家族になりたい
次の日も変わらぬ慌ただしい日だった。夜になり、店で水香と弥生さんと三人で働いている自分を考えると、つい先日まで遊びとアルバイトに明け暮れていた生活がどこか遠くに感じる。
店は賑わい、そして磐田さんが飽きもせずに絡む。他のお客さんが冷やかしたりして、あたりは和みながら時が過ぎゆく。
突然、磐田さんが立ち上がり、出ていこうとした。
「いけねぇ、そろそろあいつの来る時間じゃねえか。弥生さん、俺は退散するぜ」
「あら、そんな時間かしら」
弥生さんがちらっと、時計を見つめる。
あいつって?……と思うまもなく、その男はあらわれた。
扉を開けてはいってきたのは、四十第後半の小柄な中年。人の良さそうな笑顔には、深いしわが刻み込まれていた。
スーツに、よれのない長いコートを羽織った彼は、思わず不思議そうな表情をした。
「悟、なにやってんだ」
洗い物をしていた悟の顔に、冷や汗が流れた。
「おっ、親父」
「いけない、うっかりしてた!」
弥生さんがことの事情を飲み込み、思わず叫んだが、すでに時は遅かった。
「親父って……、お前の親父なのかよ」
水香が悟につめよる。悟は自分の口を塞いだが、それはかえって逆効果だった。
「お前、記憶喪失っていうのは嘘だったのかょ!」
水香が凄い剣幕で怒りだす。それでも、言い訳をいうような機転の良さは悟にはなかった。
「きたねえぞっ! そうやってオレ達をずっと観察してきたのかよ! 馬鹿にするなっ!」
水香の手がひらめき、悟の頬にきまった。店に高らかな音が響き、悟の頬には赤いあとが残った。
もう何も言うことはできなかった。言えば、それが水香を傷つけることが、悟には分かった。情けない話だが、涙が出そうだった。
「ごめん」
肩で息をする水香を残して、悟はカウンターをこえ、事情の飲み込めない父を連れて外に出た。
店に残ったのは、怒りに髪が逆立ちそうな水香と、オロオロして泣き出しそうな弥生さん、そして磐田さんを含めたお客さんだった。
「水香、水香。怒らないで、許してあげて」
「何を許すんだよ」
「別に悪気があったわけじゃないのよ、私が引き留めたのが悪いのよ」
「……お袋もグルだったのか」
水香の表情がいっそう悪くなった。
「水香……」
水香は何も言わずにエプロンを脱ぎ捨て、家の中へ帰っていった。
弥生さんはとうとう泣き出してしまった。
悟は親父の車の中で、深く落ち込んでいた。
事情を説明もせず、ただ時折うわごとのように「しまった」と呟く。親父はどう扱っていいか、分からない様子だった。
「お前の行動なんて、分かりきっていると思っていたが、やっぱり私の分身じゃないんだな」
刺激しないように、つとめて明るく振る舞う親父。その気持ちには感謝したいが、いまの悟にはそんな余裕はなかった。
「水香さんもかなり怒っていたようだが、まああまり気にするな」
親父の再婚がかかっていると言うのに、いつもは寡黙な親父はこんなとき、妙に優しかった。
「親父……わるい」
初めての応対に、父はホッとしたようにため息をついた。
「なるようになるさ」
親父は明るく言い放ち、自分よりも大きい息子の肩を叩いた。
車は夜の国道を走り抜けていった。
店の方は、閉められた。
「ご免なさい、かっていっちゃって」
泣きはらした弥生さんが、来てくれたお客さんに精いっぱい謝る。
「いいって、こんなんじゃ料理も作れないもんな」
「早く元気だしなよ」
お客さんはみな快く帰ってくれたが、一人だけ磐田さんだけは弥生さんを慰めるために残りたい、といってきかなかった。
「磐田さん、お願いです。一人にさせて下さい」
「そんなこと言わないでくれよ。お前と俺の仲じゃないか、一人じゃ寂しいぜ」
「いま、もうそんな余裕がないんです」
そう言われてさすがの磐田さんも、鼻白んだ。要するに、磐田さんと対応するには余裕がいる。今はないから出ていってくれ、という意味であることに、磐田さんも気づいた。
「そうかよ、分かったよ。帰るよ」
「ご免なさい」
扉は惜しげもなく、目の前で閉められた。蹴り破ってしまいたい衝動をどうにかこらえ、磐田さんは吸っていた煙草をおもいっきり吸い上げ、いつものように路地に投げ捨てた。再び煙草をくわえ、三本のマッチを使ってようやく火をつけ、そのマッチも路地に投げ捨てた。
この世の中全てが気に入らなくて、磐田さんは眉間の間に強くしわを作り、歩き去った。今夜はやけ酒をするつもりだった。
水香はその頃、悟の寝泊まりしていた自分の部屋にこもっていた。
やっぱり金持ちや、頭のいい奴はいけすかない。人を平気で騙す。
水香は枕でおもいっきり壁をぶったたいた。
頭のいい奴と思われた悟は、それを聞いたらきっと「それは大きな誤解だ。誰よりも思慮がない」と広い肩をすくめてこたえただろう。
しかし、その声はけっして水香の耳に届かなかった。
あんな奴に騙されたのが悔しかった。信用したのが愚かだった。相談したのが間違いだった。
しかもお袋までグルだったなんてっ!
水香は枕で床を叩いた。
隣部屋の子供達はその音を聞くたびに、身をすくめた。
「水香姉、どうしたのかな」
華歩が不安そうに海によりかかる。
いつものように真剣な表情の海は立ち上がり、隣部屋の水香をたずねた。
扉を開けると、水香が振り返り睨んだ。
「怒ってるな」
「怒ってるよ。あいつが誰だったか、あんたもしってんの?!」
「途中で気づいた」
それを聞いた水香は、それこそ噛みつかんばかり表情をした。
「じゃあ知らなかったのは、オレだけなのかよ!」
「いや、気づいたのはきっと俺だけだよ」
「お袋も知っていたぞ」
「あぁ、そりゃあきっとボロでもだしてばれたんだろう。あいつ、嘘をつけるほどの思慮と度胸は、あまりないぜ」
「何いってんの、嘘ばっかりじゃない! あんな奴が兄になってもいいっていうの?!」
海はあきれるほどしっかりとうなずいた。
「いいよ。いい兄さんだ」
「どこがっ!」
「きっと今ごろ、自分の思慮と勇気のなさに、どん底まで落ち込んでるぜ」
「嘘っ!」
「姉貴には分からないのか?」
海の真剣な表情に、さすがの水香もたじろんだ。
「わっ、わからないよ!」
「なら、よく考えな」
そういって、海は出ていった。
水香は少なくとも、ちょっとは落ちついた。そして、悟の全行動を思い出そうとした。
二時間も外に立っていた悟。
店から逃げだした悟。
兄弟達になつかれた悟。
一緒に働いた悟。
お風呂にいった悟。
そして、相談にのってくれた悟。
水香は窓を見上げた。そこには、シリウスが光っていた。
二人で見上げた星は、凍りついた湖面のような空にただ一つ、強く輝いていた。
その星を悟も見上げていた。
自分の部屋の窓から見える星が、水香の部屋から見えたシリウスであることを知り、悟は驚きながら、いつまでも見つめ続けていた。
たった三日。ほんの五十時間の間の家族。
彼らを傷つけてしまった、自分の愚かな行動を悔いた。
そして、なにより、彼らともう二度と家族になれないかも知れないことが、辛かった。
弥生、水香、海、華歩、果菜、加羅、火斗。
古い家、やかましい客、夜通った寒い道、銭湯、星。
胸のなかが苦しくて、くぅくぅ、言う。
「あれはシリウス。全天一明るい恒星」
水香の言葉が、心をよぎった。
「泊まっていけよ。どうせ帰るところもないんだろ」
あたたかな水香の笑顔。
水香に謝りたい、強くそう願ったとき、もう一つの水香の言葉を思い出した。
「何にも考えずに、強く心から念じたことを吐き出す瞬間って、良くないか? 『お腹が空いたっ』とか」
悟は部屋を飛び出した。
「親父、車を貸してくれ」
居間で新聞を読んでいた親父は、用意していたように車のキー投げた。
「道は分かるな。気をつけて」
「ありがとう」
悟は家を出て、車に乗り込み、走り去ってしまった。
その音を聞きながら、父親は満足そうにうなずいた。
道中、悟はずっと考えていた。
自分の強く念じていることを、どうやって言葉にしたらよいかを。
ずっと、ずっと考え続け、そして一言だけ、どうしてもいいたい言葉を見つけた。
「家族になりたい」
その言葉を思いついた瞬間から、悟の心なかでその言葉が連呼し始めた。
謝るのが先かも知れない、弁解をするのが先かも知れない。でも、それよりも、その言葉を伝えたかった。
なによりも。
誰よりも、水香に。
十二時を過ぎて、ようやく悟は水香の家の近くにまで到達した。
その時、妙な胸騒ぎがした。
何となく、いつもと空気が違うような気がする。
水香達の家に何かあった、なんて何万分の一だとは分かっているのに、悟は急がずにはいられなかった。
角を曲がる、店のある通りに出る。
そして、悟は店が燃えているのを見た。
車を乗り捨てて、走り出す。
店が燃えている。
近所の人が消火活動をしている。
人だかりが増える。
その中で、火の中に飛び込もうとしている水香を、まわり必死にとめる姿があった。
「水香ぁ!」
悟が叫ぶ。水香の顔がこちらをむいた。
泣いている。
水香は小さな体で、力いっぱい叫んだ。
「海達が家の中に!」
悟はもう何も考えることができなかった。
ただ、燃えさかる家の中へつっこんでいった。
悟は中に入った瞬間から、意識がふっとんだ。
熱いというのを、とおりこしている。
それでも、走り続けた。
階段をかけ上がる。
子供部屋の前に飛び出す。
力いっぱい扉を開けようとしたが、まったく動かない。
「うぉぉぉっ!」
悟は熱さと、力をこめて、声をあげた。
水香は火の勢いの増す店を見つめて、足がふるえた。
何もできない。
ようやく消防車がついても、足も声も何もでなかった。
野次馬から事情を聞いた消防員が、火の中に飛び込んでいくのを見て、水香はようやくぺったりと座り込んだ。
弥生はすでに意識を失い、介抱されていた。
ただ一人、水香だけが、店をいつまでも見続けた。
火事の原因は、万分の一の可能性しかなかった、磐田さんの投げ煙草。
数百回の試行を経て、可能性は現実となった。
磐田さんは、そんなことなど気づきもせずに、飲み続けていることだろう。
悟の意識は途中からまったくなかった。
憶えているのは、消防員に助けられながら家から飛び出し、冷たい夜風に吹かれた瞬間からだった。
服が黒く焦げている。
髪が焼けたのがわかる。
そして、肌がヒリヒリと痛い。
火に照らしあげられた、商店街。
溢れるほどの野次馬。
動きまわる、消防員。
そして、その中、座り込む水香の姿が見えた。
肩にかついでいた海を、救助員に手渡す。
一歩、また一歩。
水香に近付いていく。
立ち上がる水香。
そして、駆けてきた。
走っている水香が、ゆっくりに見える。
髪をなびかせ、泣きながら、悟に向かって走ってくる。
その時の、炎に照らされる水香の顔を、忘れることができない。
水香がぶつかるようにつっこんで来て、立ちすくむ悟を抱きしめた。
みぞおちの辺りで、小さな妹は激しく泣き始めた。
何もいわず、悟は包み込むように、水香を抱きしめた。
焼け落ち、解体の進んだ店の跡地で、家族ははじめてそろいあった。
青空のきれいな、日曜のことだった。
「傷跡が痛々しいね」
親父が子供達の火傷を見つめながら、呟いた。
傷をおっていないのは親父だけだから、心配するのもしかたがない。
おもむろに立ち上がり、親父はいった。
「今の家を売り払う。そして、そのお金で、ここに店付きの家を建てます」
いつもの親父とは思えない、高らかな声だった。
あれ以来少しやつれた弥生さんを、親父は見つめた。
「そこに……、一緒に住んでいいですか」
二人は見つめあった。
そして、弥生さんの瞳から、涙がこぼれ落ちた。
「子供以外の、全てを失った女です。こんな女でも、いいのですか?」
静かな涙が、地に落ちる。
「あなただから、いいのです」
親父、よくいった、と悟は心の中で叫んだ。
「どうぞ……宜しくお願いします」
弥生さんは消え入るように、呟いた。
親父は今度は、子供達の方に向きなおった。
「子供達はどうでしょうか。反対の人が一人でもいるかぎり、私達は結婚しないつもりです。ただし、家はちゃんと建てます」
水香、海、華歩、果菜、加羅、火斗、そして悟は、静かに親父を見つめた。
「反対の人は手をあげて下さい」
親父の声が厳然と響いた。
悟は見るのが恐くて、目をつぶった。
手だけは、死んでも挙げるつもりはなかった。
沈黙の時が過ぎる。
そして、父親が呟いた。
「誰もいませんね。じゃあ、これから一生、宜しくお願いします」
その言葉が静かに胸にしみわたった。
目を開ける。
そこには、家族になった八人の笑顔が広がっていた。