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家族になりたい  作者: 京夜
前編
1/8

記憶喪失


 親父が「再婚したい」と言いだし、息子の悟は突然のことに驚いた。お袋が亡くなってから二年と少しの時が流れ、ようやく親子二人で過ごしていくのに慣れた矢先の出来事だった。

 再婚の相手を聞き、悟はさらにびっくりした。相手は飲み屋の女将さんで、六つのコブつきだと言う。寡黙で誠実を絵に描いたような親父とは、どうしても結び付けることのできない取り合わせに、悟は開いた口がふさがらなかった。

 親父は、それなりに有名な文具会社の社長をやっており、地位、名誉、お金をともに持っているが、けっしてもてるようには見えない。着ている服は悪くないがそれほど頓着せず、顔もけっして渋くなく、ましてや美男子でもなかった。せいぜい真面目であること、誠実であることを誇れるぐらいだと思われる。

 シチュエーションだけから客観的に考えるに、相手には申し訳ないが、親父が騙されているようにしか悟には見えなかった。相手はきっとうらぶれた感じのする美人で、お金に困っているのだろう。既成事実をもとに結婚を迫っているというのが妥当な線か、とにかくお金が目的だと思われる。


 十二月も終わりに近いある日、悟は親父のポケットからマッチ箱をすりとり、居酒屋の場所を確かめ、とうとう店の前まできた。親父に紹介される前に、こっそりと相手を確かめようと思ってのことだった。

 悟はラグビー選手のような体格と体重はしているものの、どちらかと言えば勉強好きで、暖かな日の差す芝生のうえで、ゆっくりと寝ているのを至福とする方の人間だった。

 年齢は二十歳。心身ともに社会人になる一歩手前の未熟な年頃で、今回の行動も無謀な冒険に近いことを、ここに来てようやく悟り始めていた。


 たとえ会ったとしても、どれほどのことが分かろう。しかも、しばらくして親父に紹介されたとき、どんな顔をして再び会えばよいのだろう。

 商店街のはずれにある飲み屋は、ごく普通の店構えで、赤い大きな提灯がぶら下がっていた。暖簾がかかっていて、その向こうからあたたかな光と声がもれている。

 その扉を何気なくくぐればいいのだが、二時間前にしでかしたことを考えると、なかなか足は前に進まなかった。


 日も暮れたの七時頃、悟はようやく見つけたその時、扉が開きエプロンを着た女の子と目があってしまった。覚悟はしていたものの、いざあってみると体が動かぬもので、悟はとうとう扉がふたたび閉じるまで微動だにする事ができなかった。

 それからかえって入る決心がにぶり、時間ばかりがいたずらに過ぎ、一時は駅まで帰ったのだが、いま再び店の前に立っている。いま入ったら十分に怪しいのは承知をしているのだが、なかなか悟は諦める決心がつかなかった。


 その女の子は、非常にきれいだった。

 悟の胸にも届かない身長や、やや幼い顔立ちからして、高校生ぐらいに見える。とても細い体に小さな頭がのったような感じで、大柄な悟にとってはほとんど別の生き物のようだった。

 濃く太い眉毛と、細長い目が、強い意思と明晰そうな印象を、悟に与えた。

 親父の話が本当だとすれば、彼女は長女の「水香」という子のはずだった。

 しかし、どうしても扉をくぐることができない悟は、とうとう店の前の電信柱にもたれ掛かり、座り込んだ。入る決心がつかないまでも、もう一度だけ中の様子と、そしてできたら彼女を見てから帰りたいと、悟はぎりぎりの妥協点を見いだした。それならばきっと、顔を憶えられずにすむだろうし、それなりに納得して帰ることができそうだった。


「よし、それでいこう」


 ようやく決心がつき、もっと隠れた場所に移動しようと立ち上がろうとした矢先、扉は開かれた。あわてふためいて逃げようとした悟だが、あぐらをかいていた足はなかなか動いてくれなかった。

 ようやく立ち上がり、顔をあげると、お客を送り出した彼女とふたたび目があってしまった。道路の端と端に立つ二人の間は十メートル近くも離れているのに、彼女は悟を見つめていた。

 そして、彼女は信じられないことに、悟に向かって叫んできた。


「おいっ、お前っ!」

「おっ、俺?」


 悟はふいに呼ばれ、狼狽した。


「お前以外に誰がいる」


 その女の子が白い息をはきながら、近寄って来る。悟は逃げようかとも思ったが、その方がますます怪しく、あきらめて立ち尽くすしかなかった。やがて彼女は目の前で立ち止まった。


「その、何か」

「金がないのか?」

「えっ?」

「だから、金がないのか。なくて二時間も外に立っていたのか」


 飲み込むのにしばらく時間がかかった。彼女は悟が二時間ずっとここで待っていたと勘違いしたらしい。そのことに合点がいくまでの沈黙を、イエスとさらに勘違いした彼女は言葉を続けた。


「寒いだろう。余りもので悪いがただで食わせてやるから、中にはいれよ」


 言葉が出なかった。

 厚手の茶のエプロンを着た幼い女の子は、白い息を吐きながら立っている。

 悟は、自分がひどい偏見の目で彼女を見ていたことを知った。


「特別だぞ」


 そう言ってきびすを返し、彼女は悟の手をとり、店へと歩きだした。

 冷えきった悟の手にとって、それはとても温かかった。




 店の中は予想以上に温かく、悟は少しむせた。


「ほら。その席に座って、ちょっと待ってな」

「あっ、はい」


 他にもテーブルに二人、カウンターに二人の客がいた。サラリーマン風の人もいれば、職人風の人もいる。白髪やしわの様子からして、親父と同じぐらいの年のように見える。

 そして、その前には、女将さんがいた。

 美人。

 三十代後半のはずだが、もっと若く見える。

 髪は結っているが、親子そろって洒落っ気というものがないらしい、汚れてもよさそうなトレーナーにエプロンをはおっている。

 化粧もほとんどしていない様子だったが、それがとてもよく見えた。何というか、安心して話かけることのできる雰囲気が、その周りにあった。


「はい、見た目は悪いけど、味は悪くないはずだから」


 目の前に置かれたのは、くずれきった魚の煮込みと沢山のご飯、そして漬物だった。確かに、見かけはあまり良くない。しかし、湯気をたてているご飯が何となく嬉しかった。こんな雰囲気は、久しく味わっていなかった。


「有り難う」

「ゆっくり食いな」


 箸を取り、煮込みをつついた。口に運ぶと、それはとても良い味がした。

 うまい。

 確かに美味しかった。

 ご飯をかけこむと、それが何とも言えない温かみを持って、口のなかで広がった。

 悟は我を忘れて、食べ始めた。そういえば、まだ夕御飯を食べていなかった。


「よっぽど、お腹がすいていたんだな。お代わりするか?」

「お願いします」

「はいはい」


 女の子は少し嬉しそうだった。

 初めて見た笑顔は、ふと食べることを忘れるほど温かかった。


「たくさん食べていいぞ」


 ……そして悟は、結局どんぶり4杯を平らげてしまった。わずか一盛りの煮込み魚だけで。

 一心地ついて見渡すと、客がいっせいにこちらを見ていた。

 なっ、なにか悪いことをしただろうかと、悟の心にまた何かしてしまったような焦りが走る。

 その顔を見てか、女将さんがクスクスと笑った。


「水香、あなたの知り合い?」

「いや、店の前で二時間も立っていたんで、つい声かけちゃったんだ」

「こんな寒いなか?」

「お金がないらしい」


 ふうん、と女将さんがあらためて見つめる。悟は恥ずかしくなって、視線を落とした。


「身なりは悪くないのに、いったいどうしたの?」


 こっそり観察しに来た、などとはとても言えなかった。


「誰かにお金をすられたとか?」


 何か言い訳をすればいいのだが、何も考えていなかった頭は真っ白だった。

 困り果てて悟の顔は、かぁっと熱くなった。


「お金、貸してあげようか?」

「いっ、いえ。お金はあります」

「えっ、じゃあ、なぜ2時間も外に立っていたの」

「うっ……その……」


 沈黙が広がる。

 何か言わなくては、とうていすまされない雰囲気だった。


「あの、どうも、記憶がないみたいで」


 何を言ってるんだぁっ! と心のなかで叫んでいる時はすでに遅かった。


「まぁ、それでどうしていいか分からずに外に立っていたのね」

「何だ、そうだったのか。何か、身分を証明するものは持っていないのかよ」


 幸か不幸か、証明するものは何も持っていなかった。お金が5千円弱、そして家の鍵だけである。


「警察には行ったのか?」

「……」

「まだなのか」

「ほら、しばらくは動転して、どうしたらいいか分からなくなるって言うじゃない」

「そうか」


 悟はたまりかねて千円を机に置き、店を飛び出した。


「待てっ!」


 女の子−−水香の声が響く。

 悟はおもいっきり扉の枠に頭をぶつけ、そして、そのまま外へ逃げだした。


「待て!」


 悟は走った。もうほとんど人通りのない路地を走り抜けた。

 あとから水香の足跡が聞こえる。

 つかず離れず。でも、いつまでたってもあきらめる気配がなかった。

 走る、追いかける、走る、追いかける。

 ……そして、悟はあきらめた。

 逃げきれないわけではなく、これほど一所懸命に走ってくれる水香を振り切ることができなかった。

 たかが行きずりの記憶喪失者に、どうしてそこまでできるのか。それを考えると、悟は観念するしかなかった。


「ま……て……」


 やっと追いついた水香の声ははく息に邪魔され、途切れ途切れに聞こえる。

 悟は水香が落ちつきを取り戻すまで待った。

 この子が妹になるかも知れない、と思いながら。

 水香は大きく深呼吸をして、そして言った。


「泊まっていけよ。どうせ帰るところもないんだろ」

「……」

「遠慮すんな」


 悟は少しだけ、涙を浮かべた。




 むかし、星を見にいったことがある。

 雲ひとつない夕焼けを見て、今日はきっと満天の星が見られるに違いないと確信し、自転車に乗り外に出た。

 こんな街中では、星は見えない。もっともっと田舎にいかなければ……ただそれだけを思い、ひたすら北へ進んだ。

 こぎだしたペダルは軽かった。都市を抜け、家並みがまばらになるとワクワクした。

 知らない道を抜け、知らない街を抜ける。

 まだ見ぬ世界が広がっている。静かな街が広がっている。自転車は歩道を駆け抜けた。

 しかし、少年はやっぱり馬鹿だった。

 国道は、街から街をつなぐ動脈。いつまでたっても、人里離れたところにつくわけがない。

 そして、天気はしだいに暗転し、雲が張り出していた。

 天気予報を見ていない、月が明るいときは星は見えない、その時の星座を知らなくては面白くない……だというのに、思慮の足りない少年は、星が見たい一心で家を飛び出した。

 人通りがなくなっていく。車が少なくなっていく。あたりは寝静まった頃だった。

 心寂しくなった少年は、それでも引き返すに引き返せなかった。まだ星を見ていない。

 雲はどんどん敷き詰められていく。はては小雨さえぱらついている。

 でも少年はペダルをこぎ続けた。

 自転車は山間に入った。

 もう星を見ることは絶対にできないのに、まだ同じ長さのある道を帰らなくてはいけないのに、それでも北へ向かった。

 坂道はつらかった。ペダルはだんだん重くなり、少年は歯を食いしばって力をいれなくてはならなかった。

 横をトラックが通り抜けて行く、電灯のあかりだけが足元を照らす。

 寂しかった。

 鼻がじんじんして、気を抜くと涙が出そうだった。

 長い坂道を抜け、少年は山を登りつめた。

 そこで少年は、眼下に広がる街の灯をみた。


「……」


 少年は少しだけ泣いた。

 灯篭流しのような、平野いっぱいの灯。

 星以上にしきつめられた光の粒は、強く明るかった。

 あの光ひとつひとつが、人が生きている証明だと思うと、少年は心がほっとするのを感じた。

 涙を袖でぬぐい、少年はようやく帰る決心をした。

 星を見たのだから。



 悟は水香の部屋に寝ることになった。

 浴衣を借り、布団の中にはいると、ふと隣部屋のやかましい子供達の声を聞いて、そんな昔の話を思いだした。

 この部屋は静かだった。机とタンスと本箱と布団以外なにもない部屋は、ぽっかりと大きめの窓を持っていた。

 そこに明るい星がひとつ、見えた。

 寒空に、青白い光を煌々とはなっていた。

 悟は何とはなく、その星に感謝した。

 この家族と一緒になれることに、そして今日の出来事に。

 水香の言葉は、あの街の灯のように、心の中を温かくしてくれた。

 明日、朝一番にここを出よう。

 そして、今度は兄として何気なくあらわれよう。

 悟はそう決心して、布団にもぐりこんだ。

 寒い部屋で、布団の中だけは何よりも温かかった。



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