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田舎者に用はないのでしょう?

作者: 小林翼

王都の社交界で最も華やかな季節、春の舞踏会が開かれるこの日、エリーゼ・フォン・ノルトヴァルトは静かに立っていた。辺境伯家の一人娘である彼女は、王都でも指折りの名門であるアルトハイム侯爵家の長男、フェリクス・フォン・アルトハイムとの婚姻を、幼い頃から約束されていた。


しかし今日、その婚約は破棄される。


舞踏会場の片隅にある応接室で、フェリクスは胸を張って立っていた。その隣には、彼の新しい婚約者となる予定の令嬢、マリアンヌ・フォン・ローゼンタールが優雅に微笑んでいる。


「エリーゼ、君との婚約は解消させてもらう」


フェリクスの声は冷たく、まるで商談を打ち切るかのような口調だった。エリーゼは何も答えず、ただ静かに彼を見つめている。


「君は辺境の田舎育ちだ。王都の社交界にふさわしい教養も、優雅さも持ち合わせていない。それに、あの辺境とやらで何をしているのかも分からない。一年の半分以上を辺境で過ごすような女性では、侯爵家の妻は務まらない」

「そうですか」


エリーゼの返答は短かった。フェリクスは少し眉をひそめる。もっと取り乱すか、懇願するかと思っていたのだろう。だがエリーゼは相変わらず、静かな表情のままだ。


「マリアンヌこそが、真に侯爵家にふさわしい令嬢だ。彼女は王都の社交界で誰からも愛され、文化的素養も豊かだ。それに比べて君は、異民族と関わって、剣の稽古ばかりしていると聞く。女性らしさのかけらもない」


マリアンヌが勝ち誇ったように微笑む。


「エリーゼ様、お気を悪くなさらないでください。でも、フェリクス様には私のような女性の方が似合っているのは、誰の目にも明らかですわ」


エリーゼはゆっくりと立ち上がった。


「承知しました。婚約破棄、受け入れます」

「そうか。分かってくれて助かる」


フェリクスは安堵したように息をついた。


「それでは、これで失礼します」


エリーゼは深々と一礼すると、静かに部屋を出て行った。その背中を見送りながら、マリアンヌがささやく。


「本当に地味な方でしたわね。あれでは確かに侯爵夫人は務まりませんわ」

「ああ、早めに気づいて良かった。これで安心して君との婚約を進められる」


二人は満足そうに顔を見合わせた。


舞踏会場を後にしたエリーゼは、すぐに宿に戻って荷物をまとめた。侍女のアンナが心配そうに声をかける。


「お嬢様、本当に大丈夫なのですか」

「ええ、問題ありません。予定通り、明日の朝には辺境に戻ります」

「でも、婚約破棄なんて……お嬢様の評判が」

「アンナ、私の評判など、辺境の人々には関係ありません。それに、これで王都に縛られる理由もなくなりました」


エリーゼの表情には、むしろどこか清々しささえ漂っていた。


翌朝早く、エリーゼは王都を発った。馬車は北へ、北へと進んでいく。王都から辺境までは、馬車で二週間の道のりだ。


道中、エリーゼは窓の外を眺めながら考えていた。フェリクスは、自分が辺境で何をしているのか知らなかった。いや、知ろうともしなかったのだろう。彼にとって辺境とは、ただの「田舎」でしかなかったのだ。


しかし現実は違う。


ノルトヴァルト辺境伯領は、王国の最北端に位置している。その向こうには、騎馬民族であるタウラン族が暮らす広大な草原が広がっている。長い歴史の中で、両者の関係は常に緊張をはらんでいた。時には小競り合いが起こり、時には交易が行われる。その微妙なバランスを保つことが、ノルトヴァルト家の使命だった。


そしてエリーゼは、幼い頃からその外交の最前線に立っていた。


彼女がタウラン語を学び始めたのは七歳の時だった。父である辺境伯が、娘の語学の才能に気づいたのだ。十歳の時には、初めてタウラン族の使節団との会談に同席した。十二歳の時には、単独で草原に赴き、タウラン族の族長と面会した。


最初、タウラン族は幼い少女が使節として現れたことに困惑した。だがエリーゼは、流暢なタウラン語で語りかけ、彼らの文化を尊重する姿勢を示し、誠実な交渉を重ねた。やがて彼らは、この小さな令嬢を「草原の友」と呼ぶようになった。


十年以上にわたる交渉の結果、辺境は安定していた。小競り合いはほとんど起こらず、交易は活発に行われ、双方に利益をもたらしていた。この平和は、エリーゼの外交手腕によるところが大きかった。


しかし王都の貴族たちは、そのことを知らない。知ろうともしない。彼らにとって辺境とは、遠い「野蛮な土地」であり、そこで何が起こっているかなど、関心の外だったのだ。


馬車が辺境の城に到着したのは、二週間後のことだった。


城門をくぐると、すぐに執事のハインリヒが駆け寄ってくる。


「お嬢様、お帰りなさいませ。お父様がお待ちです」

「ええ、すぐに参ります」


父、グスタフ・フォン・ノルトヴァルトは執務室で娘を待っていた。白髪混じりの髪と厳しい表情が特徴の、歴戦の辺境伯だ。


「エリーゼ、戻ったか」

「はい、父上」

「婚約破棄の話は、王都から連絡があった」

「申し訳ございません」

「謝る必要はない」


グスタフは娘を真っ直ぐ見つめた。


「アルトハイム侯爵家は、お前の価値を理解できなかっただけだ。むしろ、早めに分かって良かった」

「父上……」

「お前がこの十年、辺境のために何をしてきたか。この地の平和がどれほど貴重なものか。それを理解できない者と結婚しなくて済んだのだ。喜ぶべきことだろう」


エリーゼは小さく微笑んだ。


「ありがとうございます、父上」

「それよりも、タウラン族から連絡が来ている。族長のアルタイが、お前に会いたいと」

「アルタイ様が? 何か問題でも?」

「詳しくは分からない。だが、お前にしか話せないことがあるそうだ」


エリーゼは頷いた。


「明日、草原に向かいます」


翌日、エリーゼは護衛を連れて草原へと向かった。国境を越えると、そこには果てしなく続く草原が広がっている。風が草を揺らし、遠くで馬の嘶きが聞こえる。


タウラン族の集落は、移動式の天幕が並ぶ場所だ。エリーゼが到着すると、族長のアルタイが自ら出迎えた。五十代の堂々たる男性で、長い黒髪を後ろで束ねている。


「エリーゼ、よく来てくれた」

「アルタイ様、お呼びいただき光栄です」


二人はタウラン語で会話している。エリーゼの発音は完璧で、まるで母語のようだ。


「天幕に入ろう。話がある」


族長の天幕の中は、簡素だが整っていた。獣皮の敷物が敷かれ、中央には火が焚かれている。二人は火を囲んで座った。


「単刀直入に言おう。東の部族が動き始めている」


アルタイの表情が真剣になった。


「東の部族とは、カラグ族のことですか」

「そうだ。彼らは長い間、我々と対立してきた。最近、彼らの新しい族長が好戦的な男でな。我々の領域に侵入しようとしている」

「それは……」

「もし彼らと戦争になれば、平和は終わる。そして戦場は、お前たちの国境付近になるだろう」


エリーゼは深く考え込んだ。


「カラグ族と交渉する余地はありますか」

「彼らは我々の言葉を聞こうとしない。だが……」


アルタイは少し間を置いた。


「お前になら、可能かもしれない」

「私に、ですか」

「お前は草原の友だ。我々だけでなく、いくつかの部族がお前を知っている。カラグ族も、お前の名前は聞いているはずだ。もしお前が仲介に入れば、交渉の席につくかもしれない」

「分かりました。試してみます」


エリーゼは即座に答えた。アルタイは満足そうに頷く。


「さすがだ。だが、危険を伴うぞ」

「承知しています。この平和を守るためなら、危険も厭いません」


こうして、エリーゼの新たな外交が始まった。


彼女はまず、カラグ族についての情報を集めた。彼らの文化、習慣、新しい族長の人となり。そして慎重に、使者を送った。


最初、カラグ族は疑っていた。だがエリーゼが「草原の友」として知られていること、これまでの公平な外交姿勢が評価されていることが、徐々に彼らに伝わっていった。


一ヶ月後、ついにカラグ族の族長から返答が来た。会談に応じるという。


エリーゼは、少数の護衛だけを連れてカラグ族の集落へと向かった。そこで待っていたのは、バトルという名の若い族長だった。三十代前半で、鋭い目つきをした男だ。


「お前がエリーゼか」


バトルはタウラン語ではなく、カラグ族の方言で話しかけてきた。エリーゼは驚きを表に出さず、同じ方言で答えた。


「はい。お招きいただき感謝します」


バトルの目が僅かに見開いた。


「我々の言葉を話すのか」

「この一ヶ月、学びました。不十分かもしれませんが、誠意を示したかったのです」


バトルはしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。


「面白い女だ。座れ」


交渉は長時間に及んだ。バトルは、自分の部族が長年、他の部族から虐げられてきたこと、より良い土地を求めていることを語った。エリーゼは、彼の言葉を真摯に聞き、そして提案した。


交易路の整備、カラグ族も参加できる市場の開設、紛争解決のための定期的な会談。そして何より、カラグ族の尊厳を認め、対等な立場で接すること。


バトルは最初、懐疑的だった。だがエリーゼは、これまでの実績を示した。タウラン族との平和がどれほど双方に利益をもたらしたか。具体的な数字と事例を挙げて説明した。


そして何より、エリーゼ自身の誠実さが、バトルの心を動かした。


「分かった。お前の提案を受け入れよう。だが、約束を破れば許さない」

「必ず守ります」


こうして、カラグ族との和平が成立した。その知らせは、すぐに周辺の部族に広がり、草原全体の緊張が緩和されていった。


エリーゼが辺境に戻ると、父が満面の笑みで迎えた。


「よくやった、エリーゼ。お前は本物の外交官だ」

「ありがとうございます、父上」

「国王陛下からも、賞賛の言葉をいただいた。お前の功績は、王国全体の利益になると」


その頃、王都では状況が変わり始めていた。


辺境の平和が、実はノルトヴァルト家の娘の外交によるものだという情報が、徐々に広まっていたのだ。それも、国王自身が公式の場でエリーゼの功績を称えたことで、一気に知れ渡った。


社交界は騒然となった。あの「地味な辺境伯令嬢」が、実は王国の安全保障に不可欠な人物だったのだと。


アルトハイム侯爵家にも、その情報は届いた。


執務室で報告を聞いたフェリクスは、顔面蒼白になった。


「エリーゼが……外交官だと?」

「はい、若様。それも、十年以上にわたって辺境の平和を守ってきた、王国でも指折りの外交官だそうです」


執事の言葉に、フェリクスは椅子に深く座り込んだ。


「なぜ誰も教えてくれなかったんだ」

「若様がお聞きにならなかったので……それに、辺境のことは極秘扱いでしたから」


その時、扉が開いてマリアンヌが入ってきた。


「フェリクス様、どうなさったのですか。顔色が悪いですわ」

「マリアンヌ……いや、何でもない」


しかし、事態は悪化していった。


数日後、王宮から使者が来た。国王が、アルトハイム侯爵とフェリクスを呼んでいるという。


謁見の間で、国王は厳しい表情で二人を見下ろした。


「アルトハイム侯爵、そしてフェリクス。そなたたちは、エリーゼ・フォン・ノルトヴァルトとの婚約を破棄したそうだな」

「は、はい、陛下」


フェリクスは冷や汗をかきながら答えた。


「理由は何だ」

「それは……彼女が辺境育ちで、王都の社交界に不向きだと思いまして」

「不向き、だと?」


国王の声が低くなった。


「エリーゼは、この王国の北の平和を一人で守ってきた。彼女の外交がなければ、我々は今頃、辺境で戦争をしていただろう。そのような人物を『不向き』と言うのか」

「そのような功績があるとは、存じませんでした」

「存じない? ならば調べればよかっただろう。そなたは、自分の婚約者が何をしているのか、知ろうともしなかったのか」


フェリクスは何も答えられなかった。


「アルトハイム侯爵」


今度は父親に向かって、国王が話しかけた。


「そなたの息子は、王国の重要人物を侮辱した。これは単なる個人的な婚約破棄ではない。外交上の失態だ」

「申し訳ございません、陛下」


侯爵は深々と頭を下げた。


「今後、アルトハイム家は宮廷での発言権を制限する。そして息子には、辺境での奉仕活動を命じる」

「陛下、それは」

「異議は認めない。これは命令だ」


こうして、フェリクスは辺境へと送られることになった。


それから数週間後、フェリクスは護衛と共に辺境に到着した。彼を迎えたのは、執事のハインリヒだった。


「ようこそ、フェリクス様。お嬢様からの指示で、お部屋を用意してございます」

「エリーゼは……いるのか」

「お嬢様は現在、草原で外交会談中です。一週間後にお戻りになる予定です」


フェリクスは、与えられた部屋に荷物を置いた。質素だが清潔な部屋だった。王都の自室とは比べ物にならないが、文句を言える立場ではない。


翌日から、フェリクスの「奉仕活動」が始まった。城の事務仕事を手伝い、領民の訴えを聞き、時には畑仕事さえ手伝った。王都での優雅な生活とは、まるで違う日々だった。


そして一週間後、エリーゼが戻ってきた。


フェリクスは、執務室に呼ばれた。そこにはエリーゼが座っており、その隣には護衛の騎士が立っている。エリーゼは旅装束のままだったが、その佇まいには凛とした威厳があった。


「フェリクス様、お久しぶりです」


エリーゼの声は穏やかだったが、どこか距離を感じさせた。


「エリーゼ……君は、本当に外交官だったのか」

「はい。十歳の頃から、草原の民と交渉してきました」

「なぜ教えてくれなかったんだ」

「尋ねられなかったからです」


エリーゼの言葉は静かだったが、的確にフェリクスの急所を突いた。


「それに、フェリクス様は私に興味がおありではなかったでしょう。私が辺境で何をしているか、何を考えているか、一度も聞いてくださいませんでした」


フェリクスは何も言い返せなかった。確かに、彼は一度もエリーゼに興味を持たなかった。婚約は親が決めたものだと思い、形式的な付き合いしかしてこなかった。


「私は……間違っていた」


フェリクスは絞り出すように言った。


「君の価値を見誤った。君が何者なのか、知ろうともしなかった」

「今更そのようなことを言われましても」


エリーゼは冷静に答えた。


「私は、フェリクス様のことを許すつもりはありません。ですが、陛下の命令でいらっしゃったのですから、粗略には扱いません。奉仕活動の期間、誠実に働いてください。それだけです」

「エリーゼ……」

「それでは、これで失礼します。私はこれから、カラグ族との交易協定の最終確認がありますので」


エリーゼは立ち上がり、部屋を出て行った。フェリクスは、その背中を呆然と見送るしかなかった。


その後、フェリクスは三ヶ月間、辺境で働いた。その間、彼はエリーゼの仕事ぶりを目の当たりにした。


エリーゼは週に一度、必ず草原に赴いていた。タウラン族やカラグ族との会談、交易の調整、紛争の仲裁。彼女は複数の部族の言葉を流暢に話し、誰からも信頼されていた。


ある日、フェリクスは偶然、エリーゼの交渉の場面を見る機会があった。


タウラン族の若い戦士たちが、カラグ族との小競り合いを起こしそうになっていた。双方が武器を持ち、一触即発の状況だ。


そこにエリーゼが現れた。


「止めなさい」


彼女の声は静かだったが、不思議な力があった。戦士たちが動きを止める。


「あなたたちは、なぜ争おうとしているのですか」


エリーゼはタウラン語で、片方の戦士に尋ねた。


「彼らが我々の馬を盗もうとしたんだ」

「本当ですか」


今度はカラグ族の方言で、もう一方に尋ねる。


「違う。彼らが先に、我々の羊を殺した」

「どちらも証拠はありますか」


二人は黙った。


「証拠もないのに、争おうとするのですか。もし戦えば、どうなるか分かっていますか。あなたたちの部族全体が戦争になる。多くの人が死ぬ。女も、子供も、老人も」


エリーゼの言葉に、戦士たちの表情が変わった。


「私が調査します。もし本当に盗難や殺害があれば、犯人を見つけて罰します。それまで、待ってください」


エリーゼの誠実さが、二人を説得した。彼らは武器を下ろし、それぞれの集落に戻っていった。


フェリクスは、その様子を遠くから見ていた。これが、エリーゼの仕事なのだと。一つ一つの小さな紛争を、根気強く解決していく。その積み重ねが、辺境の平和を作っているのだと。


彼は初めて、エリーゼの偉大さを理解した。


三ヶ月後、フェリクスの奉仕活動が終わった。王都に戻る日、彼はエリーゼに最後の挨拶をした。


「エリーゼ、本当にありがとう。そして、すまなかった」

「もういいのです、フェリクス様。過ぎたことです」

「いや、言わせてくれ。僕は愚かだった。君の価値を見抜けなかった。君は、僕が今まで会った誰よりも立派な人だ」


エリーゼは小さく微笑んだ。


「ありがとうございます。ですが、私たちはもう他人です。お元気で」


フェリクスは深々と頭を下げ、城を後にした。


王都に戻ったフェリクスを待っていたのは、冷たい現実だった。


マリアンヌは、彼がいない間に別の貴族と婚約していた。フェリクスが失脚したと知って、さっさと次の相手を見つけたのだ。


社交界でも、フェリクスの評判は地に落ちていた。「エリーゼ様を侮辱した愚か者」として、陰で笑われていた。


アルトハイム侯爵家の発言権も、以前とは比べ物にならないほど低下していた。重要な決定から外され、冷遇される日々が続いた。


フェリクスは、自分が何を失ったのか、ようやく理解した。


一方、エリーゼは変わらず辺境で働いていた。


ある日、王都から使者が来た。今度は良い知らせだった。


「エリーゼ・フォン・ノルトヴァルト様、国王陛下より、王国外交顧問の称号を授けるとのことです」


外交顧問は、王国で最も権威ある外交官の称号だ。これまで誰も、二十代でこの称号を得たことはなかった。


「光栄です」


エリーゼは静かに答えた。


さらに使者は続けた。


「そして、隣国のヴェストファーレン公国から、正式な親善大使の派遣要請がありました。あなたを指名しています」

「私を、ですか」

「はい。あなたの評判は、既に近隣諸国にも広まっています。多くの国が、あなたとの外交を望んでいます」


こうして、エリーゼの活躍の場は、辺境から王国全体へ、そして諸外国へと広がっていった。


数ヶ月後、ヴェストファーレン公国を訪れたエリーゼは、そこで公国の外務大臣、カール・フォン・エッシェンバッハと出会った。四十代の落ち着いた男性で、豊富な外交経験を持つ人物だった。


「エリーゼ様、お会いできて光栄です。あなたの草原での功績は、我が国でも話題になっています」

「ありがとうございます、閣下」


二人はすぐに意気投合した。共に外交に情熱を持ち、平和を愛する者同士、話は尽きなかった。


会談の合間、カールはエリーゼに尋ねた。


「エリーゼ様は、なぜ外交の道を選んだのですか」

「幼い頃、国境の村で争いを見ました。些細な誤解が、暴力になり、多くの人が傷つきました。その時、思ったのです。言葉があれば、理解があれば、争いは避けられるのではないかと」

「素晴らしい信念です」


カールは感心したように頷いた。


「私も同じ思いです。だからこそ、この仕事を続けています」


やがて、二人の関係は公私ともに深まっていった。


一年後、エリーゼとカールの婚約が発表された。これは両国にとって、外交上も大きな意味を持つ婚姻だった。ノルトヴァルト家とエッシェンバッハ家、二つの外交名門の結びつきは、両国の関係をさらに強固なものにした。


婚約の知らせは、すぐに各国に広まった。王都の社交界も、この話題で持ち切りになった。


「エリーゼ様が、ヴェストファーレン公国の外務大臣と婚約されるそうよ」

「素晴らしい縁談じゃない。お二人とも外交官として名高いし」

「それに引き換え、アルトハイム侯爵家の息子は……」


社交界の令嬢たちは、ひそひそと噂話をした。フェリクスの名前が出るたび、哀れみと軽蔑の眼差しが向けられた。


婚約式は、王都で盛大に行われることになった。両国の国王も出席する、国家的な式典だ。


式の日、エリーゼは純白のドレスに身を包んでいた。シンプルだが気品のあるデザインで、彼女の凛とした美しさを際立たせていた。隣に立つカールも、公国の礼服を着て堂々としている。


「エリーゼ、君は本当に美しい」


カールが小さく囁いた。


「ありがとうございます、カール」


二人は互いに微笑み合った。そこには、深い信頼と愛情があった。


式には、各国の大使や貴族たちが招待されていた。その中には、アルトハイム侯爵家の姿もあった。出席しないわけにはいかなかったのだ。


フェリクスは、式場の後方に座っていた。彼はエリーゼの姿を、遠くから見つめていた。


あれが、自分が「田舎者」と見下した女性だ。今や、二つの国を結ぶ外交官として、誰からも尊敬される存在になっている。


そして、彼女の隣にいるのは、カール・フォン・エッシェンバッハ。外交官として、人としても、申し分のない男性だ。二人は本当に釣り合っている。


フェリクスは、改めて自分の愚かさを思い知った。


式が終わり、祝宴が始まった。エリーゼとカールは、各国の要人たちと言葉を交わしていた。誰もが二人を祝福し、賞賛した。


その時、エリーゼの視線がフェリクスを捉えた。一瞬だけ、二人の目が合った。


エリーゼは小さく頷いた。それは、もう全てが過去のことだという、静かな別れの挨拶だった。


フェリクスも、深く頭を下げた。それが、彼にできる精一杯の謝罪だった。


その後、エリーゼとカールは結婚し、両国を行き来しながら外交活動を続けた。二人の尽力により、周辺諸国との関係は大きく改善され、地域全体に平和がもたらされた。


エリーゼは時折、辺境に戻った。草原の民たちは、彼女を今でも「草原の友」と呼び、温かく迎えた。


ある日、エリーゼはアルタイと再会した。族長は年を重ねていたが、相変わらず威厳に満ちていた。


「エリーゼ、元気そうで何よりだ」

「アルタイ様も、お変わりなく」

「お前の結婚は、草原でも話題になっている。良い伴侶を得たようだな」

「はい。カールは、私にとって最良の夫です」


アルタイは満足そうに笑った。


「お前は、本当に立派になった。初めて会った時は、まだ小さな少女だったのにな」

「あの頃から、アルタイ様には色々と教えていただきました」

「いや、お前自身の努力と才能だ。誇りに思うがいい」


二人は、昔話に花を咲かせた。十年以上にわたる交流、数々の交渉、時には困難な状況を共に乗り越えてきた思い出。それらは、エリーゼにとってかけがえのない財産だった。


「これからも、草原と王国の架け橋でいてくれ」

「もちろんです。それが、私の使命ですから」


エリーゼは力強く頷いた。


一方、王都ではフェリクスが苦悩の日々を送っていた。


アルトハイム侯爵家の地位は、徐々に回復しつつあったが、以前のような影響力は戻らなかった。フェリクスも、父の仕事を手伝いながら、地道に信頼を取り戻そうと努力していた。


だが、社交界での彼の評判は、なかなか改善しなかった。「エリーゼ様を見る目がなかった男」という烙印は、簡単には消えなかった。


何人かの令嬢が、婚姻の話を持ちかけてきた。だがフェリクスは、どれも断った。彼は、もう二度と、相手の本当の価値を見誤りたくなかったのだ。


そしてある日、フェリクスは決意した。


彼は父に願い出て、辺境での勤務を志願した。エリーゼの父、グスタフ辺境伯の下で、領地経営を学びたいと。


最初、グスタフは驚いた。だが、フェリクスの真剣な表情を見て、受け入れることにした。


「よかろう。だが、甘やかすつもりはないぞ」

「承知しております」


こうして、フェリクスは再び辺境に赴いた。今度は、奉仕活動ではなく、自らの意志で。


辺境での生活は厳しかった。だがフェリクスは、文句一つ言わずに働いた。領民の声を聞き、草原の民との交易を手伝い、時には国境警備にも参加した。


そして彼は、エリーゼが築き上げてきた平和の重みを、身をもって理解していった。


数年後、フェリクスは辺境で一定の成果を上げた。彼の誠実な働きぶりは、領民からも認められるようになった。


ある日、グスタフがフェリクスを呼んだ。


「フェリクス、お前はよくやった」

「ありがとうございます」

「エリーゼが築いた平和を、お前なりに守ろうとしている。それは評価に値する」


グスタフは、フェリクスを真っ直ぐ見つめた。


「だが、お前は決してエリーゼにはなれない。それを理解しているか」

「はい。エリーゼ様は、特別な方です。私などが足元にも及びません」

「分かっているなら、いい。お前は、お前の道を行け」


フェリクスは深く頭を下げた。


その後、フェリクスは王都に戻り、父の跡を継いでアルトハイム侯爵となった。彼は、辺境での経験を活かし、誠実な領主として領地を治めた。


かつてのような華やかさはなかったが、堅実で真面目な働きぶりは、次第に周囲から認められるようになった。


やがて、フェリクスは控えめで誠実な令嬢と結婚した。派手さはなかったが、互いを尊重し合う、良い結婚だった。


そしてある日、フェリクスは息子に語った。


「いいか、人の価値は見かけでは分からない。相手が何をしているのか、何を考えているのか、ちゃんと知ろうとすることが大切だ」

「はい、父上」

「私は若い頃、それを怠って、とても大切な人を失った。お前は、同じ過ちを繰り返すな」


息子は、父の真剣な表情に頷いた。


数年後、王国と公国の間で重要な条約が締結されることになった。その調印式には、各国の要人が集まった。


エリーゼとカールも、当然出席していた。二人には既に二人の子供がおり、幸せそうに暮らしていた。エリーゼは、外交官としてさらに活躍し、今や「平和の使者」として各国で知られる存在になっていた。


式の後、エリーゼはふと、王都の街を歩いた。懐かしい場所だった。かつて、婚約破棄を告げられた舞踏会の会場も、まだそこにあった。


「あの時のことを、思い出しているのですか」


隣を歩くカールが尋ねた。


「ええ。でも、不思議と悲しくはありません。むしろ、あれで良かったのだと思います」

「そうですね。あの時、婚約が続いていたら、あなたは辺境に戻れなかったでしょう」

「そして、あなたとも出会えませんでした」


二人は微笑み合った。


「人生というのは、面白いものですね。当時は辛いと思ったことが、実は最良の道への入口だったのですから」

「その通りです。そして、あなたは自分の道を歩み続けた。それが、今の幸せに繋がっているのです」


エリーゼは、静かに頷いた。


彼女は、もうフェリクスのことを恨んではいなかった。あれは、彼女の人生の一つの通過点に過ぎなかった。そして、彼女は自分の価値を理解し、尊重してくれる人と、本当の幸せを見つけたのだ。


遠くで、教会の鐘が鳴った。新しい時代の始まりを告げるように。


エリーゼは、カールの手を取って歩き出した。彼女の前には、まだまだ続く外交の道があった。守るべき平和があった。そして、愛する家族がいた。


それは、かつて「田舎者」と呼ばれた少女が、自らの力で掴み取った、輝かしい未来だった。

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