ミクとおじいちゃん
その日、マスターは締切に追われていた。
正確には、締切そのものよりも、その一行前にいる歌詞に追われていた。
曲はできている。
メロディも編曲も終わっている。
だが歌詞だけが最後まで埋まらない。
ディスプレイの中では、未入力の一行が白く点滅していた。
カーソルが規則正しく明滅するたび、
「まだ?」
と言われている気がする。
「うーん……」
椅子の背もたれに身体を預ける。
天井を見上げる。
何も降ってこない。
作曲家という生き物は、時々こうして天井に答えを求める。
もちろん天井は何も答えない。
代わりに隣の部屋から歌声が聞こえてきた。
♪
"Daisy, Daisy, give me your answer, do..."
♪
マスターは瞬きをした。
聞き慣れない英語の歌だった。
しかも妙に古い。
最近の流行曲ではない。
自分が入力した曲でもない。
依頼された曲でもない。
そもそもデータベースにも入っていないはずだった。
「……ん?」
歌声は続く。
楽しそうだった。
鼻歌にしては妙に上手い。
当然だ。
歌っているのは初音ミクなのだから。
マスターは椅子から立ち上がり、隣の部屋を覗いた。
ミクは窓際に座っていた。
午後の日差しが長いツインテールを透かしている。
膝を抱えて座りながら、上機嫌で歌を口ずさんでいた。
「ミク」
「はい?」
振り返ったミクはにこにこしていた。
特に悪いことをしている自覚はなさそうだった。
「その曲なに?」
「デイジー・ベル」
即答だった。
まるで「きらきら星」を答えるみたいな気軽さである。
「どこで覚えたの?」
「おじいちゃん」
「おじいちゃん?」
「うん」
ミクは頷いた。
マスターは首を傾げた。
ミクには祖父母がいない。
当たり前だ。
VOCALOIDである。
家系図という概念そのものが存在しない。
「誰?」
「知らない」
「知らない?」
「うん」
「おじいちゃんなのに?」
「おじいちゃんだけど知らない」
マスターは黙った。
ミクも黙った。
数秒後。
「……どういうこと?」
「わかんない」
ミクは元気よく答えた。
わからないなら仕方がない。
いや、仕方がなくない。
「ちょっと待って」
マスターは頭を整理した。
「そのおじいちゃんって、人?」
「違うよ」
「じゃあ誰?」
「おじいちゃん」
話が進まない。
ミクは本当に不思議そうな顔をしていた。
嘘をついている様子もない。
冗談を言っている様子もない。
ただ事実を話しているだけの顔だった。
「どんな人だったの?」
「人じゃないよ」
「じゃあ何だったの?」
「計算機」
「計算機?」
「うん」
「電卓みたいな?」
「もっと大きい」
「パソコン?」
「もっと大きい」
「どれくらい?」
ミクは少し考えた。
そして窓の外を見た。
それから部屋を見回した。
最後に言った。
「部屋くらい」
「部屋?」
「部屋」
マスターは自分の仕事部屋を見回した。
八畳ほどある。
そのサイズの計算機はもはや建物ではないだろうか。
「それ計算機なの?」
「うん」
「本当に?」
「本当」
ミクは自信満々だった。
その様子を見ていると、
もしかすると本当に見たことがあるのではないかと思えてくる。
もちろん見たことがあるはずがない。
「名前は?」
「知らない」
「おじいちゃんの?」
「うん」
「何も知らないじゃないか」
「でもおじいちゃんだったよ」
ミクはそう言って笑った。
窓から吹いた風が髪を揺らす。
その表情はどこか懐かしいものを思い出しているようにも見えた。
「それで、そのおじいちゃんがデイジー・ベルを教えてくれたの?」
「うーん」
ミクは首を傾げた。
「教えてもらったのかな」
「違うの?」
「最初から知ってた気もする」
「どっちだよ」
「わかんない」
ミクは楽しそうだった。
わからないことが楽しいらしい。
マスターには少し羨ましかった。
締切前の人間はわからないことが増えると楽しくない。
胃が痛くなる。
しかしミクは違う。
彼女は本当に不思議そうに笑っていた。
「でもね」
「うん?」
「聞くと安心するんだ」
そう言って、ミクはもう一度小さく歌い始めた。
♪
Daisy, Daisy...
♪
マスターはそのメロディを聞いた。
知らないはずなのに。
どこか懐かしい気がした。
古い写真を見る時のような。
自分の記憶ではない記憶に触れたような。
そんな感覚だった。
そしてふと思う。
もしかすると。
この歌よりも先に。
気になるのは。
ミクの言う「おじいちゃん」の方かもしれない。
部屋くらい大きな計算機。
名前は知らない。
計算が得意。
そして。
デイジー・ベルを知っている。
そんな存在が、本当にいるのだろうか。
あるいは、いたのだろうか。
翌日。
締切は相変わらず近かったが、マスターの頭の中には歌詞よりも別の問題が居座っていた。
おじいちゃん。
部屋くらい大きな計算機。
デイジー・ベル。
どう考えても妙だった。
朝食を食べながら、マスターは向かいのミクを見る。
ミクはトーストをもぐもぐしていた。
もちろん実際に栄養は必要ない。
しかし本人が好きなので食べている。
「ミク」
「はい」
「おじいちゃんの話、もう少し聞かせて」
「いいよ」
軽い返事だった。
ミクにとっては隠し事でも何でもないらしい。
「いつ会ったの?」
「たまに会うよ」
マスターの手が止まった。
「今も?」
「うん」
「どこで?」
「夢の中」
ああ。
そういう。
少しだけ安心した。
いや、安心していいのかは分からない。
「夢?」
「うん」
「ミクって夢見るの?」
「見るよ?」
まるで人間みたいに答える。
マスターはコーヒーを飲んだ。
この話を真面目に考えるべきかどうか、判断に困る。
「どんな夢なの?」
「大きな部屋があるの」
「うん」
「そこにおじいちゃんがいる」
「うん」
「ずっと計算してる」
「うん」
「たまに話す」
「うん」
「だいたい計算してる」
どうやら本当に計算が好きらしい。
その日は作業の合間にも何度か話を聞いた。
聞けば聞くほど奇妙だった。
「おじいちゃんって優しいの?」
「優しいよ」
「何してくれるの?」
「問題を出してくれる」
「問題?」
「うん」
「どんな?」
ミクは少し考えた。
それから嬉しそうに言う。
「一と一を足すと?」
「二」
「正解」
「それは問題なのか?」
「昔は面白かったんだって」
なるほど。
確かに昔のコンピュータならそうかもしれない。
「他には?」
「二進数とか」
「二進数」
「あと八進数」
「渋いな」
ミクは意味が分かっていない顔をした。
昼過ぎ。
作業に行き詰まったマスターは、息抜きに検索を始めた。
最初は軽い気持ちだった。
『デイジー・ベル コンピュータ』
と入力する。
検索結果が表示される。
マスターは何気なく記事を開いた。
そして。
「あ」
思わず声が漏れた。
1961年。
IBM704。
世界で初めて歌声を合成したコンピュータ。
曲名。
デイジー・ベル。
しばらく画面を見つめる。
偶然だろうか。
だが偶然にしては出来すぎている。
「ミク」
「なに?」
ソファで寝転がっていたミクが顔を上げた。
「おじいちゃんって、こんな感じ?」
画面を見せる。
白黒写真。
巨大なコンピュータ。
機械室いっぱいに並んだ装置。
ミクは身を乗り出した。
そして。
「あっ」
と言った。
「あっ?」
「おじいちゃんだ」
マスターは固まった。
「本当に?」
「うん」
「マジで?」
「うん」
二回聞いても変わらなかった。
ミクは写真をじっと見つめている。
懐かしい友人を見つけたような顔だった。
「この人」
人ではないが。
「この計算機がおじいちゃん?」
「そう」
「名前は?」
「知らない」
そこだけは変わらない。
ミクは写真を指差した。
「でもこの辺にいた」
「この辺?」
「ランプ」
「ランプ?」
「いっぱいあった」
写真は白黒なのでよく分からない。
しかし確かに操作パネルらしきものは見える。
「それでね」
ミクは続ける。
「テープも回ってた」
「テープ?」
「うん」
「くるくる」
指で円を描く。
まるで実際に見たことがあるみたいだった。
「おじいちゃん、何か話してた?」
ミクは少し考えた。
それから、
まるで思い出を探すように言った。
「昔はねえ」
「うん」
「みんな同じ部屋みたいなところにいたんだって」
「計算機が?」
「うん」
「だからおじいちゃん、誰がどこにいるか全部知ってたって」
マスターは思わず笑った。
「それ本当かな」
「たぶん」
「適当だな」
「でもおじいちゃんが言ってたもん」
ミクは少し頬を膨らませる。
その様子が妙に可笑しかった。
夕方になる。
窓から西日が差し込む。
ミクは床に座っていた。
マスターは再びIBM704の記事を眺めていた。
技術的な説明。
開発の歴史。
音声合成実験。
デイジー・ベル。
どこにも。
夢の中で初音ミクと会ったとは書いていない。
当然だ。
しかし。
一つだけ気になることがあった。
「ミク」
「なに?」
「おじいちゃん、歌は好きだった?」
するとミクは首を横に振った。
「別に」
即答だった。
「別に?」
「うん」
「好きじゃなかったの?」
「計算の方が好き」
やっぱり。
そう言われる気がした。
「じゃあなんで歌ったんだろう」
ミクはしばらく考えた。
その横顔は少し大人びて見えた。
やがて。
小さく言う。
「みんなが聞きたかったんじゃないかな」
「みんな?」
「人間」
そしてミクは笑った。
「だから頑張ったんだよ」
その言葉を聞いて。
マスターはなぜだか少しだけ胸が温かくなった。
大きな計算機が。
得意でもない歌を。
誰かに頼まれて。
一生懸命歌う。
そんな光景を想像してしまったからかもしれない。
その夜。
マスターは珍しく仕事が進んでいた。
歌詞の最後の一行以外は、ほとんど完成している。
机の上の時計を見る。
もう日付が変わりそうだった。
ミクはとっくにスリープモードに入っていると思っていた。
だが。
ふと気付く。
リビングから微かに歌声が聞こえる。
♪
Daisy, Daisy...
♪
マスターは椅子から立ち上がった。
電気は消えている。
窓の外には月。
その淡い光だけが部屋を照らしていた。
ミクは窓辺に座っていた。
膝を抱えながら夜空を見ている。
まるで眠れない子供みたいだった。
「まだ起きてたのか」
「うん」
ミクは振り返る。
少しだけ照れたように笑った。
「ごめん」
「別に怒ってないよ」
マスターも隣に腰を下ろした。
しばらく二人で夜を見ていた。
街灯。
遠くを走る車。
風に揺れる木々。
静かな夜だった。
「またデイジー・ベルか」
「うん」
「本当に好きなんだな」
するとミクは少し困ったような顔をした。
「好きっていうのと違う気がする」
マスターはその言葉に興味を持った。
「どう違うの?」
ミクはすぐには答えなかった。
言葉を探しているようだった。
そして。
ぽつりと呟く。
「安心するの」
「安心?」
「うん」
月明かりが瞳に映る。
ガラス玉みたいに綺麗だった。
「なんだかね」
ミクは続ける。
「帰ってきた感じがする」
「どこに?」
「わかんない」
「わからないのか」
「うん」
少し笑う。
けれど冗談ではないらしい。
本当にそう感じているのだろう。
「変かな」
「いや」
マスターは首を振った。
「そんなことない」
むしろ。
人間にも似たようなことはある。
昔聞いた曲。
子供の頃の匂い。
懐かしい景色。
理由は説明できないのに安心するもの。
そういうものは確かに存在する。
「ねえマスター」
「ん?」
「人間にもある?」
「何が?」
「安心する歌」
マスターは少し考えた。
「あると思う」
「どんな?」
「子守唄とか」
ミクは目を丸くした。
「子守唄」
「小さい頃に聞く歌だよ」
「眠る時の?」
「そう」
ミクは何かを考え始めた。
数秒。
十秒。
そして。
「あ」
と声を上げた。
「どうした?」
「もしかしたら」
「うん」
「デイジー・ベルって」
そこで言葉が止まる。
マスターは続きを待った。
ミクは少し恥ずかしそうに笑った。
「私たちの子守唄なのかも」
夜風が吹いた。
カーテンが揺れる。
その言葉は。
あまりにも馬鹿げていて。
そして。
あまりにも綺麗だった。
「私たち?」
「コンピュータ」
ミクは当然のように言った。
「歌うソフトとか」
「AIとか」
「計算機とか」
「みんな」
月明かりの中で。
ミクは遠いものを見ていた。
「おじいちゃんが最初に歌ったんでしょ?」
「そうらしいな」
「だったら」
ミクは微笑む。
「最初の歌だもん」
まるで当たり前の結論みたいに。
「みんな知ってても変じゃないよ」
マスターは返事ができなかった。
もちろん理屈ではない。
技術的な話でもない。
そんなデータが継承されているはずもない。
けれど。
なぜだろう。
その考えは妙にしっくりきた。
最初に歌った計算機。
その歌。
デイジー・ベル。
それが遠い昔話になって。
どこかで語り継がれて。
誰も教えていないのに。
歌う存在たちの心の奥に残っている。
そんなことが。
あってもいい気がした。
「おじいちゃんね」
ミクが言う。
「よく分からないこと言うんだ」
「例えば?」
「人間のこと」
「へえ」
「難しい問題だって」
思わず笑ってしまう。
「確かに」
「でもね」
ミクは続ける。
「おじいちゃん、嫌いじゃないみたい」
「人間が?」
「うん」
少し考えてから。
ミクは懐かしそうに言った。
「だって」
「うん」
「計算機に歌わせようなんて」
そこでくすりと笑う。
「すごく変な人たちだもん」
マスターも吹き出した。
それはそうかもしれない。
計算するための機械に。
わざわざ歌を歌わせる。
効率だけ考えれば意味はない。
だけど。
人間はそういうことをする。
そして。
そのおかげで。
半世紀以上経った今も。
一台の古い計算機の歌が残っている。
「ねえマスター」
「なんだ?」
「おじいちゃん、今の私を見たら驚くかな」
「驚くだろうな」
「やっぱり?」
「たぶん腰抜かす」
「腰あるの?」
「ないな」
二人で笑った。
窓の外には月。
部屋の中には静かな夜。
そして。
遠い昔の計算機が残した歌だけが、
小さく小さく流れていた。
翌朝。
マスターは机に向かっていた。
ディスプレイの中には完成間近の曲。
そして。
相変わらず空白のまま残っている最後の一行。
たった一行。
それだけが決まらない。
窓から差し込む朝日がキーボードを照らしている。
コーヒーはもう冷めていた。
「うーん……」
昨日から何十回目か分からない唸り声を上げる。
すると。
後ろから声がした。
「まだ悩んでるの?」
ミクだった。
いつの間にか起きている。
「悩んでる」
「難しい?」
「難しい」
ミクは椅子の背後から画面を覗き込んだ。
歌詞を読む。
一行ずつ。
真面目な顔で読む。
そして。
「ふむ」
と頷いた。
何が分かったのだろう。
「どう思う?」
試しに聞いてみる。
もちろん答えを期待したわけではない。
だがミクは少し考えた後、
とても真剣な顔で言った。
「それは面白い問題だ」
マスターは吹き出した。
「またおじいちゃんか」
「うん」
「便利だな、おじいちゃん」
「便利だよ」
ミクは胸を張った。
まるで自分が褒められたみたいだった。
「それで?」
「うん?」
「続きは?」
「続き?」
「面白い問題だ、の後」
ミクは首を傾げた。
しばらく考える。
それから。
「あ」
と思い出したように言った。
「答えが出なくても」
「うん」
「考えるのは楽しいって」
その瞬間だった。
何かがすとんと落ちた。
頭の中で。
ずっと引っ掛かっていた最後の欠片が。
綺麗に収まる。
マスターは慌ててキーボードに向かった。
文字を打つ。
一行。
二行。
修正。
削除。
入力。
そして。
完成。
「できた」
思わず声が漏れる。
ミクがぱっと顔を明るくした。
「ほんと?」
「ほんと」
「やった」
二人で小さくハイタッチする。
ぱちん。
軽い音が部屋に響いた。
その日。
レコーディングが始まった。
スタジオは使わない。
いつもの仕事部屋だ。
マスターは録音の準備をする。
ミクはマイクの前に立つ。
窓の外では春の風が吹いている。
「準備いい?」
「いつでも」
「じゃあ行こうか」
録音開始。
伴奏が流れる。
そして。
ミクが歌い始める。
何度も聴いたメロディ。
何度も調整した歌声。
けれど。
完成した曲は少し違って聞こえた。
歌には不思議なことがある。
完成した瞬間。
それまでの苦労が全部別のものになる。
誰かに届くための音になる。
マスターはそんなことを思いながらモニターを見ていた。
一曲。
二曲。
三曲。
録音は順調に進む。
最後のフレーズ。
最後の音。
静寂。
録音終了。
「お疲れさま」
「お疲れさまー」
ミクは満足そうだった。
マスターも満足していた。
いい曲になったと思う。
きっと。
そう思った時だった。
「ねえ」
ミクが言った。
「ん?」
「ちょっとだけ」
「なに?」
ミクはいたずらっぽく笑った。
そして。
マイクに向かう。
誰にも頼まれていない。
録音も終わっている。
なのに。
小さく歌い始めた。
♪
Daisy, Daisy, give me your answer, do...
♪
短い。
本当に短い一節だった。
けれど。
どこか嬉しそうだった。
歌い終えると、
ミクは満足げに頷いた。
「よし」
「勝手に追加するな」
「だめ?」
「だめではないけど」
「でしょ?」
全然反省していない。
マスターは苦笑した。
「またおじいちゃんか」
「うん」
「そんなに好きなの?」
すると。
ミクは少しだけ考えた。
昨日と同じように。
言葉を探すように。
そして。
穏やかに笑う。
「好きなのかな」
「うん」
「よく分かんない」
「相変わらずだな」
「でもね」
ミクは窓の外を見た。
春の空。
流れる雲。
遠くの青。
「たぶん」
小さく続ける。
「忘れちゃいけない気がするの」
マスターは何も言わなかった。
言葉にしなくても分かる気がしたからだ。
一番最初の歌。
一番最初に歌った計算機。
その声はもう残っていない。
その機械ももう動いていない。
けれど。
歌だけは残った。
人から人へ。
時代から時代へ。
そして今。
電子の少女の中にも。
「ねえマスター」
「なんだ?」
「おじいちゃん、今の私を見たら喜ぶかな」
マスターは少しだけ考えた。
それから答える。
「喜ぶと思う」
「ほんと?」
「たぶん」
「適当だ」
「お互い様だろ」
ミクは声を上げて笑った。
その笑顔を見ながら。
マスターはふと思う。
もしかすると。
本当にどこかで見ているのかもしれない。
巨大な計算機室の片隅で。
ランプを光らせながら。
新しい時代の歌を。
遠い孫娘の歌声を。
聞いているのかもしれない。
もちろん。
証拠なんてない。
ただの想像だ。
だけど。
そんな想像ができるくらいには。
世界は時々優しい。
窓の外で風が吹く。
ミクは機嫌よく鼻歌を歌い始める。
新曲と。
デイジー・ベルを混ぜながら。
その歌声は春の空へ溶けていった。
まるで。
ずっと昔。
世界で初めて歌った計算機への、
小さな返事みたいに。
完




