第四話:魔人の噂
クロムヘヴンの朝は、いつもと変わらぬ音に満ちていた。鍛冶場の槌が打ち下ろされ、荷車の軋みが石畳を撫でる。兵士の短い号令が路地に反響し、店先では湯気と匂いが立ち上る。国境の街として、特別な兆しはない。だが、市街に足を踏み入れた瞬間、リオは違和感を覚えた。
視線が集まり、合う直前で逸らされる。正面から見られることがほとんどない。露店の売り声が一瞬だけ細り、通りすがりの会話が、こちらが近づくと自然に切れる。誰かが進路をわずかに変え、肩が触れない距離を選ぶ。敵意ではない。拒絶でもない。ただ、関わらないという判断が、無言のまま揃っている。
伊織だけは、その空気を気にも留めていなかった。歩幅も姿勢も変えず、いつも通りに街を歩く。視線を向けられれば向け返し、子どもと目が合えば軽く口元を緩める。その無頓着さが、周囲の反応をかえって際立たせた。子どもは一瞬足を止め、次の瞬間、親に引き寄せられる。親は何も言わない。ただ伊織から距離が空く位置へ、無言で移動する。
クララは唇を引き結び、視線だけで周囲を拾っていた。声を掛けるべきか迷い、そのまま飲み込む回数が増えている。セリアは歩調を崩さず、街路全体を均すように見ていた。最後尾のルヴェリスは、自然と外縁を取る位置に収まり、立ち止まりかける足や肩の向きといった、言葉にならない反応だけを数えている。
通り沿いの鍛冶場では、ドワーフが火を落とすことなく槌を振るっていた。一行が前を通っても、視線は金床から外れない。関心の外にある、という態度だった。対照的に、人間の信徒は歩幅を詰め、互いの位置を確かめ合うようにして半歩、距離を取る。声は出さないが、立ち位置だけが揃っていく。一般の住民はその様子を見て道を選び、近づかず、避けすぎず、面倒を招かない距離を保つ。伊織だけがその空気を気にも留めず、いつも通りに通りを進んでいた。
通りの端で、声が低く交わされている。聞かせるためではないが、隠しきるつもりもない調子だった。
「黒衣だ」
「髪も黒い」
「腰に、変わった剣を下げている」
言い方は断定に近い。確かめ合うというより、すでに共有された像をなぞっている。続けて、別の声が重なる。
「今、クロムヘヴンに来ている」
「北の魔人、だそうだ」
理由も根拠も語られない。それでも言葉は、通りを渡っていく。少し離れた場所で、その話を耳にした者たちは、視線を動かし、足を止めかけてから歩みを変える。賛同でも拒絶でもない。商いの手を止めずに済む位置、面倒を背負わずに済む距離を選んでいるだけだ。
「あれが、噂の北の魔人か」
「さあな」
小さな声が落ち、すぐに別の話題へ移る。名を出さず、深入りもしない。伊織は、その視線と距離の変化に気づいていながら、気にも留めない。歩調も姿勢も変えず、いつも通りに通りを進む。その無頓着さが、かえって街の反応を揃えていった。
通りの先で、人の流れがわずかに滞り始める。道を塞ぐほどではないが、進もうとすると肩が合い、立ち止まれば背後に人が増える。声は出ない。誰も前に出ない。ただ、位置取りだけが揃っていく。銀の輪を身につけた者が混じり、そうでない者も同じ場所に留まる。賛同しているわけではない。だが、ここで逆らう理由も持たない。商いを続ける者は店先から一歩引き、通り抜けたい者は遠回りを選ぶ。結果として、通りの中央だけが静かに詰まった。
クララが一歩、前へ出た。理由は分からなくても、行き違いなら解けるはずだと判断が先に立つ。敵意がないこと、それだけでも伝えれば足は止まる――そう思って息を吸った。だが、言葉を発する前に気づく。こちらを見る目は、問いかけるためのものではなかった。誰も近づかず、誰も離れない。ただ位置だけを保ち、次に起きることを待っている。今ここで必要とされているのは説明ではない、とクララは悟った。 伊織は変わらず歩調を保ち、視線を返す。気にしていない。その態度が、かえって人を留める。
ルヴェリスは外縁を見渡し、逃げ道の幅を測る。塞がれてはいない。だが、通れば何かが残る。リオは理解する。これは衝突の一歩手前だ。声を荒げず、武器も出さず、ただ「ここに居続けられるか」を問われる局面が、すぐそこまで来ている。
人垣の中から、ひとり男が前に出た。こちらとの距離を保ったまま、しばらく間を置いてから口を開く。周囲は一歩下がり、道は塞がない。ただ、進めば同じ距離で付いてくる位置取りだ。男は短く息を整え、穏やかな調子で口を開いた。
「ここに居続けられると、困る人が多い」
「騒ぎにしたいわけじゃない」
「だから、早めに街を出てほしい」
理由の説明はない。交渉の余地も示さない。クララが視線を上げる。返す言葉を探すが、男の後ろにいる者たちは黙ったまま位置を保つ。誰も同意を口にしない代わりに、誰も否定もしない。
伊織が半歩、前へ出かける。いつもの歩幅だ。だが、その瞬間、周囲の足が同じだけ動いた。リオは小さく手を上げ、伊織を制した。ここで前に出れば、要求は命令に変わる。ルヴェリスは外縁を見渡す。逃げ道はある。だが、通れば噂が残る。街はそれを知っている。だから声を低く、態度を柔らかく、結論だけを置いてきた。
要求は静かだったが、退路は同じ静けさで削られていた。
その場を横切ろうとしていた女が、足を止めた。つば広の魔法使い帽子に、赤いマント。クロムヘヴン辺境伯私兵団の制服で、街では見慣れた装いだ。鎧は着けていないが、マントの下には女性魔導師用の軽装が整えられている。帽子の下から覗く耳と、肌の色が、彼女がダークエルフであることを示していた。
女は前に出すぎず、男と群れの中間に立った。視線を巡らせ、状況を一息で把握する。巡察に来たわけではない。ただ、通りがかっただけだ。
「ここで続けると、私兵団が関わることになる」
「それ、望んでないでしょ」
声は軽い。周囲がわずかに動く。視線が彼女に集まり、足が一歩引かれる。揉めないための理由が、そこに置かれた。女はそれ以上を言わない。権限を誇示もしない。ただ、現実を示しただけだ。群れは散り始め、通りは元の流れを取り戻していく。女は肩の力を抜き、帽子のつばを持ち上げた。そこで初めて、視線がクララに留まった。
女は帽子のつばを持ち上げたまま、しばらくクララを見ていた。小柄な体格、切り揃えられた黒髪。緋色の瞳がわずかに細まり、次の瞬間、確信に変わる。
「……やっぱり」
「クララだよね」
問いではなかった。クララは目を見開き、すぐに息を吐く。
「サヤ……?」
名を呼ばれた途端、サヤは口元を緩めた。
「久しぶり。こんな場所で会うとは思わなかった」
「ほんとにね。サヤこそ、どうしてここに?」
サヤは肩をすくめ、杖の先で石畳を軽く叩いた。
「王宮魔導師、目指してるの」
「……うん」
「応募に実績が要る。机の上の成績だけじゃ足りない。だから、いちばん手っ取り早い場所に来た」
「国境が荒れてて、魔物も出る。私兵団なら実戦も積めるでしょ。クロムヘヴンなら、条件は揃ってるから」
クララは一瞬だけ視線を落とし、すぐに戻した。
「……サヤらしいね」
「でしょ」
軽く笑うが、その目は冗談を言っていない。サヤは、クララの隣に立つ少女を見て、わずかに目を細めた。覚えがある。術理学院で、何度も見た顔だ。
「……セリア?」
名を呼ぶ声に、探る調子はない。ただ、確認だった。クララの反応を待たず、サヤは続ける。
「珍しい組み合わせだね」
言葉は軽いが、意味は重い。サヤの記憶の中で、セリアはクララの味方ではなかった。むしろ、その逆だ。だからこそ、今こうして並んでいる光景が、ひどく意外だった。クララは一瞬だけ視線を落とし、すぐにサヤを見る。
「色々あって、一緒に動いてる」
「今は、そういう関係」
それだけで十分だった。サヤは短く考え、すぐに頷く。
「……そっか」
理由を掘り下げない。過去を持ち出さない。ただ、状況が変わったことだけを受け取る。
「じゃあ、今は問題ないね」
「うん」
「了解」
それで終わりだった。サヤはセリアに向けて一度だけ視線をやり、何も言わずに口元を緩めた。そこに敵意はない。驚きが、納得に置き換わっただけだ。ひと息ついたところで、リオは改めてサヤを見た。
赤いマントの合わせ目から、濃紺の装束が覗いている。胴から腰、脚の付け根までを一続きに覆う布は体に密着し、切り上げの高い造りがそのまま露出を生んでいた。脚部はほとんど隠されておらず、リオの感覚では、どう見てもハイレグのレオタードに近い。 膝上までのソックスと白いブーツが最低限の実用性を補っているが、全体の印象を和らげるほどではない。動きやすさを最優先した結果なのだろうが、隠すための工夫は最初から考慮されていないように見えた。
こうした装いは、クロムヘヴンに限った話ではない。起源は傭兵と私兵の文化が色濃く残るこの土地にあったが、時代が下るにつれ、その形だけが切り離されていった。
戦場で捕らえられた女性は、しばしば殺されるより先に「利用される対象」と見なされた。人道的だったからではない。暴力の向けられ方が、男性兵士とは異なっていたからだ。そのため、重装備を身に着けた女性は、装備を剥ぐ手間を嫌われ、即座に殺されることも珍しくなかった。
生き延びるためには、選択肢は限られていた。貞操を犠牲にしてでも命を繋ぐには、最初から剥がす必要のない装いでいるしかなかった。そうした現実の積み重ねが、やがて意味や背景を失ったまま形だけを残し、風習として定着していった。
今では、その起源を知る者は少ない。ただ「そういうもの」として受け入れられている。 リオにもクララにも、それを理解する術はない。サヤ自身も、是非を考える対象にはしていなかった。ここでは、それが当たり前だった。
ひとしきり話が落ち着いたところで、サヤは赤いマントの留め具に指を掛け、軽く緩めた。風を入れるための、ごく自然な仕草だった。
「今日は非番」
「巡回でも警備でもないよ」
言い方はあっさりしているが、その一言で立場ははっきりする。今この場にいるのは、権限を振りかざすためではない。私兵団の一員として、市街で無用な騒ぎを大きくしたくなかった。それだけだ。伊織が短く頷いた。
「だから、あれ以上は踏み込まなかったわけか」
「うん。ここで私兵が前に出ると、話が拗れる」
サヤは通りの向こうへ視線をやった。人の流れは戻りつつある。露店の呼び声も再開され、ざわめきも元の調子に近づいている。だが、完全に元通りではない。視線が合えば、すぐに逸らされる。距離は、意図的に保たれたままだ。
クロムヘヴンは傭兵の街だ。声を荒らげることも、力を誇示することも、決して珍しくはない。むしろ、それが日常に近い。だからこそ、誰もが知っている。市街で事を荒立てれば、収拾がつかなくなるということを。私兵が動けば、別の私兵が出てくる。信徒が声を張り上げれば、反対側も黙ってはいない。一度刃が抜かれれば、どこまで転ぶかは誰にも分からない。
今回、誰も踏み出さなかったのは穏健だったからではない。その先に何があるかを、全員が経験として知っていたからだ。
「入ったばかりなんでしょ?」とクララが言う。
「三ヶ月も経ってない」
「だから余計に、余計な火種は抱えたくないんだ」
それは個人の慎重さであり、この街で生きる者の現実的な判断でもあった。正しさや善悪ではない。どこで線を引くか、どこで引くべきでないかを、皆が肌で知っている。サヤはマントを整え、再び一行へ向き直った。
「……あんたたち、しばらくは目立つと思うよ」
その言い方には、脅しも同情もなかった。事実の確認に近い。
「嫌われてる、とはちょっと違う」
「ただ、光輪の奇跡の信徒が変な噂を流してる」
リオが眉をわずかに動かす。
「北の魔人、ってやつ」
「昔からある話を、今の形にして広めてる。黒衣で、異国の剣を下げた男が街に来てる、ってね」
伊織は黙ったまま聞いている。サヤは一度だけ視線を向け、すぐに逸らした。
「教団に仇なす存在だ、って言い方もしてる」
「だから、触らない。関わらない。面倒を抱えたくない」
敵意がないとは言い切れない。だが、排除しようという熱もない。あるのは、距離を取る判断だけだ。
「この街じゃ、そういう時は様子見が一番だから」
通りの向こうで、人の流れがわずかに変わる。視線は来るが、足は止まらない。露骨な拒絶も、声もない。ただ、空白だけが作られている。
「嫌われてる、ってより……」
サヤは言葉を選び、結論だけを置いた。
「祟りを呼びそうな話に、近づきたくないだけ」
通りの端で、子どもがこちらを見て、すぐに親の背後へ隠れる。誰も叫ばない。だが、街は確かに見ていた。調査は続けられる。だが、この街に居続けることが簡単ではない――その感触だけが、静かに残っていた。
人垣は、いつの間にか解けていた。誰かが声を上げたわけではない。ただ、それぞれが距離を取り、元の場所へ戻っていっただけだ。通りに呼び声が戻る。だが、視線だけは消えなかった。サヤは赤いマントを整え、踵を返しかけてから足を止めた。視線が一行をなぞり、最後にルヴェリスで止まる。
「……ルヴェリス先生?」
学院で何度も見かけた顔だ。ルヴェリスは小さく頷く。
「ええ」
それ以上、言葉は交わされなかった。今は挨拶をする場ではない。サヤは視線を切り替え、リオを見る。
「依頼、あんたが受けたんだよね」
「そうだ」
「サヴェルナの契約従事者連盟経由で、光輪の奇跡の調査」
サヤは短く息を吐いた。
「なるほど」
「……今、信徒がその話を使って騒いでる」
それだけで十分だった。
「事実がどうかは関係ない」
「“北の魔人がいる”って話に、全部くっつけてる」
視線が一瞬、伊織に向く。だが、深追いはしない。
「だから、街がこうなる」
通りを示すように、軽く顎をしゃくる。
「放っておくと、余計にややこしくなる」
「手伝うよ。できる範囲で」
条件は簡単だった。
「私兵団の正式な仕事じゃない」
「非番の時に、知ってることを話す。それだけ」
リオは少し考えてから、頷く。
「助かる」
「でしょ」
サヤは肩をすくめた。
「今は、事実より噂のほうが先に動いてる」
それだけ言って、人の流れに紛れていった。赤いマントが一瞬だけ目に残り、すぐに消える。伊織が小さく笑う。
「やっと、話が通じる奴が出てきたな」
誰も否定しなかった。リオは通りの先を見る。宿へ戻る道は変わらずそこにある。ただ、さっきまでとは意味が違った。噂は、まだ街を歩いている。だが、それに向き合う足場はできた。
彼らは、歩き出した。




