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クロムヘヴンの偽導者  作者: 甘栄堂
第二章:侵食の兆し
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第二話:修道院巡り

 炊き出しの鍋から立つ匂いは正直だった。豆と麦が煮崩れる甘さ、脂の残り香、煤けた鉄の匂い。腹を満たすためだけの、嘘のない匂いだ。だから伊織は、その場に揃った銀の輪が、ひどく場違いに見えた。


 施療所の裏手に設けられた炊き出しは、宗派の管理下にある場所ではない。怪我人や孤児、日雇いの者が集まり、職員が淡々と器を配る。信仰を示す必要のない場――少なくとも、これまではそうだった。


「……そちらの方から順に。輪をお持ちの方は、こちらへ」


 声は穏やかだった。急かすでもなく、命じるでもない。だが、その言い回し一つで、人の流れが分かれた。抗議は起きない。理由を尋ねる者もいない。ただ胸元へ視線を落とし、自分がどちらに属するかを確かめる。その沈黙が、伊織には不自然に思えた。


 伊織は、そういう静けさを信用しない。声が荒れる前に判断が止まり、刃が抜かれる前に向きだけが決まる。そういう場面を、いくつも見てきた。


 列の端で、子どもが大人の言葉を真似ていた。胸に手を当て、どこかで聞いた調子のまま、意味も分からず口にする。


「……輪は、えらばれた人のしるしなんだって。なにもしなくても……」


 言葉は途中で途切れる。内容を理解しているわけではない。ただ、耳に残った響きだけが、幼い口を通ってこぼれ落ちる。リオはその様子を一度見回してから、伊織に向き直った。


「先生。ここは施療所の炊き出しです。特定の宗派が前に出る場所ではなかったはずですが」

「ああ」


 伊織は短く応じた。


「妙だよなぁ」


 腹を満たす場所で、いつの間にか立ち位置だけが揃えられている。誰かが命じたわけではない。だが、甘い言葉が先に置かれ、考える前に受け取ってしまう形が、すでに出来上がっている。伊織は、その違和感をまだ名付けない。これは信仰か、熱狂か、それとも別の何かなのか――今は判断できない。ただ一つ、偶然で済ませていい光景ではないことだけは、はっきりしていた。


 炊き出しの場を離れると、通りの空気がわずかに変わった。鍋の匂いが薄れ、人の流れもほどける。だが、胸元の銀色は消えない。行き交う者の何人かが、無意識の仕草で輪に触れていた。


 次に向かったのは、街の北寄りにある小さな教会だった。石壁は古く、尖塔も低い。学術院に付随する形で建てられた在来宗派の施設で、暦や星回りの記録を残すことを主とする。祈りはあるが、声を張ることはない。世界の理を読み、整えるための、静かな信仰――それがこの教会の本来の姿だった。


 扉を叩くと、年配の司祭が顔を出した。衣は簡素で、胸元に装飾はない。視線は穏やかだが、来訪者を値踏みするような慎重さが滲んでいる。


「ご用件は」


 リオが名を告げ、調査の目的を簡潔に伝える。司祭は一度だけ頷き、周囲を気にするように通りへ視線を走らせてから、彼らを中へ招き入れた。


 堂内は静かだった。書架には星図や年代記が並び、祈祷文は最小限に留められている。信仰を誇示する意匠はなく、学びの場に近い空気が保たれていた。少なくとも、見た目には。


「光輪の教えについて、お考えを伺いたい」


 リオの問いに、司祭はすぐには答えなかった。ほんの一拍、言葉を選ぶ沈黙がある。


「……我々は、在来の教えを変えるつもりはありません」


 否定から入る。その選択自体が、警戒を示していた。


「救いとは、積み重ねの先にあるものです。行いであり、生き方であり……突然“選ばれる”という考え方とは、本来、相容れない」


 司祭はそう言ってから、言葉を切った。そこで終わらせることもできたはずだが、続ける。


「ただ――」


 その一語が、場の空気を少しだけ重くした。


「街には、すでに“救われた”と感じている者が大勢いる。その感覚そのものを、誤りだと切り捨てることは……容易ではありません」


 正面からの否定を避ける言い回しだった。肯定もしないが、線も引かない。クララは司祭の顔を見た。そこに迷いはない。あるのは、判断を先送りにする覚悟だった。


「危険だとお考えですか」


 ルヴェリスが静かに問う。


「危険かどうか、という言葉では測れません」


 司祭は首を振った。


「ただ、我々が声を荒げれば、何が起きるかは分かる。救いを否定する側に立つことになる。それは……信仰の在り方として、正しいとは言えない」


 在来宗派としての矜持が、はっきりと滲んでいた。迎合ではない。だが、沈黙を選ばざるを得ない立場でもある。


 教会を出て、石段を降りながら、しばらく誰も口を開かなかった。最初に沈黙を破ったのは、ルヴェリスだった。


「司祭のお話の仕方ですが」


 リオは歩調を緩め、視線を向けた。


「はい」

「光輪の教えについて、否定はされていました。しかし、“誤りである”とは一度も言及されていません」


 言葉を選びながら、丁寧に続ける。


「危うさには触れています。ただし、その危うさが何に由来するのか、どこまで許容できないのか、その線引きは示されませんでした」


 クララが頷いた。


「結果として、聞いている側は判断を委ねられた形になります。でも実際には、“救われたと感じている人がいる”という前提だけが残る。そこに反対意見を重ねると、その人たちを否定することになってしまいます」


 伊織は石段を降りながら、静かに聞いていた。


「つまり」


 と、伊織が短く促した。ルヴェリスは視線を前に向けたまま、静かに続けた。


「光輪の教えに賛同するとも否定するとも言っていません。ただ、反対の立場を取った場合に生じる不利益だけは、はっきり示されていました」


 伊織は小さく息を吐いた。


「なるほどなぁ。危ういとは言うが、誤りだとは言わん。あれでは、誰も前に出られん」


 クララは、炊き出しの場を思い出しながら言った。


「あの場所でも、理由の説明はありませんでした。ただ、“輪を持つ人が先に配られる”という事実だけがあった。誰もそれを正当化していないのに、誰も異を唱えなかった」


 リオが静かに補足する。


「否定する理由が提示されていない。だから、疑問も声にならない、ということですね」


 伊織は歩みを止め、通りを一瞥した。


「……妙だよなぁ」


 声は低く、独り言に近い。誰かが強制したわけではない。だが、違和感を口に出す理由も、同時に失われている。街は相変わらず静かだった。その静けさが自然なものなのか、それとも、そう見えているだけなのか。答えは、まだ出ない。


 そのとき、背後で誰かが足を止めた気配がした。振り返るほどではない。だが、一瞬だけ、確かに視線が絡んだ感触があった。通りを折れ、家並みの影が濃くなる。人の足音が減り、代わりに小さな声が耳に届いた。路地の奥、石壁の陰に、子どもたちが集まっていた。遊んでいるようで、どこか違う。声は小さく、動きは揃っている。胸に手を当てる仕草も、言葉の出る間も、まるで打ち合わせたかのようだった

「……輪は、えらばれた人の……」


 一人が言うと、少し遅れて、別の子が同じ調子で続ける。


「……なにもしなくても……」


 途中で止まり、次の言葉を探すように首を傾げる。その様子を、誰も不思議がらない。セリアの足が、そこで止まった。


「あ……」


 声が漏れた瞬間、自分でも理由が分からなかった。ただ、背中に冷たいものが走った。


「……ねえ。これ」


 クララが振り向く。


「さっきの炊き出しのときと、同じだ」


 セリアは、子どもたちから目を離さないまま続けた。


「言葉も、言い方も。……場所、違うのに」


 伊織が、低く応じる。


「偶然じゃねぇな」


 子どもたちは、誰かに教わる様子もなく、同じ言葉を繰り返す。意味を確かめるでもない。ただ、口に出せば落ち着く、というふうだった。


「……あたし、これ嫌だよ」


 セリアは、はっきり言った。


「だって、同じ言葉なんだよ。ここにいる子も、さっきの子も」


 少し間を置いて、続ける。


「考えて言ってない。思い出してもいない。ただ、出てくる」


 クララは、その言葉を受け取るように頷いた。


「意味より先に、形だけが広がっている」


 伊織は、子どもたちを一瞥した。


「流行り文句と同じだ。だが……」


 言葉を切る。


「早すぎる。揃いすぎている」


 そのときだった。路地の向こう、壁際で、誰かが足を止めた気配がした。こちらを見ていた視線が、一瞬だけ絡み、すぐに引く。振り返るほどではない。だが、確かに見られていた。子どもたちは、まだ同じ言葉を繰り返していた。意味を確かめるでもなく、胸に手を当て、覚えた調子だけをなぞる。


「……輪は、えらばれた人の……」

「……なにもしなくても……」


 声は揃っているようで、誰も互いを見ていない。ただ、口に出すことで落ち着くかのように、同じ断片を吐き出している。その背後で、空気がわずかに動いた。リオは視線を上げず、気配の方角だけを意識した。壁際、荷箱の陰。人の流れから半歩外れた位置に、立ち止まる影がある。


 いる。


 確信は、直感に近かった。伊織が、ほとんど息だけで言う。


「……来てるな」


 人影は、子どもたちを見ているようで、実際にはこちらを窺っていた。視線が一瞬だけ合い、すぐに外れる。あのときと同じだ。石段の下で感じた、あの感触。人影は、ゆっくりと一歩下がった。逃げるための動きだった。


「行きます」


 リオが踏み出した瞬間、人影は走った。合図も、叫びもない。ただ、追われると知っている者の動きで、路地の奥へ消える。石畳を蹴る音が重なり、距離が一気に縮まる。人影は軽い。迷わず角を曲がり、裏道へ滑り込む。


「速い……」


 セリアが息を詰める。市場の裏手に抜けると、人が増えた。荷車、行商、通りすがりの旅人。人影は一瞬だけ減速し、そのまま人波に紛れ込む。伊織が低く舌を鳴らした。


「……素人の動きじゃねぇな。尾けて、離れる手を知ってる」


 銀の輪は見えない。衣も、街の人々と変わらない。だが、ためらいのない動きだけが、目についた。 路地を二つ、三つ抜ける。人影は一度だけ振り返った。その目が、確かにリオを捉えた。次の瞬間、角を曲がり、姿が消える。行き止まりだった。


 はずだった。


 古い倉庫の裏口が、半ば開いている。中は暗く、すでに誰かが通り抜けた気配だけが残っていた。伊織が足を止める。


「……ここまでだな」


 追えないわけではない。だが、その先に何があるか分からない。罠か、単なる逃げ道か。判断に必要な情報が足りなかった。リオは短く首を振った。


「撤きましょう」


 セリアが悔しそうに唇を噛む。


「逃げられた……」

「違う」


 伊織が、静かに言った。


「逃げたんじゃねぇ。見せたんだ。見てるぞ、ってな」


 通りに戻ると、子どもたちはもういなかった。遊びに飽きたように、それぞれの方向へ散っている。ただ、同じ言葉だけが、耳の奥に残る。クララが、低く言った。


「……把握されていますね。こちらの動きが」


 ルヴェリスが頷く。


「ええ。調べている段階から、すでに監視の対象になっています」


 セリアは、子どもたちがいた場所を見つめたまま、ぽつりと言った。


「ねえ……もう、広がってるんだよね」


 誰に言うともなく。リオは答えなかった。否定も、肯定もしない。街は静かだった。店は開き、人は行き交い、祈りの声も聞こえない。だが、今日見たものは消えない。同じ言葉が同じ調子で、意味を伴わないまま、巡っている。伊織が、ゆっくりと息を吐いた。


「……面倒な相手だ」


 誰も笑わなかった。銀の輪は、まだ遠い。だが、その影は、確かに街全体へ伸び始めていた。日が落ちきる前に、彼らは宿へ戻った。街のざわめきは夕餉の準備へ移り、昼間の出来事が嘘のように薄まっていく。


 〈青鱗亭〉の食堂は、いつも通りだった。湯気、笑い声、木椀の触れ合う音。だが、卓についた誰もが、しばらくは供された料理に手をつけなかった。最初に口を開いたのは、伊織だった。


「宗教を見に来たつもりが、見張りに会うとはな」


 冗談めいた口調だったが、笑みはない。


「……想定、甘かったかもしれません」


 リオはそう言って、指を組んだ。判断を急がない声だった。クララは、杯に注がれた水を見つめたまま、静かに言う。


「教義そのものより、広がり方が問題です。あれは……人が考える前に、口に出る形になっている」


 ルヴェリスが頷いた。


「ええ。否定や反論が出る前に、同調だけが進む。術理で言えば、準備された回路です」


 セリアは、少し遅れて顔を上げた。


「……子どもがね」


 一言だけで、全員が察した。


「意味、分かってないんだよ。でも、同じこと言う。安心してる顔で」


 言葉を探すように、少し間を置く。


「あたし、ああいうの……嫌だ」


 誰も否定しなかった。外では鐘が鳴り、夜の帳が下りる。街は眠りに向かっている。だが、今日見たものは、眠らない。


 それぞれの胸に、重さだけを残していた。


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