過去の国、現在の国、未踏の地としての未来
私の認識のうえでは世界は3つに分けられる。
いま私たちが経験している<現在の国>
私たちが経験しなかった<過去の国>
まだ誰も見たことも行ったこともない<未踏の地としての未来>
私は<過去の国>が好きだ。よく訪れる。
そこには私の敬愛する人々がいる。
老子、聖書筆者たち、プラトン、ブリューゲル、セルバンテス、ショーペンハウアー、ジョゼフ・ド・メーストル、葉山嘉樹、ジャック・ロンドン、魯迅、ブルガーコフ、坂口安吾、オーソン・ウェルズ、タルコフスキーなどなどである。
私は彼らとコミュニケーションをとって満足して、<現在の国>へ帰っていく。
便宜上<過去の国>と呼んでいるが、そこは失われた場所ではない。いまでもそこには人々が存在している。私は死体と話しているわけではない。ましてや人形でもゾンビでもない。
<過去の国>はたしかにある。現代日本に住んでいる私がたびたび訪問する異国として存在している。
しかし、こんな話はよく聞く話だろう。故人と作品を通してコミュニケーションがとれる。手垢のついた話だ。
だから、私があらためてこのことを書くに至った経緯について話したい。
時は2026年8月6日(木曜日)のことである。
私はYouTubeをザッピングしていた。そこで目に留まったのがドラマ『WATER BOYS』のオープニング映像である。福山雅治の『虹』をバックに5人の主要人物たちが一緒に通学する映像だ。
ドラマの『WATER BOYS』は2003年夏に放送された。私が8歳のころだ。このドラマのことはよく覚えている。さすがに細部の記憶は曖昧だが、再放送が繰り返し行なわれたからだろう。夏になれば『WATER BOYS』は必ずと言っていいほど放送された。そして、夏休みをだらだらと過ごしていた私はそれを観ていたのである。
時間にして23年振りの再会だ。「こういうオープニングだったな」と私は思い返した。そして、ノスタルジーに……浸らなかった。
私は懐かしさに心温めることはなかった。ただ苦しみと悲しみがあった。
『WATER BOYS』は面白い作品で、当時の私も楽しんでいた。だが、苦しい。
なぜこんな気持ちを抱いてしまうのか。それは、あらたな展開がない、つまり可能性が喪失してしまったからである。
先述の<過去の国>の住民との話を聞いて、一部の人はこう思ったかもしれない。
「懐古趣味」「復古主義」と。
しかし、それはどちらも妥当しない。私の発言を思い出していただきたい。
────引用開始─────
便宜上<過去の国>と呼んでいるが、そこは失われた場所ではない。いまでもそこには人々が存在している。私は死体と話しているわけではない。ましてや人形でもゾンビでもない。
<過去の国>はたしかにある。現代日本に住んでいる私がたびたび訪問する異国として存在している。
────引用終了─────
<過去の国>と言えども、それはもう存在しない時間のことではない。
いま現在も存在している空間なのである。
私が生活している<現在の国>から<過去の国>はとても遠いように見える。しかし、実際にはそうではない。
書店や図書館に行けば彼らが書いたものが読める、美術館や映画館に行けば彼らが造ったものが見られる、科学館や博物館に行けば彼らの発見を知ることができる。そして、現代においては、自宅にいながら彼らの痕跡を感じることができるのだ。
先ほどのカテゴライズに応答するとすれば、私は「異国趣味」なのである。
<現在の国>はあまりに狭い。空間においても、交友関係においても、そして考えにおいても。
だから、私は異国を訪ねて、異人と交わり、異文化の楽しさを味わっているのである。それらは決してノスタルジーと呼ばれるものではない。
さて、話を戻そう。
『WATER BOYS』はどちらの国に属するのだろうか。私の認識に限って言えば<現在の国>だ。なぜなら、私は1995年生まれであるゆえ、(繰り返しになるが)放送当時は8歳だったからである。
そして、そこに出演していた俳優たちも<現在の国>の住民である。名前を挙げれば、山田孝之、森山未來、瑛太、石垣佑磨、石井智也は、私と同じ<現在の国>に生きている。だから、私は苦しいのだ。
<過去の国>は私が生まれるまえの人々で構成されている。時間は流れていない。<過去の国>は<静止した国>でもある。
一方、<現在の国>には時間が流れている。若かった俳優たちは年をとった。むろん、私も23歳も年をとった。これがなにを意味するかといえば、死である。
『WATER BOYS』のキャストを見て、その若さを認識することは、当時それを観ていた自分の若さを知覚することなのだ。
整理するとこうなる。
【図】
『WATER BOYS』を観て俳優たちの若いころを認識する
↓
それを観ていた当時の自分の若さを認識する
↓
自分が時間によって変化したことを知覚する
↓
時間が不可逆であることを知覚する
↓
自分にも終点(終わり)があることを知覚する
『WATER BOYS』は時間を測る物差しの役割を果たしたからこそ、私は悲しみ、そして苦しんだのだ。
では結論としては、私は死を怖がっているだけなのか。どうもことはそう簡単ではないようである。
たしかに、私は死を恐怖している。では、なぜ死ぬことを怖がっているのか。ここをもう少し解き明かすことができそうだ。
普通、人は死を意識したときに、ノスタルジーに浸るものだ。そうすれば、心の安定が得られるからである。
しかし、私は少し違う。
ノスタルジーを誘発するものを知覚することによって、時間経過を認識し、死の意識を得るというプロセスを経ている。だから、昔の写真や映像を見ても、ノスタルジーには浸れず、心の安定も得られない。『WATER BOYS』がトリガーになって苦しんだことは、このように説明できる。
────引用開始────
私の認識のうえでは世界は3つに分けられる。
いま私たちが経験している<現在の国>
私たちが経験しなかった<過去の国>
まだ誰も見たことも行ったこともない<未踏の地としての未来>
────引用終了────
一般的な時間感覚はこうなる。
過去/現在/未来
私の時間感覚はこうである。
異国/故郷/未踏の地
ここで言う異国は、むろん<過去の国>である。
故郷とは、<現在の国>、つまり私が実際に生まれて生活している場所である。
そして最後、未踏の地はまだ誰も経験していない可能性で溢れた場所である。そう、未来だ。
余談だが、私は滅多に写真を撮らない。日記もつけていない。そして、私は新作の書籍や映画やアニメを鑑賞するとき、一抹の不安を覚える。つまらなかったらどうしよう、という心配ではない。いつかそれらが、私に時間経過を突きつける物差しへと変貌するからだ。
端的に言ってしまえば、
異国には行きたいが、故郷には帰りたくない。未踏の地へ進みたい。
これが私の時間感覚である。
少し昔話をしよう。
私の母方の祖父は、自宅から1時間ほど離れたところに住んでいた。若いころはとても苦労をしたらしい。祖父本人から聞いたわけではないが、妻である祖母や母がそう言うのだ。
祖父は野球と将棋が好きだった。私は小学5年生のころに将棋クラブに入っていた。ちっとも勝てなかったが、それでも好きだったようで、定跡の本を買っては勉強していた。
子供にありがちな心理として、強くなってから祖父と対局しようと思っていた。棒銀や四間飛車、右四間に右玉戦法などについて調べ、コンピュータと対局して棋力向上に努めた。
しかし、私が中学に上がってすぐ、祖父は病気で亡くなってしまった。私はただ負けたくないという幼稚な心理で勝負を先送りにした結果、永遠に祖父と対局する機会を失ったのである。
その日のことはよく覚えていて、アマチュアからプロ棋士になった瀬川晶司の自伝『泣き虫しょったんの奇跡』を読んでいたと記憶している。
祖父の遺体が置かれた部屋では録音された念仏が唱えられており、その隣で私は黙々と本を読んでいた。
なぜこのことを書いたかといえば、私が抱いている恐怖は単なる死の恐怖ではないからだ。
可能性の不可逆的な消滅
時間とそれによってもたらされる死にはそういう効果がある。
祖父が生きていれば、私は祖父と対局できた。確率に変動はあれど、「一緒に将棋を指そう」という気持ちさえあれば、可能性はあった。
しかし、祖父の死によってそのような可能性は消滅した。祖父と対局するという未来は選択不可能になった。
『WATER BOYS』は私に時間経過が現実だと教えた。選択されなかった可能性は永久に失われ、ついには可能性を持つ主体(つまり人間)そのものが消滅する。
私の核心にあるのは「永遠に存在したい」という自己保存の欲求ではない。まったくないとは言わないが、中心ではない。
そうではなく、「未来を永遠に持ち続けたい」という可能性の保存こそ核心なのだ。
新しいものに出会うたび、私の心のなかには不安が顔を出す。それらは時間が絶え間なく流れていくことの証拠として、私の喉元に突き立てられることが決まっているからだ。
私はすでに多くを失った。「祖父と対局する可能性」はその一つである。そして、今後も様々な可能性を失い続けるのである。




