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家族になりたい  作者: 京夜
前編
3/8

それぞれの思い



 夕焼け。

 5時を過ぎ、店が開く。

 お客さんは待っていたように、あらわれる。


「いらっしゃいませ!」


 弥生さんの声が響きわたり、仕事は始まった。

 子供達から解放された悟は、皿洗いをすることにした。

 まず残ったものを、手を使ってきれいに生ゴミへ捨てる。お湯で残りを流しさり、洗剤を混ぜた浴槽の中にしばらくひたす。油が浮いてきたところで、一気にお湯を使って洗剤とともに流していく。

 そして、きれいな布巾ですぐに拭くこと。水が残っていると、そこに雨のあとの車のように汚れがたまるからだと、弥生さんは説明してくれた。


「やっぱり食欲を促すような食器じゃなくちゃね」


 その通りだとは思うが、これを二人で、水香がいる前はさらに一人でやっていたかと思うと、何となく彼女が何人かの男の人を愛してしまったのが、悟には解るような気がした。

 水香は相変わらず愛想の悪い対応をしているが、お客さんはそれを子供らしい邪気として、軽く流している。昨日笑ったのは、やっぱり珍しいことに違いない。

 九時を過ぎた頃、ようやく客の回転は遅くなり、お酒を中心にした長居をする人が増えてきた。仕事の話をしていく人達もいれば、しきりと弥生さんや水香にからんでくる人もいる。

 磐田<イワタ>、という人物に会ったのは、一心地ついた悟が店の隅で夜食をいただいている時だった。


「弥生さん、結婚するって本当?」


 悟は、かけ込んでいたご飯を喉につまらせた。


「したいなぁって思っているだけよ」


 手もとの水を飲み干し、やっと落ちつくことのできた悟は、その男を見た。見かけは、あまり好ましいとは言えない。かなり酔っていて、しまりもなく、弥生さんにからんでいる様にも見える。


「あの男と?」

「うん」

「あんな男のどこがいいの? 暗くて、いやらしい感じの中年」


 弥生さんは、ふふっ、と笑う。


「そんな所が、かな」

「実は結婚しているとか」

「戸籍を見せてくれたわよ」

「念がいっているなぁ。……嫌になったらきっと、お金をやるから別れてくれってタイプだぜ」

「そうかも知れない」

「だろぉ? なぁ、俺と二人でどこかでひっそりと暮らそうよ。その方がずっと幸せにしてやれるぜ」


 そんな時、「それじゃあ駄目だよ、おっさん」と、水香が呟いた。


「あぁ、悪かった。水香ちゃんも一緒に、三人で、なっ? 機嫌なおして」

「そうじゃなくてさ」

「じゃあ、なんだよ」

「どうせ口説くんなら、『子供も、店も、あなたの過去も含めて、大事にする』って言わなくちゃ」

「水香……」


 弥生さんが不安げに水香を見つめる。様子がおかしいと思ったら、磐田はおこらんばかりに水香を睨みつけていた。


「その言葉、どうせあの男が吐いたんだろ」


 まさか親父がそんなことを、と悟は疑ったのだが、水香はこくりとうなずいた。悟はしばらく放心し、そして、親父、やるじゃないか……と、心の中で呟いた。


「けっ」


 磐田はおもむろに煙草をふかし始めた。

 息子の知らぬところで親父は、美人の未亡人の取り合いという、遅い青春を送っていたらしい。そして、その勝負は親父の勝ちのようではないか。息子にとって、その事実は誇らしくさえあった。

 弥生さんの苦笑いと、水香の憎らしげな無表情が、何となく頼もしく見える夜だった。



 磐田さんは、そうそうに店をでた。寒い風のために上着を着なおし、煙草を大きく吸い込む。それをいつものように、横の路地に投げ捨て、あらたに煙草に火をつける。

 仕事も楽しいことがなければ、家に帰ってもやかましい。そしてとうとう、行き着けの飲み屋まで居心地が悪くなってきた。磐田さんは、何とも面白くなかった。いつものように、石や缶を蹴り散らしながら、大股で歩き去っていく。

 しかし磐田さんは、その自分の投げ捨てた煙草を、弥生さんが掃除していることを知らなかった。そして、その心遣いのなさがために、弥生さんは磐田さんを好きになれないという事実に、彼は気づくこともなかった。



 この家にお世話になっていた間の出来事で、悟がもっとも良く憶えているのは、何故か銭湯にいった時のことだった。築三十年になる家の風呂は水漏れが激しく、夏はシャワーですませるが、冬の間は家族で銭湯に出かけることになっていた。


「家自体がもろいから、直してもすぐに駄目になるのよね」


 十一時をまわり凍えるほどに寒い道すがら、弥生さんが呟く。

 悟にとって銭湯にいくのは、かなり久しぶりのことだった。小さい頃に、クラブの合宿で利用して以来だろう。タオルと着替えを持つ手が、夜風にさらされて冷たい。熱い風呂に入りたい気持ちで一杯だった。

 水香、華歩、果菜、弥生さんと火斗は女風呂へ。海と加羅、そして悟は男風呂ののれんをくぐる。お客は意外に多く、風呂好きのおじいさんや、仕事の帰りの男性、若い学生がいた。服を脱ぎ、タオルを持って、風呂場へゆく。

 冷えた体を温めようと、まずは軽く体を洗い風呂に入ろうとしたのだが、熱くてなかなか体をひたすことができない。ようやく、全身を湯の中に沈ませることができると、悟の口からは思わず「おぉぉ……」とため息がもれた。


「おじんくさい奴だな」


 悟の隣に入ってきた海が、熱くもない様子で腰を沈める。その横に、加羅が入ってくる。大中小の三人組は、どこから見ても兄弟に見えるだろう、と悟は考えていたが、あるいは親子に見えるかも知れないと思い、少しばかり落ち込んだ。


「それにしても大きな体だな。加羅が三つぐらい入りそうだ」


 悟の広い背中を見た海が、そう呟く。


「八十五キロの三分の一は……三十キロもないぞ」

「見かけの問題だ、見かけの。褒めているんだから、素直に受けとめろ」

「そうか」

「まぁ、でも飯の無駄食いは、許し難いな。むさぼり食うことは最も悪いことだと、仏教書にも書いてある。一粒のご飯にも三千の神が宿っているというからな」


 海の方がじじくさいなぁ、と悟は心の中でだけ呟いた。

 加羅は始終黙っていたが、体を洗おうとした悟の背中をタオルで一生懸命拭いてくれたのは、嬉しいことだった。もう一度浴槽に入り、十分にゆだった加羅は海に言われて百を数えたあと、先に外にでていった。

 海と悟はもうしばらく体を温めることにした。


「なあ、記憶喪失ってどういうものだ」

「そう言われても困るな。何というか、何もないんだ」

「何だそりゃ」

「いや、つまり記憶が」


 我ながら情けない嘘のつき方だとは思ったが、海は「ふぅん」とうなずいた。

 しばらく黙ったあと、海は「お前が兄貴ならいいな」と小さな声で呟き、驚く悟をあとにして出ていってしまった。

 神社のときの彼を見ても、そして風呂場での加羅の扱いを見ても、海はりっぱな兄貴だった。そして何もかも知り尽くしているような聡明さがあった。


「ばれているのかなぁ」


 悟はそう思いながら、ふと笑みがこぼれるのを止めることができなかった。

 悟もようやく風呂場を出て、服を着込んだ。海にコーヒー牛乳を、加羅にヤクルトをおごってやり、悟は牛乳を買って飲み干した。冷たい刺激が喉を通り、潤いが広がる。こうして飲む牛乳がいちばん美味しいなと思う、悟であった。


 帰り道、体が冷えないようにと足が早くなる。横にいる水香を見ると、しんなりと濡れた髪からやわらかな湯気がたちのぼっていた。風邪をひかないだろうか、とふと悟は心配になった。


「寒くない?」

「寒くない。凍えるような夜風のなかに飛び込むのは、好きなんだ」

「物好きな……」

「お前はわからないのか? 寒ければ寒いほど、体が温かいのが嬉しくないか?」


 あまり悠長なことのいえる寒さではなかったが、水香は気持ちよさそうにさっそうと歩きだす。


「もっともっと寒くなくちゃ。そんな時に『さむいっ!』っ呟くのが、またいいんだ」

「よくわからん」

「例えばだなぁ……スキー場とかで本当に寒くて、寒くて、本当に凍えそうなとき、『寒い』って心から呟くだろう?」

「もちろん」

「何にも考えずに、強く心から念じたことを吐き出す瞬間って、良くないか? 『お腹が空いたっ』とか」

「眠たいっ、とか?」

「そうそう。実感こもっててさ」


 水香が振り向き、微笑む。会話が途切れ、ふと静寂が広がった。電灯が一つ、家族を照らしだしていた。

 どういう意味なのか、悟はしばらく考えていた。そしてある瞬間、その意味が何となくわかるような気がした。

 例えば、「眠たい」にしても、うとうとする時の「眠たい」と、二日ぐらい徹夜したときの「眠たい」とは異なる。

 「きれい」ならば、車で出かけらくして見つけた「きれい」よりも、野山をかき分け苦労して見つけた「きれい」の方が、ずっと上のように思える。

 そして、一度その「眠たい」や「きれい」を憶えると、たぶんそんじょそこらの刺激では、「眠たい」とも「きれい」とも思わないかも知れない。

 昔は一度、そんなものを追いかけていたような気がするが、そういえばもう何の刺激も感じない日を送っているなぁ、と悟は気づいた。


「寒ければ寒いほど、体が温かいのが嬉しくないか?」


 ああ、そうかも知れない。秋の寂しい景色を見つめたとき、心の中に温かな思いがあることを知って、嬉しくなる。自分の帰れる家、布団、親、友達。

 きっと水香はそんな身近なものを、大事にしているのだろう。

 家に帰り、部屋の布団の上に座りこみ、昨日見えた明るい星を見つめながら、悟はそう結論づけた。

 もともとは自分の部屋なのに、気を使った様子で水香が入ってきた。片手には店から持ってきた瓶ビール、もう一方の手にコップを二つ持ちながら。


「飲まないか?」


 瓶ビールをちらつかせて、水香が尋ねる。十二時をとうにこえていたが、悟には嬉しかった。


「喜んで」

「そうこなくちゃ」


 布団の上に二人で座りこみ、ビールを開けてコップにそそぐ。二人で乾杯して飲んだビールは、よく冷えていた。

 水香はまだ十六のはずだったが、慣れた様子でコップをあける。それでも、飲み終わったあとの笑顔だけはまだ幼い。

 空いたコップにビールをついでやると、水香が話し始めた。


「お袋がさぁ、再婚したがっているんだ」


 今度は、悟も動ぜず受けとめることができた。ビールをつぎ終わると、自分のコップにもたした。


「それでさ、オレ、反対しているんだ」

「なんで」

「お袋に男がからんで、幸せになったのを見たことがないんだ」


 そうかも知れない、と悟は胃の中の冷たいビールを感じながら、深く納得した。


「それと、今回はお互い持っている者同士だろ? 持っている者同士が一緒になる場合、どちらかが捨てなくちゃいけないんだ」

「……」

「つまり、国と国とが合併した場合、王様は一人しか要らない。もう一人の王様には、引き下がってもらうしかない。引き下がるのはその場合、きまって弱い方だ」


 水香は半分ほどビールを飲んだ。コップをつかむ指が細くて長いことに、悟は気づいた。美しい子であることに、果たして本人は気づいているのだろうか。


「どうしたら、お袋は幸せになれるんだろうな」


 結婚をしても不幸になるかも知れない。しなくても、やっぱり不幸だとしたら、なぜ恋などしてしまうのだろう。水香にとって、それはきっと謎に違いない。

 悟も結論をだすことはできなかった。何故なら、その結論は当人同士がだすものであるのだから。親父はどこまで、弥生さんのために自分を捨てることができるのだろうか。


「あまり悩んでもしょうがない。悩んで結論が出る問題じゃないから」


 親でもなく、兄弟でもなく、友達でもないが故にかえって話してくれた悩みに、悟はそういうしかない思慮のなさが嫌だった。それでも、水香は静かにうなずいた。


「うん、そうだね、オレもそう思うよ」


 自分の半分ぐらいしかない水香の、立て膝に顔をのせている姿がかわいくて、悟は愛しさをこめてビールをついだ。

 二人は黙って、窓の外を見つめた。テレビの音もしない、ラジカセもない。ただ遠くに流れる車の音だけが、絶えることのない川のように聞こえてくるのだった。


「あの星はなんていうの」


 同じ星を見つめていることに気づいた悟がたずねる。


「あれはシリウス。全天一明るい恒星」


 それは青白く、夜風に吹かれる氷片のような星だった。


「オリオンのすぐしたに見えるから、すぐ分かる」


 窓に近付いてみると、確かにその上にオリオンの特徴的な姿が見えた。


「オリオンの左上の赤い星と、シリウスと、もう一つの明るい星を含めて、冬の大三角形だ」

「よく知っているな」

「星を見るのは好きなんだ」


 悟も星を見るのが好きなはずだったのに、どうして何も憶えることがなかったのだろう。小学校の頃の教科書を思い浮かべ、知識とはこういうものを指すのかも知れない、と悟は思った。



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