなら、私のために買ってくれてもいいじゃない。ねぇ?」
「あっ、いや」
「ねっ!!」
「そっ、そうだな」
つい悟は言ってしまった。
後ろで海のため息が聞こえた。
「やった。果菜も選ぼうよ、ほら」
逆に華歩に引っ張られる果菜。
「ご免なさい」と片目をつぶって果菜に謝られては、悟もどうしようもなかった。妹のために、もう一肌脱ぐことにした。ため息とともに。
少し離れたところで見ていた玲は、海の方を振り向いて尋ねた。
「海くん。水香さんと悟さんって、好きあっているの?」
海は思わず唸った。
「解るか?」
「何となく。確か、血はつながってないんでしょ」
「そうだな。でも、水香はまだ気づいていないと思うんだ」
玲は水香を見つめ、うなずいた。
そして海を見つめ直す。
この唐変木、他人をよく見つめているのに、まだまだ私を解っていないなぁ……と玲は心の中だけで呟いた。
玲も、髪飾りが欲しかった。
そうやって気を使わないのが、嬉しいやら悲しいやらで、玲も思わずため息をついてしまった。
「まあいいや。私、ここで帰ります!」
「あら、大丈夫なの?」
声をかける弥生。
「気にしないで下さい。近いんです。今日は本当に楽しかったです。有り難うございました」
「また遊びにきてね!」
華歩の言葉に、嬉しそうに手を振って玲は走るように帰っていった。
「海くん、また明日っ!」
海が手を振ると、玲も振りかえし、そして見えなくなった。来たときもあっさりとしていたが、帰るときも風のようだった。
「いい子だな、海。ちゃんとつかまえておけよ」
悟の言葉に、海はこう答えた。
「悟、お前もな」
二人はお互いに見つめあい、そして同時にため息をついた。