第三話:人であること
信徒に直接話を聞こうと決めたのは、違和感を言葉にできなかったからだ。在来宗派の修道院や教会では、信仰の深さに関係なく会話が成立していた。救いとは何か、なぜ祈るのかと問えば、それぞれに理由や経験が返ってくる。答えが曖昧でも、矛盾を含んでいても、「考えた末の言葉」であることは分かった。
光輪の奇跡に関わる者たちの受け答えは、それとは違っていた。怒号も狂気もない。むしろ朗らかで、親切で、協力的だ。それでも、話を重ねるほど、どこか足場が崩れていく感覚が残る。問いに答えているはずなのに、思考の道筋が見えない。理由を聞いているのに、結論だけが返ってくる。その正体を確かめるには、実際に信じている個人と話すしかなかった。
市場の外れで、ひとりの女が足を止めていた。年若く、表情も明るい。胸元の銀の輪が、動くたびに軽く揺れている。クララが声をかけると、女はぱっと顔を向け、気さくに笑った。
「はい、いいですよ。何でも聞いてください」
声には張りがあり、警戒もない。
「光輪の教えに参加されていると伺いました」
「ええ! とても素晴らしいですよ」
即答だった。熱はあるが、過剰ではない。
「どうして、参加しようと思われたのですか」
「必要だったからです」
迷いのない言い方だった。
「何が、必要だったのでしょう」
「救いです」
女は微笑んだまま答える。
「ずっと、欲しかったものですから」
クララは頷いた。
「その救いとは、どんなものだとお考えですか」
「生きていていい、って思えることです」
言葉は平易で、理解できる。
「それは、以前は感じられなかった?」
「はい」
女はあっさり認めた。
「なぜ、そう感じられなかったと?」
一瞬、女は首を傾げた。困った様子ではない。むしろ、質問の意図を確かめるような仕草だった。
「ああ、なるほど」
そう言ってから、明るく続ける。
「それは、私が救われていなかったからです」
クララは言葉を選び直す。
「……救われていなかった理由を、どうお考えですか」
「理由、ですか?」
女は楽しそうに笑った。
「理由はありません。だって、救われていなかったんですから」
当然のことを言うような口調だった。
「でも今は、救われています」
「なぜ、今は救われていると?」
「光輪の教えに出会ったからです」
女は胸元の輪に触れた。
「それで十分じゃありませんか?」
問い返されたわけではない。確認でもない。ただ、話を締めるような言葉だった。クララは、その場で初めて理解した。この人は、理由を考えることを拒んでいるのではない。理由という工程を、そもそも必要としていない。元気で、前向きで、善意に満ちている。それでも、会話の中に思考が存在しない。言葉は通じる。感情も通じる。だが、理解だけが、決して辿り着かない。
「光輪の教えに出会う前、何か困っていたことはありましたか。生活のことでも、人間関係でも」
女は少し考えるように視線を上に向け、それから、あっさりと頷いた。
「ありましたよ。たくさん」
「例えば?」
「働いても、働いても、楽にならなかったんです」
即答だった。声は明るいが、言葉は具体的だ。
「仕事は増えるのに、暮らしは良くならない。節約しても、借金は減らない。周りを見れば、もっと適当に生きている人の方が、うまくいっているように見える」
そこで一度、肩をすくめる。
「努力が足りないのかな、って思ってました。でも、じゃあどれだけやればいいのか、誰も教えてくれないじゃないですか」
クララは黙って聞いていた。これは、どこにでもある話だ。
「それで、人と話すのも疲れてきて。頑張ってるって言えば、言い訳だって言われるし、黙っていれば、やる気がないって言われる」
女は苦笑した。
「どっちにしても、私が悪い、で終わるんです」
「……それは、辛かったですね」
「ええ。でも、そういうものだと思ってました」
女は、そこで一度だけ言葉を切った。
「世の中って、そういう風に出来てるんだ、って」
クララは、その続きを待つ。
「光輪の教えに出会ったとき、何が一番変わりましたか」
女の表情が、はっきりと明るくなる。
「私が悪いわけじゃなかった、って分かったことです」
「どういう意味ですか」
「努力が足りなかったわけでも、考えが甘かったわけでもない。この世界そのものが、最初から歪んでいたんだって」
言い切りだった。確信に満ちている。
「だから、報われなかった。それだけなんです」
クララは慎重に言葉を選ぶ。
「では、その“歪み”は、何が原因だとお考えですか」
女は、きょとんとした顔をした。次の瞬間、楽しそうに笑う。
「原因、ですか?」
「はい。社会の仕組みなのか、誰かの意図なのか、あるいは――」
「ああ、そういうことじゃないです」
女は軽く手を振った。
「原因を探す必要はないんです」
あまりにも自然な否定だった。
「だって、救われるって決まっているんですから」
胸元の銀の輪に、指先が触れる。
「この世界がどうであれ、私は救われている。そこが分かれば、他はもう考えなくていいんです」
クララは、そこで確信した。この人は、苦しみを忘れたのではない。過去を否定したのでもない。元気で、前向きで、納得している。それでも、原因と結果を結ぶ線だけが、意図的に消されていた。
女との会話を終え、彼らは市場の通りを歩き始めた。人の往来は相変わらず多く、露店の呼び声も賑やかだ。だが、クララの意識は先ほどの言葉のやり取りから離れなかった。女は、自分が何に苦しんでいたのかを、具体的に語っていた。貧しさ、報われなさ、人との摩擦。どれも現実的で、理解できる話だった。問題は、その先だった。なぜそうなったのか、どうすれば変えられたのか。その問いに踏み込んだ瞬間、会話は必ず、救われている、という一点に収束する。考えなくていい、という結論に向かって。
「……分かってきました」
クララが低く言う。
「考える力を奪われている、というより……考える必要がない、って教えられている」
ルヴェリスは静かに頷いた。
「ええ。苦しみの記憶や説明は保持されている。ただし、それを分析し、構造化し、対策を立てる工程が、別の概念に置き換えられています」
「救い、ですか」
「はい。結果が先に与えられている。だから途中を検討する意味がない」
通りの向こうで、金属を打つ音が響いた。鍛冶場だ。重い鎚の音が一定の間隔で続き、火花が散っている。その前を、何人ものドワーフが行き交っていた。逞しい体躯、煤けた服、腰には工具袋。彼らの胸元に、銀の輪はない。伊織がその様子を一瞥した。
「ドワーフは、ほとんど関わってないな」
ルヴェリスが補足する。
「彼らの社会は、技能と成果が直結しています。努力すれば結果が出る構造が、生活の中で可視化されている。光輪の教えは、その前提と相容れないのでしょう」
クララは、鍛冶場の奥で真剣な表情で作業するドワーフを見た。失敗すれば、形が歪む。叩き直せば、修正できる。原因と結果が、常に目の前にある。
「困窮も、比較的少ない」
「ええ。技術が蓄積され、需要が安定している。少なくとも、“努力しても報われない”という感覚は、広がりにくい」
視線を戻すと、人間の通りでは、先ほどと同じ銀の輪が目に入る。施しを受ける者、輪に触れながら語り合う者、子どもに優しく声をかける母親。表情は穏やかだ。クララは、はっきりと理解した。光輪の奇跡は、誰にでも届く教えではない。努力と結果の関係が見えにくく、世界に対する不信と諦念を抱いた者ほど、強く引き寄せられる。そして一度、救われている、という結論を受け取れば、その前提を疑う理由は消える。考え続けてきた者ほど、その軽さに安堵してしまう。ルヴェリスが、静かに言った。
「これは教義ではありません。“思考の侵略”です」
誰も反論しなかった。
その後の数日、リオたちは普段どおりの行動を続けた。調査のために何かを仕掛けたわけではない。食料を買い、消耗品を補い、必要があれば相場を尋ねる。市場に足を運ぶ理由は、これまでと変わらなかった。違うのは、そこで返ってくる反応だった。
最初のうちは、気のせいだと思える程度だった。話しかければ返事は返る。愛想もある。だが、以前なら自然に続いていた説明が、途中で切れるようになった。光輪の奇跡についても、求められれば語ってはくれる。ただし、語られるのは結論だけだった。
「信じる者のみ、救われます」
その言葉の先が続かない。なぜそう考えるのか、どうしてそう信じるに至ったのかを問うと、曖昧に笑って話題を変えられる。怒りも拒絶もない。ただ、それ以上話さない、という態度が一様に取られる。誰か一人がそうなったのではない。市場で顔を合わせる人間の多くが、同じ調子になっていた。以前はそれぞれの言葉で語っていた信徒が、今は自分なりの説明を避ける。理由を聞かれること自体を、自然にやり過ごす。
市場を歩く中で、もう一つ、はっきりしてきたことがある。伊織に向けられる周囲の反応だった。最初は、後から思い返して気づく程度の違和感だった。子どもが一瞬こちらを見て、親の背後に回る。商人が挨拶を返しながら、距離を詰めない。声が、わずかに落ちる。その場では、決定的とは言えない。だが、同じ場面が重なるにつれ、無視できなくなる。誰も何も言わない。ただ、伊織の前で、反応が変わる。それが続いていた。
宿に戻ると、リオは市場と酒場で見聞きしたことを順に話した。信徒たちが以前のように説明しなくなったこと、理由を問われると話題を変えること、会話が途中で終わるようになったこと。伊織への反応についても触れたが、評価は控え、起きている事実だけを並べた。クララは静かに聞き、やがて言った。
「拒まれている、とは少し違う。答えないだけ。話を続けない、という選択を取られている」
ルヴェリスはしばらく考え、首を振った。
「自然ではありません。個々の判断にしては、時期が揃いすぎています。内容が変わったのではなく、対応の仕方が変わった。詳しく話さない、深入りしない、という行動が広い範囲で同時に見られる」
リオが問う。
「誰かが関わっている可能性は?」
「高い。ただし、何を話すかを教えたのではない。協力しない、という態度を取らせている。説明が減るのは、その結果です」
そこで、伊織が口を開いた。
「嫌なやり方だが……賢いな」
全員がそちらを見る。
「考えなくていい。責任も取らなくていい。理由を持たなくて済む。しかしそうなれば、人は人たり得なくなる」
ルヴェリスは短く頷いた。
「ええ。今見えているのは、まさにそれです」
部屋に静けさが落ちた。街に混乱はない。敵意もない。ただ、説明が消え、踏み込めない領域が増えている。その変化だけが、確かに進んでいた。クララが、少しだけ眉を寄せる。
「それは……支配、ということですか」
伊織はすぐには答えなかった。少しだけ間を置いてから、低く言う。
「……支配だ」
伊織は短く言った。
「しかも、始末が悪い。考えなくていいと言われた瞬間、人は自分で選ぶことをやめる」
誰も口を挟まなかった。
「戦で、命令だけを待つ兵士がいる。前に出ろと言われれば出る。止まれと言われれば止まる。考えなくて済む。責任も、理由も、背負わなくていい」
そこで、伊織は一度言葉を切った。
「そんな戦が終わって、あとに残るものは何だと思う?」
問いは、誰か一人に向けられたものではなかった。
「踏みつけられて、倒れた草木だけだ」
即答だった。部屋に静けさが落ちる。ルヴェリスは、その言葉をすぐには受け取れなかった。戦の後に荒れ地が残ること自体は、特別な話ではない。むしろ当然だ。だが、しばらくして、はたと気づく。伊織は、戦場の話をしていない。命令に従い、考えることを放棄した人間の行き着く先を語っているのだ。意思を失った存在は、人ではなくなる。ただそこに在るだけのものになる。踏まれても、倒れても、抗わない草木と変わらない。だから、戦のあとに残るのは、人ではない。ルヴェリスは、静かに息を吐いた。
「……なるほど」
それ以上の言葉は、必要なかった。
夜更け、ルヴェリスは宿の窓辺に立ち、星の並びをぼんやりと眺めていた。冷えた空気が、思考を静かに整えていくはずだった。だが、浮かぶのは伊織の顔ばかりだった。軽口を叩き、無遠慮に笑い、時に粗暴にも見える男。その一方で、先ほどのように遠い目をして、重い言葉を淡々と置く姿が重なる。その落差に、心が引っかかる。
気づけば、また伊織のことを考えている。ルヴェリスは小さく息を吐き、理由の分からない戸惑いを抱えたまま、夜空から目を離した。




